026「迷うなよ! さくらん!」「……ありがとう」

 僕の世界は、僕が認識できる範囲にしか存在し得ない。だから例えば、僕と疎遠になってしまった今現在の楓の様子だとか、その間に楓と長谷部がしたやりとりだとか、今日の峰岸が誰と会っていて何をしているかだとか、そういうことを知る術はなくて、それ即ち、世界の外側にある出来事で、僕自身とは接点を持たない。


 それらは、目を背けるどうこうの話ではなく、最初から見ることができないのだ。触れたくても触ることができない事柄たちなのだ。


 ならば。如月が言ったこと、馬鹿げた憶測の真相は確かめるまでもなく、僕とは関係のないことだ。たとえ、百歩譲って、如月のいうとおり楓の様子がおかしかったとして、その原因が僕との間にあるものだとて……。


「どうでもいいはずなんだ、ホントに」


 独り言つ。それから、これは自己正当化ではない、と言い聞かせた。


 しかも、だ。やはりどうしたって、楓にしてやれることなんて、今の僕にはただ一つもないのだ。


 だのに。




「陽平くんは、フラれたことで、全部終わったと思っているわけ?」


「楓との十年間が、全部、なくなっちゃったって、そう思ってるんだ!?」


「勝手に終わりにしないで。楓とのこと」




 楓との十年間を、終わりにしないで。




 そういう如月の叫びが、僕の胸に真っ直ぐ突き刺さってしまっていたことに、気づかぬわけにはいかなかった。


 正しかったから。あの告白が、この十年間を終わらせてしまったと思っていたから。この十年間に一度ピリオドを打ったつもりだったから。楓とは交わることのない、また別の未来を生きていくつもりだったから。


 それでも、終わらせたことへの痛みが、心のどこかに、存在していたから。


「…………」


 自室。壁時計に目をやる。


 現実から逃げたい気持ちが湧き上がってきて、ふと、びちこの声を思い出した。午後六時半。いま電話したら、彼女は出てくれるだろうか。それとも、まだ早すぎるだろうか。


 スマホを、取り出す。通話履歴の画面、上から下まで並んだ、同じ番号をじっと見つめる。


「…………。びちこだって、さすがに、授業、終わってるよな」


 言い訳みたいに、呟く。


 結局、僕はその十一桁の番号をタップした。スマホを耳に当てる。呼び出し音が鳴る。なかなか、出ない。九度目のコールが鳴って、「やっぱり早かったか」と諦めかけた時だった。


「……もしもし」


 びちこが、出た。


「今日は早いね。どしたの、さくらん?」

「…………」

「あれ? 聞こえてる?」

「……あ、うん。聞こえてる」


 喉の奥から絞り出すように、声を発する。なぜだろう。びちこの声を聞いて、一瞬、泣きそうになってしまったのだ。


「え、なになに。テンション低いじゃん」

「……いや、そんなことないよ」

「そんなことありそう。もしかして、泣いてる?」

「な、泣いてねーよ」

「…………」


 沈黙が返ってくる。慌てて、声を明るめた。


「いや、なんだ、昼寝? しちゃってさ、寝起き、でさあ」


 それっぽい嘘で、誤魔化す。上手に出来たと思った。


 が、


「……バレバレ。なんかあったんでしょ」


 びちこには、簡単に見破られてしまった。


「…………べつに、」

「いーよ。話しなよ」

「……」

「聞いてあげるから。私でよければ」


 その言葉に、甘えてしまいたくなる。自分の不甲斐なさや、だらしなさに目を伏せて、彼女の優しさに寄りかかりたくなってしまった。


「…………」

「ほら」

「……僕さ、」


 これまで、ありとあらゆる言い訳で蓋をしてきた感情のダムが、決壊するような鈍く大きな音が、胸中で、響いた。


「うん」


 僕の世界は、僕が認識できる範囲にしか存在しない。そういう狭い世界の中で起きた、僕と深く関わりがあるいくつかの──楓との出来事。


「好きな人が、いてさ」

「うん」


 それらが、記憶の中で蘇る。もう終わってしまったハズの出来事ばかりのはずなのに、まだ微かに形が残っていて、ガラスの破片がキラキラと光を反射するように、明滅していた。


「もう、その人のこと、忘れようとしてたんだけど」

「うん」


 破片の角は鋭くて、さわれば傷つきそうで、だから今まで触れようとしてこなかったそれらに、記憶の中、僕は手を伸ばす。


「……でも」

「うん」

「……分かんなくなっちゃって」

「うん」

「諦めたはずなのに……」

「……うん」

「前みたいに、さ、もう一度……」


 声が震える。深呼吸をする。そして、


「……その子の──楓の隣に、いきたいんだよ」


 言った。


   ***


 気づけば、これまでの殆どをびちこに喋ってしまっていた。楓と僕が、どのくらいの期間、どういう関係性でいて、いつしかその関係の先を願ってしまって、二度目の告白をした、ということ。その結果、関係性は発展するばかりか破綻してしまって、それを僕は──悔いていること。


 言葉を選ぶことなく、率直な今の思いを、開き直ったように全部、言った。


 その間、びちこは相槌に終始してくれた。彼女が繰り返す「うん」がどれほど、僕の気持ちをほぐしてくれたか分からない。おかげで、言葉も感情も、すらすらと流れ出ていった。


