Episode.02

008「おーはよっ!」 「何キャラなんだよ、それ」

 気がつけば、そこは真っ暗な寝室だった。ベッドの枕元横、ナイトテーブルに置かれた間接照明が、視界をわずか半径数センチ、広げてくれている。


 見えるのは、眼前にある女性の顔。


 艶やかで、可憐な、薄い唇が動いた。


「やっと、会えたんだよ?」僕の太ももに、指先が触れた。「とびきりのを、シようよ」


 指先が太ももをなぞるように動く。ひんやり、冷たかった。僕の身体は、とうに硬直している。金縛りでも食らっているみたいだ。


 這う。指の冷たさが、僕の身体の上へ上へと、ゆっくり這う。このまま、体温をすべて奪い取られるような気さえしたけれど、不思議と、上半身は熱を帯びていた。


「緊張……してる? ……大丈夫だよ」


 僕を慰めるような口調で、正面の人物が言った。


 僕は、彼女の──びちこの顔を、正面から、見た。


「優しく……シてあげる……からね……」


 びちこの顔が近づく。反射的に仰け反る。両手が、床に着いた。ふかふか。手のひらに布団の柔らかさを感じて、その直後、びちこの吐息が、僕の頬を撫でた。


「……ちょ、び、びちこさん?」


 彼女の唇と僕の唇が近づく。今すぐにでも触れそうな距離だ。


 心なしか、息が荒い。僕も、びちこも、だ。


「だッ……」体勢はそのままに、声を出す。「ダメですよッ……びちこさん……!」

「ふふっ……」


 びちこの動きは止まらない。ゆっくりと、徐々に、距離は縮まっていく。


「ぼ、僕には……好きな人がいるんです……!」

「関係ないよ」

「ありますよ……! こんなこと、ダメです。シたら……もし、シちゃったら……楓に合わす顔が……」


 ベッドに倒れこむ。びちこが、覆いかぶさるように、両手を僕の頭の両横に、着けた。


 逃げ場は、もう無かった。


「なに言ってんの……? 陽平くん?」

「は、はい……」

「こんな──」


 それからびちこは、僕の右頬に顔をピッタリとつけて、優しく耳元で囁くように、


「──こんな夢見てる時点で、もう合わす顔はねーだろ」


 言った。


   ***


 飛び起きる。


「…………」


 日光。鳥のさえずり。目覚まし時計のけたたましい音。寝汗。布団の感触。


「……………………」


 正面。当然のように、びちこの姿は、無い。


「…………あああああああああああああああああああああああ」


 最悪だ。最悪だ。最悪だ。僕は……。


「僕は……なんという……アホみたいな夢を……」


 六月一日。水曜日。午前七時二分。

 僕は、自室のベッドの上で悶えていた。


   ***


 ぜーーーーーんぶ、峰岸のせいだ。


 リビングで食パンを齧りながら、僕は胸中で言い訳を吐いた。


 いやいや、言い訳なんかじゃない。事実だ。完全に峰岸のせいだ。


 昨日の放課後、峰岸が「びちこ」の話を持ち出してきたのが原因に違いない。僕にとって、土砂降りの日の出来事は、もはや忘れかけていた話題だったし、あいつが「びちこを見つけ出そう」とか言いださなきゃ、思い出すことはなかっただろう。彼女が夢に登場することだって、あり得なかったはずなのだ。


