第17話 新しい世界

「こんばんは、会うのは二度目ですね?」

 彼女はわざと首を横に傾けて微笑んで見せた。その笑顔は『営業部の花』と呼ばれているに違いないものだった。

 わたしは緊張がマックスで、どこを見たらいいのか、何をしたらいいのか、まったくわからなかった。

「『有結』さんでしたよね? ······ごめんなさい、舞美がまこちゃん、盗っちゃって」

「盗ったって自覚はあるってことですか?」

「あら、聞いてませんか? 婚約までしてるわたしに声をかけてきたのは彼からなのに? あなたよりわたしを選んだってことでしょう? 一応形だけでもあなたに謝ろうかと思ったんですけど、なんか無理みたいですね。そんなに喧嘩腰になられると舞美、怖い」

「誠のせいならあなたが謝る必要なんて……」

「そうかもしれない。彼、わたしがもう結婚するってわかってるのに別れてくれそうになくて。昨日なんて欠勤して、頼むから早く会いに来てほしいとか言われたってわたしにも仕事があるんですよ? まぁ、具合が悪いって言って早退しましたけど」

 そうか、昨日のLINEの連打は欠勤してたからなんだ。あんなにたくさん、何十通も、どうやって送ってきたのかと思ったけど。


「わたし、急いでここに来たんです。そしたら彼がわたしの腰に手を回して『愛してる』って言うから……それからわたしたちのしたこと、わかります? 彼、なんだかすごく泣いていて『お願いだからそばにいてほしい』って懇願してくるから、舞美は舞美にしかできないことをしてあげたいと思って、ほら、そこのソファで」

「やめて!」

「ふたりの寝室はまだ聖域として取ってありますよ。このソファ、スプリングがだめになってきてて体が痛くなりますけど、それくらいは彼にお返ししてあげないと」

「やめて!」

「いいって言ってるのに、いろいろしてくれるんです。ほら、このスカート、これも彼からの……」

「もういいからやめてよ!  わたしはここのパソコンが使いたいだけなの。パソコンも近々引っ越すから、そしたらもう二度とここには来ないから!」

 舞美さんの、妙にツヤのあるピンクの口紅が目に入った。彼女は次の言葉を投げかけようと、ゆっくり口を開いた。その中から赤い舌がのぞいた。


「わかってないなぁ。そんなに好きなら別れたりしないで待っていればいいだけでしょう? 舞美は大河内さんと結婚するから。まこちゃんはそこのところ、よくわかってないけど。大河内さんは出向から戻ったら昇進するでしょう? 有望株なの。だからまこちゃんはそれまでの遊び相手なの。いわゆる間に合わせってやつ? まこちゃんって仕事もできてルックスもかわいいから社内でもまぁまぁ人気なの。わたし、彼が単身赴任でひとりって寂しいでしょう? だから、まこちゃんでそれを埋めるの。『火遊び』ってあるでしょう? でも舞美がいなくなったら今度はまこちゃんが寂しくなるから、そこにあなたがするっと――」

 世の中に本当にこんな女がいると思わなかった。

 誠のこと、なんにも知らないくせに。

 彼は遊びでこんなことができる人じゃない。きっと誠にはいいことしか言ってないに違いない。

 そんなのってない。

 誠がひとりになる? そんなことってないよ。

 でもその時、わたしがそこにいて何ができるって言うの? 慰めてあげたらわたしはオンリーワンになれるって言うの?

 そうじゃない。一度失ったものは戻らないはず――。


「とにかく今日は帰ります。誠に来てたこと、言ってもいいし、言わなくてもいいから。ただ、戻るつもりはないから。あなたの蒔いた種は、あなたが刈り取って」

 部屋に戻って帰り支度をする。

 悔しかった。あんな女に負けたことが。

 あんな女に簡単に騙される誠も。

 涙がぼろぼろ雨粒のように落ちて、鼻をかむ音を聞かれたかもしれないことさえ悔しかった。元々薄化粧だったものはすべて流れてしまった。

 リュックを背負って出て行こうとした。マグカップ忘れてますよ、と彼女は言った。捨てればいいじゃない、とわたしは答えた。


 夜の街をずんずん歩いた。途中、人に何度かぶつかりかける。

 何を聞いた? 大丈夫、何も聞いてない。傷つく必要なんてない。わたしはもう誠の彼女じゃないんだから……。

「おい、待てよ」

 ぐいっと手首をひねるように掴まれて、見上げると教師だった。教師は道端にも関わらず、わたしを引き寄せてあろうことか抱きしめた――。

「泣きたいなら泣いてもいいぞ」

 ぷっ、とまた笑ってしまう。ありがちだけどいまはもう誰も使ってない台詞。笑える。

 同情なんか別に欲しくはないのに。わたしは彼の胸に腕をついた。

「ありがとう、先生。大丈夫だから、離れて? 道端だよ」

 んん、と言って体を離すと彼はわたしの顔が見られないようだった。それでもわたしたちはごく自然に手を繋いで歩いた。

 すっかり夜になってしまった空気の中でわたしたちだけが切り取られたような、妙に親密感の強い時間だった。誠のことは言えない。なんだ、わたしだって手を繋いでくれるのが誰でもいいんじゃない、と自嘲気味に笑った。

「彼氏に会ったのか?」

「ううん、彼女に」

「何か言われたのか?」

「……あんまり言いたくない」

「そうか」

 それ以上、教師はなにも言わなかった。

 夕飯の買い物をしないと、とわたしが言って、教師はピザでも取ればいいよ、と答えた。なにか没頭できる作業が必要な気がしたけれど、教師の気遣いがうれしかった。

 そのうちわたしの涙に負けない大粒の雨が降ってきて、iPadの入っているカバンを庇おうとすると教師が羽織っていたシャツをカバンにかけて、代わりに持ってくれた。一応カバンは撥水加工だということは言えなくなってしまった……。

「先生、先生はひとりでいて寂しくないですか?」

 いつの間にか絡めるように繋いでいた手の揺れがふと止まった。教師は少し考えたようだった。何かを思い出したのかもしれないと思わせた。

 それからわたしの手をぎゅっと握ると「もう慣れたよ」とそう告げた。

 その時のお互いの顔の角度が丁度よかったので、わたしたちはそのまま閑静な住宅街で唇を重ねた。同情かもしれない。お互い、寂しくてやりきれなかったのかもしれない。厚くてやわらかいその唇は重ねられただけで、無理に入ってくることはなかった。

 でも繋いでいた手は離れて、彼の手がわたしの顎を押さえるともう一度、丁寧な口付けをした。まるで何も知らなかった中学生に戻ったような、そんな気持ちだった。

 わたしはもう大人でそんなことはとっくに過ぎ去って行ったのに、自分が新しい世界に入ったような気分になって、目がチカチカした。常夜灯の明かりと天気のせいで星なんかひとつも見えなかったのに。

 先生、と小声で呼びかけると教師はこちらを向いたので今度はわたしから首の後ろに腕を回して頬に頬を寄せた。

 そんなことが適切かどうかわからなかった。寂しさを分け合っているだけかもしれない。

 けれど言い訳をするならわたしをすぐに助けてくれる教師を好ましく思ったし、今日は散々だったけど、助けてくれる人に助けてもらうのは正しいと、いつだか誰かがそう言っていた。

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