第33話  独占欲

 ただいま、と重い足を引きずって玄関に座り込む。自分はどうしてこんなに馬鹿なんだろう。

 あんなに酷い目に遭ったのに、まだ彼を信じたい自分がいるなんて……。あれもこれもみんな夢。いつかは覚めるんだから……。


「おかえり、どうした、こんなところに座り込んで。一日中病院にいて疲れたんだろう?」

「先生……ただいま戻りました」

「よし、ラーメンでも食べに行くか。少し待ってろ、支度してくる」

 履いていたサンダルのストラップが夕方の足のむくみで赤く痕になっている。それを脱いで、普段履いている足を入れるだけのやわらかいサンダルに履き替える。たったそれだけのことで気が楽になる。自分の家に帰ってきたという感じがする。

 まだここに住み始めてたった二週間といったところなのに――。

「お待たせ。背脂たっぷりの醤油の店と、味噌専門店のどっちがいい?」

「普通の」

「普通のって、せっかく連れて行くんだから美味しいところにしたいだろう?」

「だから、わたしの希望は普通の中華屋さん」

「……わかったよ。珍しいものはないぞ」

「そういうとこがいいの」

 わたしと教師は手を繋いで家を出た。気分は上々。あんな、辛気臭いところに長い時間いたのが悪いんだと思う。

 繋いだ手を揺らすと、おいおい、と教師は少し困り顔だった。それが面白くて暑苦しい中するりと腕を絡ませる。教師は斜め上を見て知らないふりをしていた。

 着いた中華屋は予想通りのところで、ラーメン各種と定食、ビールに紹興酒まであった。満点だ。


「何にする?」

「わたしレバニラ。時々すごく食べたくなるの」

「女のくせにレバニラかよ。まったくうちのお嬢さんには驚かされてばっかりだ。俺は坦々麺にするかな」

 すみません、と教師は店員を呼んで、店員は昔ながらに注文表を書いて裏へ行った。

「中華、好きなの?」

「雰囲気が。こう、活気があるでしょう?」

「まぁそうだな。確かに活き活きしてるな」

「子供の頃、家族でラーメンを食べに来たのを思い出すの」

 わたしの家族はよく言えば自由で、悪く言えば奔放だった。みんな、糸のついていない風船みたいに空に浮かんでいた。要するに誰も地に足がついていなかった。

 教師はその話に興味を持ったようだった。

「お父さんは普通に働いてるけど、いつか小説家になるんだっていまもまだ原稿を書いては出版社に送ってる。お母さんは家のことはそっちのけでPTAやママさんバレーで知り合った人たちとカルチャースクールやホームパーティにどっぷりハマってる。兄貴はありきたりだけどミュージシャンになりたくてYouTubeで歌ってる。それでわたしは自称イラストレーター」

「すげえなぁ」

「でしょう? みんな好き放題なの。でもおかしいんだけどわたしにだけ普通の女の子になれってうるさいの。実家に戻って、ちゃんとした人を見つけて結婚しろって」

「かわいがられてるわけだ」

 どうだか、と言ったところにお待たせしましたとレバニラが来て、そのまま教師の前に置いていかれる。

「まぁ、普通そう思うわな」

「女子だってレバニラくらい食べますよ」

「そうだろうよ。でも今日はキスしたらニンニク臭いぞ、きっと」

 ぼん、と赤くなってシュウと縮んでしまう……。そんなことをはっきり言われるといまでも学生の時のような気分になってしまう。ただのつまらない女の子のような……。

「……先生は、ニンニク苦手なんですか?」

 顔が見られない。レバニラにはレバーとニラともやしが入っていて、理想通りの出来だった。

「苦手だったら連れてこないだろう? 気にしてるのか? 俺なら大丈夫。問題ない」

 その答えにまた赤くなる。もう絶対顔が上げられない。からかわれるのはわかってるから。

 先生は狡い。わたしが好きだとわかっていて、意地悪を言う。そう、本当はもうよく知ってるんだ。わたしがすごく好きだと思ってることを。


「病院、どうだった?」

「あー。お母さんが着替え取りに行ってる間、ふたりっきりでちょっと気まずかったかも」

「ほらだから自分の意思に沿わないことは無理にしない方がいいんだよ」

 そうかも、と小さい声で答える。その『自分の意思』がどこに行ったらいいのかわからない時はどうしたらいいんだろう?

 あの場所に行くと体が凍りついたように思うように動かない。過去の幻影がわたしを縛り付けて、悪い夢から覚めることができない。蜘蛛の糸に絡まってしまったかのように、『いま』が見えなくなっていく。

 むかし見た夢が、形になるのをテレビドラマを見るように見つめている。

 そんなことはおかしいってわかってるはずなのに、あの人の前で何も言えない。わたしのために傷だらけになった彼を思うと何も言えない。

 自分が馬鹿なことは百も承知だ。

 でも夢や幻が、背中から追いかけてくるから――。


「有結?」

「なんでもない。考えごと」

「当ててみようか、悪いことだろう?」

 背筋を伸ばしてひとつ息を吸う。わたしはつくづく嘘のつけない女だ。

「プロポーズされてきました。リセットされた彼に」

「断ったんだろう?」

「……まだ」

「結婚するのか?」

「意地悪言わないでください……」

 教師はさっきまでの柔和な教師から一変して、意地の悪い空気を流してくる。

「『反対だ』と言うのは簡単だよな。俺はまだ結婚ていうもののイメージが湧かない。だからやたらなことは言いたくない。でもお前がそいつと結婚するって言うくらいなら、俺と結婚しよう。クソ、最低なプロポーズだな」

 ぽかんとしてしまった。

 言われたことがよく理解できなかった。

 わたしたちは再会して日も浅いし、元は教師と生徒だったし。教師にそれを求めているわけではなかった。

 ……気持ちはうれしかったけど、無理してほしくなかったんだ。時間をかけてゆっくり育むもののはずなのに。

「先生、間違えないで。わたしは誰かとすぐに結婚したいわけじゃないの。それはきっと、あるタイミングで好ましいと思える人とするものだと思うの。だから変に思い詰めないで」

 教師は、んん、と唸った。見ようによっては教師の前に置かれた真っ赤な坦々麺が辛くて、彼がそんな顔をしているようにも見えた。

 まさか周りの人はわたしがプロポーズを受けたとは思っていないだろう。

「そうじゃない。独占欲が強いだけだ。俺も最近初めて知った」

 そう言うとずるずるとすごい勢いで麺をすすり始めた。辛くないのかな、と思って見ていると額に汗していたのでハンカチで拭いてあげる。


 何だかそれを見ているだけでお腹いっぱいになってきてしまった。

「先生、これ残します。お腹いっぱい」

「そうだろう? だから俺は麺にしたんだ。言うと思ってた」

「先生はわたしのこと、なんでもわかるんですね」

「わからないよ、予想だけ。――例えばお前が明日、悲しい顔をしてプロポーズを受けてくるに違いないとかな。そういうどうしようもないことばかりだよ」

「……」

 教師はデザートに杏仁豆腐を頼んでくれた。彼がわたしの残したレバニラを食べている間、わたしはやわらかくて白い杏仁豆腐を食べていた。それは穢れのない素直な味がした。






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