「はぁ……」


 後悔の念と峰岸への嫌悪を体外へ吐き出すように、僕は溜息を漏らした。


「おいおい陽平」


 食卓。向かいで父親が言った。


「溜息なんて吐いて。幸せが逃げていくぞ」

「……もう逃げるほど幸せなんて残ってねーよ」


 自虐を一言。パンを一口。


「おー、そうかい。そうかい」


 父親がヤケに明るく、返した。


「……なんだよ、その反応」


 そう言って、視線を父親に向けた。ら、気づく。


 父親は、僕に視線を向けておらず、ガラス戸の外を眺めていた。


 その視線の先を目で追う。


 追って、驚いた。


「……か、楓……」


 楓が、我が家の前で、こちらへ大きく手を振っていたのだ。


 父親が、ニヤリと嫌らしい笑みを表情に貼り付けて、言う。


「幸せ、迎えに来てんぞ。陽平」


   ***


「おーはよっ! ……ボサボサだねぇ、髪」


 玄関先。楓が、僕の髪をつまむように触る。反射的に、その手を振り払った。


「だっ、もう。お、お前が、急かすからだろ!」


 あはは、と声を上げる楓。


「よーへいがゆっくりしすぎてたからでしょ?」

「いつもはもう十五分遅く出るんだよ。……これじゃ早く着きすぎちまう」


 腕時計に目を落とし、言う。


「遅刻するよか、何億倍もいいのだ!」

「何キャラなんだよ、それ」

「新キャラ。天才楓ボン!」

「語呂悪すぎだろ」


 楓の頭にツッコミのチョップ。いったー、と両手で頭を押さえながら、抗議の眼差しをくれる。……はぁ。かわい。


「……ほら、行くぞ」


 そう言って、楓の横を通り過ぎて歩き出す。楓は、「はーい」と明るい返事を一つして、トコトコと後ろから歩いてきて、僕の隣に並んだ。


 歩きながら、右目でちらり、彼女の横顔を見る。

 楓は、小さく鼻歌を奏でながら、微笑んでいた。随分と上機嫌なようだ。


「…………」


 なにか、いいことでもあったのだろうか、とつい訝る。


「……なあ」

「なーに?」

「……。いや、なんでも」


 けれど、どうも勇気が足りず、一度投げかけた質問をすぐに引っ込めてしまった。


「んだよー。朝からテンション低いなー。よーへいらしくないぞ」

「僕らしさ、ってなんだよ」

「ボサボサの髪で登校できる奔放さとか、思ったことを素直に言わない、他人本位からくる優しさとか、です」

「じゃあ、今の僕、百点満点じゃねーか。てか、微妙にディスってんじゃねえよ」


 あははー、と声を上げる楓。思った通りのツッコミが返ってきて、嬉しいみたいだ。


 しかし、やはり、今日の楓はいつもより元気そうである。


 ……まさか、と思う。


 昨日の今日だ。今日は、長谷部と一緒に帰った翌日なのだ。……彼氏ができた、つまり彼からの告白に「イエス」の返事をしたワケじゃないだろうな。


 あ、あり得る。ありえてしまうぞ、これは。


 だって、朝一番から、いつもの楓と違うのは明らかなのだ。


 そう。だって、そもそも。


「……か、楓」

「んー?」

「今日は、その……いつものやつと登校しないのか?」


 尋ねた。


 そうなのだ。僕を迎えに来るという時点で、いつもと違う。僕と楓は、一緒に登校などしない。


 帰る時は一緒なのだが、それはちゃんと理由がある。僕も楓も、同じ方向に帰る友達がお互いを除けばいない、という理由だ。僕も楓も帰宅部。友人は皆、放課後、部活動に忙しいのだ。そういうわけで、互いの孤独を埋め合うように、いつしか一緒に帰るようになったのだ。確か、去年の夏休み後から、そうなったのだと思う。


 でも、朝は違う。


 朝練がある部活なんて、うちの高校には殆ど無いし、ともすれば、僕はともかくとして、楓には登校を共にする友人がたくさんいるはずである。


 だのに。


 今日は、なぜ、僕をわざわざ迎えにきた?


 どういうワケだ?