「ありがとう」


 独白を終えた僕に、びちこが言った。


「……なにが」

「話してくれて。君のこと、教えてくれて」

「……ごめん」

「なんで謝るのさ」

「君には、関係のないことを、喋っちゃったから」


 にひひ。いつもの笑い声が聞こえた。


「……関係、なくないよ」


 どういうこと、と小声で尋ねる。


「さくらんの恋が終わらないうちは、私との運命なんて、ありえないんだからさ」

「…………」

「君の恋の行方は、私にとっても、重要なことなんだ」


 心がキュッと締め付けられたような気分になる。


 この人はどうしてこうも、優しい言葉を吐けるのだろう。不覚にも、そう思ってしまった。


「ねぇ、さくらん」

「なに……?」

「その子のところへ、行かなくていいの?」


 囁くように、鼓膜を撫でるような声で、彼女は言った。


「……え?」

「君の恋は、終わってないんでしょ?」


 終わっていない。その言葉は、僕に効いた。俯いたまま、何も言えなくなる。


 終わった、終わらせた。そう何度も自分に言い聞かせてきたのだ。なのに、こうしていとも簡単に否定されると、どうしたらいいか分からなくなるのだ。


「………言い方を変えよう」びちこが続けて言う。「その子との関係は終わらせちゃいけない。自分でも、そう思っているはずでしょう?」


 終わらせちゃいけない、なんて思ってない。そう反論したかった。むしろ、終わらせたことにした方が傷つかずに済む、とさえ。


 でも本心を言えば──。


「…………」


 ──嫌だった。嫌だ、ってことに、もう気づいてしまっていた。


 びちこが続ける。


「そりゃあさ。その恋は実らないかもしれない。分からないけど。でもさ、そういう事じゃないんでしょ」


 そういうことじゃない、ってなに。心の中で尋ねる。


「なんだろう。難しいけど……少なくとも、私はさ、」

「……なに」

「その子との出会いを、もっと大切にして欲しいと思うんだよね」


 出会い。


 どういう意味だろう、と思った。僕と楓の関係性において、今更使うような言葉じゃないような、そんな違和感があった。


 少しの沈黙が流れる。僕は何も言えなくて、びちこは僕の反応を待っているような、沈黙。


「……ねぇ、さくらん」先に口を開いたのは、びちこの方だった。「人が会えるのって、生きているうちだけなんだよ」

「何の、話」


 尋ねる。


「君とその子の話だよ」

「……すごく、当たり前のことを言われた気がする」

「当たり前のことだよ。でも、その当たり前のことを、君たちは蔑ろにしているから」

「…………」

「生きているうちしか会えない。でも裏を返せばさ、生きていればいつだって何度だって会えるはずなんだよ」


 いつだって、何度だって、会える。はず。


 やはり、当たり前のことの繰り返しにしか聞こえなかった。


 でも、と思う。


「だったらさ、もう会えなったり話せなくなったりなるなんて、そんなのって切なすぎるじゃない」


 そうか。このまま、全てを終わらせてしまったとしたら、僕らは。


 僕と楓は、そんな当たり前の機会さえ、失くしてしまうのか。


「だから、私は、その子とちゃんと向き合った方がいいと思う」


 沈黙。


「どんな形であれ、いつだって何度だって会えるような二人でいて欲しい、って思う」


 それから、


「そういう話を、して欲しい。そう思う」


 僕は、深く息を吸い込んだ。


「……出会い、ってさ、そういうこと?」


 なぁに、と僕を包み込むような声が返ってきた。


「出会ってしまった以上、終わりなんて無いって、言いたいわけ?」


 小さな笑いが聞こえた。


「名翻訳家じゃん。私の言いたいこと、まとめてくれてありがと。……そう。私は絶対に、そう思うんだ」

「……なるほどな」

「うん。告白が失敗したくらいで、十年前の出会いをフイにするなんて、できるわけがないじゃん。人間関係なめんなよ、童貞くん」

「いま童貞いじらなくていいだろ……」

「にひひ」


 その笑い声を聞くと、心が落ち着いた。もはや、僕の精神安定剤になりつつあるみたいだ。


 不覚だ。本当に不覚の極みだ。


 初めて会った時、僕は彼女に悪い印象を抱いた。それから一度目の再会、そして、毎晩通話するようになるまでの間──何度、彼女のことを訝ったか分からない。


 それでも今となっては、彼女との出会いさえ、僕にとっては、抱きしめたくなるほど、大切なものに思えてしまっている。


「だからさ──」


 電話の向こうで、びちこが息を吸い込む音が聞こえた。その音に重なるように、僕も深呼吸をした。


「迷うなよ! さくらん!」

「……うん」

「まだ間に合うよ! さくらん!」

「……うん。……ねぇ」

「なに?」

「……ごめん。僕、今から、行かなきゃいけない気がする」


 電話の向こうで、もう一度、にひひ、という声が聞こえた。


「頑張れ。その子と、ちゃんと話をしてきなよ」

「……ありがとう」


 僕は決心したのだ。


 どんな形であれ、もう一度、楓の隣にいられるように──僕は、楓と、ちゃんと話そう。


 電話を切る。通話終了の画面から、ホームに戻る。すると、チャットアプリに、メッセージが二通、届いていることを確認した。


 相手は、峰岸だった。


 僕は、それを開く。



『なぁ、陽平。やってからする後悔と、やらないでする後悔。どっちがいいと思う?』



 何の話だろう。そう思って、次の段落に視線を動かした。



『俺はさ、後悔しない方がいいと思う』



 思わず、笑ってしまった。それを言うと、元も子もないじゃ無いか。


 相変わらず、峰岸はバカだ。


 けれど、


「お前の言う通りだよ。後悔しない方がいい」


 僕は前を向いた。


 自室を飛び出していく。玄関を抜け、外に出た。


 辺りはもう夜に包まれている。今日が終わるまで、あと少しだ。


 新しい明日が、もうすぐそこまで、迫っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る