第34話 重なる
レバニラと坦々麺は家に帰るとすぐに一緒になった。
「ちょっと待って」と言うと「待てない」と言う。そんな子供みたいなところが時々かわいらしくて大きな体を抱えたくなる。そしていま、わたしが抱えられていた。
真っ暗な中、二階まで連れていかれる。何も見えない。来たことのないところは暗くて見当がつかない。
教師の部屋らしいところに着くと、ドサッとベッドに下ろされた。この家にベッドがある部屋があったことを初めて知る。
教師は上着を脱いだ。
かなり本気だ。
突然「抱く」と言い出した時にはなんの冗談かと思ったけど、玄関からお姫様抱っこされて、サンダルは脱げずにぶら下がって階段の途中で落ちた。
焦っているのかもしれない。
「先生、わたし今日は一日外に出てたから汗臭いよ」
「どうせニンニク臭いだろう?」
「ちっともロマンティックじゃない」
そうだな、と言って上から本気のキスが降ってきた。――入ってくる。やわらかく受け入れる。
一度顔が上がって、まじまじと彼はわたしの顔を見た。暗闇の中、目が慣れてきて彼の真摯な眼差しに出会う。
「ほら、お前も言えよ」
そんな言い方は狡いと思う。でもいままではっきり言わないで物事を有耶無耶にしてきたのはわたしだ。さっきまで彼と離れなかった唇を、舌を動かす。
「先生······耀二が好き。離れないでどこまでも追いかけてほしいの。捕まえてて」
「よし、ようやく本当のことを言ったな。ご褒美をあげないとな」
その後は長いキスが繰り返し、繰り返し降ってきて、唇はその後、わたしの唇以外のところも求めた。それはいかにも官能的で、こんなに求められていたのにわざとそういう関係を避けてきたことを申し訳なく思う。
わたしの唇も彼を求めて彷徨い、彼はんん、とため息をついた。
汗が、雨の雫のように上から降り注いできて、自分のものなのか耀二のものなのかわからない。とにかく濡れた体で必死にしがみつく。滑る手で、捕まえるように。
「耀二」
「どうした? いまさら怖いとか言うなよ」
「······怖いよ、好きな人とひとつになるのは」
「そうか、俺は期待値マックスだけど」
「······わたしも。お願い、来て」
きゅーっと胸の奥が締め付けられる。頭の中の何かがぽーんと飛んで行く。
彼の泳いでる姿を想像する。
飛び込み台から美しいフォームで着水し、逞しい腕と背中を使って、バタフライで泳いでいる。その力強い動きはわたしの本能に直接的に作用して、次第に息ができなくなってくる。
息が途切れることなく浅く続いて、苦しくて死にそうになってもう一歩もあるけないというようなところまで来て、「愛してるよ」なんて言わなくていいことをわざわざ付け加えられてわたしはもうだめになる。
彼もだめになった。
――そうしてわたしたちは重なってしまった。
「一度でいいの?」
「だってまだ息が」
「鍛え足りないな。今度は一緒にスイミングだ。甘いものを思いっきり食べても太らない体づくりだな」
「甘いもの······」
右手の指先はすべて彼のものだった。爪の先に舌が触るだけで特別な感覚がわたしを襲う。わたしはそんなことで自分が感じるなんて思ってもみなかった。胸を反らせて腰が浮く。何もかも彼の思う通りだ。
「どうだ? 結婚するなら俺だろう?」
「無理です」
「無理?」
「毎晩は無理······」
そうか、と一度体を離して彼は満足そうに笑った。そしてわたしの髪をぐちゃぐちゃにした。
「でもアイツと暮らした月日に全然、追いつかないだろう? 俺たちは千夜一夜物語みたいに夜を重ねなくちゃいけない」
「それだけが愛じゃないと思うし、それに先生の愛は重くて濃い」
「たまたま溜まってただけだよ。我慢してたからな、据え膳を前にして」
それはすみません、ともごもご謝る。でも誠とは本当に違って、指先一本、触られたらもう逃げられなかった。そう、わたしはもう逃げられない。『耀二』のものになってしまったから。
――そして『耀二』はわたしのものになった。
ピンポーン、とその時呼び鈴が鳴った。驚いて飛び起きる。気がつくと耀二のスマホに着信を知らせるランプがついていた。
「ちょっと待ってろよ!」
耀二は明らかにイライラした声で扉の外の誰かに向かって怒鳴った。
そんなに怒鳴らなくたって、と思いつつ、着ていたものを回収する。ぐちゃぐちゃになった髪をかきあげてひとつになんとか結ぶ。
どかどかと下りていった耀二を上から眺めてる。
「いや、そんなに怒るなよ。連絡してもふたりとも出ないから。有結ちゃんがまた困ってるかと思って差し入れがてら来たんだけど」
ほら、と葉山さんはメロンの箱を示した。そして耀二は見るからに不満そうだった。
「有結ちゃんは? ······ひょっとして出て行っちゃった?」
「いえ、葉山さん、いえ、ここにいます······」
バレてしまうことだろうか? 情事の後というものは特別な空気があるんだろうか?
一段ずつ、怖いなと思いながら階段を下りる。玄関の照明がさっきまでの暗がりに比べて目に痛い。耀二の後ろ側にわたしは立った。
「······何かあったのかと思ったけど、あったんだね。君たち、わかりやすすぎるよ」
葉山さんは自分の首筋に手を当てた。何だろうと思ってみると、自分のTシャツから見える胸元にもくっきり朱が見えた。
「耀二、もう少し先のことを考えて手加減してやれよ。これじゃ有結ちゃん、明日はタートルネックしか着られないでしょう?」
「手加減してやれないくらい切羽詰まってたし、余裕もなかったんだよ」
クソ、とあまり良くない言葉を使いながら耀二は一服しに行ってしまった。蚊に刺されるに違いないのに。
「んー、こういう場所に出くわしたことがないから何とも言えないけど、とりあえずシャワー浴びてきたら?」
「はい、すみません」
ダッシュで部屋に行き、着替えを調える。やだもう、なんでこんなことになっちゃったんだろう? 情事っていうのは人知れずするものじゃなかったのかな······? バレバレじゃないの。
もう恥ずかしくて葉山さんの顔が見られないと思ったところでふと思い出す。キュッとシャワーの水栓を閉める。
――明日はどんな顔をして誠に会えばいいんだろう?
タートルネックはこの暑さじゃ不自然だけど、襟ぐり浅めの服にパーカーでも羽織ればいいだろうけど。
もう彼のものじゃなくなったわたしは、どんな顔を――。全部、耀二にあげてしまった。
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