「うん。今日は、ちょっとねー」


 楓は、そう、曖昧に誤魔化した。


「……そうか」


 そうなると、ますます怪しんでしまうじゃないか。


「あ、そうだ! よーへいさ」


 楓が、明るい声を上げた。さっきまでの話題は終了、と言わんばかりの切り替えだった。


「ん、あ、ああ。なに?」


 正直釈然としないが、明るく取り繕って返事をする。


「今日の二時間目、確か英語だよね? 三組」

「そ、そうだな。そうだった」

「たぶん、文法テストあるから気をつけなー。うち、前回あったから」

「え、まじ?」

「マジマジのガチ。文法苦手でしょ? 赤点取ったらマズイよー」

「……マズイな。ただでさえ、竹宮先生、僕のこと目つけてるのに。あと、峰岸も」

「そうなの?」

「……常習ですから。追試の」


 あはは、と楓が笑う。


「ふむふむ。それはそれは、お困りでしょうなぁ」

「胃が痛くなってきた……」


 なるほどねぇ、と言いながら、楓の顔がこちらに向く。


「なら助けてやらんこともないぞぉ、のびたくん」

「は?」


 僕も、楓の方を向いた。


 すると楓は、何やらカバンの中をゴソゴソと漁り始めた。そして、一冊のノートを取り出し、僕へと突きつけた。


「てってててってってー。復習ノート〜!」


 絶妙に似てない猫型ロボットのモノマネだった。


 ……いや、そんなことより、だ。


「はい! 貸したげる! 出題、全部載ってるから。暗記すれば、百点、間違いなし!」

「…………」

「いらないの? 早くしないと、未来に帰っちゃうぞ〜?」

「……さんきゅ」


 ……やっぱり、だ。なにかおかしい。


 十年来の付き合いだから、楓の考えていることはなんとなく分かるつもりだけど、たまに本心が読めない時がある。それが、今だ。普段なら、こんな気の回し方はしない。


 何を考えているんだろう。


 いいことがあったから──彼氏が出来たから、人間的余裕が生まれた、とか?


 訝りながら、復習ノートを受け取る。


「それさ、昼休みに返してくれればいいから。テスト頑張ってよ!」

「ああ……頑張る……」


 違う。絶対に、いつも通りじゃない。


 なんだ。なにがあったんだ。この明るさ、余裕、笑顔は一体、なにが原因で?


 結局。その問いに、答えが出ることは無かった。


 特別、「長谷部と付き合うことになった」という報告もなく、ともすれば昨日の下校時の話も一切なく、ただただ、僕らは一緒に登校した。


 不気味なほど明るい楓を隣にして、僕は、どこか落ち着かないまま、学校へ到着した。


   ***


 答えは出ないまま、時間は、進んだ。


 楓の言う通り、二時間目の授業では、文法テストが行われた。出題は、楓から渡された復習ノートの通り。


 正直、登校時の彼女がかもす違和感に頭の中を占拠されて、テストどころじゃなかったのだけど、問題を知っていた分、いつもと同じぐらいは解答することが出来た。まあ、いつもと同じって、ギリギリ赤点の瀬戸際くらいの点数ってことなんだけど。


 瞬く間に、午前中最後の授業。終業のチャイムが鳴った。


 結局、午前中は楓のことばかり考えて、終わってしまった。それもいつも通りっちゃいつも通りなんだけど。でも、今日の脳内会議は、いつもと指向が違う。


 このままだと、今日一日を、悩んで過ごさなくちゃいけなくなりそうだった。それはなんというか、居心地が悪い。


「…………」


 僕は復習ノート片手に、急いで席を立つ。教室を出て、左。直進。


 楓の教室は二年六組。廊下、一番奥だ。


 歩きながら、思う。ノートを返すついでに、訊いてやろう。今日の楓、なんか変じゃないか? と。それかもう単刀直入に……長谷部と、どうなったんだ? とか……は、流石に怖くて無理だろうが。


 でもとにかく、訊こう。なにかあったのか? それぐらいは。


 そう思って、六組の扉を開けた。


 扉の向こうには、空っぽの教室があった。


 ……いや、空、じゃない。


「ん? だれ? うちのクラスのやつなら、まだ体育の授業から帰ってきてないけど」


 ──一人だけ。赤みがかった長髪の女子が、文庫本片手に、椅子に座っていた。


「なんか用事?」

「あ、いや。……楓、に、用事があって」

「楓?」


 長髪が言う。立ち上がって、近づく。


「あー。君、どっかで見たことあると思った。あれだ。楓の幼馴染」


 彼女の声を聞きながら、僕はモデルみたいな人だな、と思っていた。


「……そうだけど」

「如月、美紀」


 僕の返事をかき消すように、長髪が、名乗った。


「アタシの名前。どーぞ、よろしく」

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