人より出でて、狼に堕ちる
名乗るほどの者ではありません。
第1話 狼を狩る獣①
「……」
早朝。まだ日の光が薄らぼんやりと天を染め、地を朝霧が覆う頃、その男は目覚めた。
銀と火で栄えた国『エギレスト』。その国の地図に示されることもない程に廃れたとある町のとある安い宿屋のとある一室。
男は客室に設けられた何処に寝ても軋む古びたベッドには横たわらずに、そこにあった薄い毛布だけを借りて彼は部屋の隅でうずくまって眠っていた。いや、眠っていたというよりも目を閉じていたと言った方が適しており、男は単発式大型拳銃を握りしめて、いついかなる時でも何もかが部屋に侵入した際に迎撃できる体勢で体を休めていたのだ。
常人であれば数日と持たない休息方法であるが、男にとってはもはやこれが当たり前になったことであり、むしろ雨風を凌げ、おおよそ窓とドアからしか敵が侵入して来れないこのような部屋は彼にとってはとても贅沢な場所だった。
陽の光を感じた男は体を起こすと手にしていた単発式大型拳銃をベッドに投げ、日々の日課を始める。足先の指一本から頭の天辺まで、少しずつ動かして不調がないかを確かめる。自分の体のメンテナンスが終われば、今度は身に付ける武器道具類のメンテナンスを始める。使う使わないに問わず、一定量を一定の状態で保つ。それが、男が今日まで生き残れてきた故の鉄の掟である。
全ての準備を終え、広げた道具一式を汚く古びた旅行カバンに仕舞い込んだ男は最良の状態のまま部屋の中央で立って静かに待つ。
手にした懐中時計で時刻を確かめつつ、定刻通り、いや定刻よりも少し早めの時間になると宿屋の廊下から嫌に響く軋む音が近づいてきて、その音は男の部屋の前で止まった。
「狩人様…おはようございます。先日ご依頼申し上げた者です。お迎えに上がりました」
コンコンと丁寧にドアが叩かれた後に、枯れた老人の声が廊下から聞こえた。
「ご苦労さん」
“狩人”と呼ばれた男は老人の声に応えると同時に部屋のドアを開けて老人と対面する。その老人の服装はビシッと決まった埃も汚れも一切ない清楚な黒い燕尾服。こんな安宿屋に居るのには大層不似合いな格好である。
だが、紳士風の老人は、ドアを開けて現れた自分とは真逆なボロボロに薄汚れた服に身を包んだ狩人に一切嫌な顔を見せることなく、むしろ畏まった態度で宿屋の外に待たせていた馬車へと狩人を丁重に案内した。
その間、無駄な会話を一切することなく、ただ要点だけを紳士風の老人から聞き取ると薄汚れた狩人と紳士風の老人を乗せた馬車は車輪に付いた泥を飛び散らかせながらゆっくりと走り出した。
――――――――――――――――――――――――――――――
どれくらい時間が過ぎたのか、普段まず乗ることもできない馬車という乗り物にもそろそろ飽き始め、いつの間にかコツコツという軽快な音に変わった車輪の音にも、自分の向かいに座る紳士風の老人の変わらない笑顔にも見飽きた頃、狩人を乗せた馬車は今までの軽快な音を徐々に静め、最後にはゆっくりと静止した。
「狩人様、ご到着しました。…さぁ、お足元にお気を付けてお降りください」
狩人よりも一足早く馬車を降りた紳士風の老人は、うやうやしく彼を馬車から降ろす。
ボロボロのコートの下に隠した装備をガチャガチャと鳴らしながら狩人は馬車を降りると、目の前には天を仰ぐ程の巨大な屋敷とその屋敷の入口へと続く長い道を彩る鮮やかな園庭が現れた。
「……」
その光景を見て狩人は言葉を失った。
別に目の前に広がる屋敷や園庭、そこで働く従者たちの数に圧倒されたわけでもなく、自分とはかけ離れた生活をする“貴族”と呼ばれる上流階級な人々に呆れたわけでもない。
ただ、これから自分が直面するであろう事件のことを思うと、ただただ面倒くさい。
狩人はそう思い、言葉を失ったのである。
――――――――――――――――――――――――――――――
「それでは、こちらで少々お待ちください」
長い道を歩き、紳士風の老人に丁重に屋敷内へと誘われ、そこの入口を入ってすぐにあるこれまた巨大な空間にて狩人は待つように告げられた。
一体ここで何をするのかと疑問に思う程に巨大な玄関を見上げると、天井には煌びやかな装飾が一つ一つ丁寧に施されているのが目に映った。誰があんな所まで見るんだ、とか。あんな高い所にどうやって装飾したんだ、とか考えながらぼうっと狩人は待っていると、再び紳士風の老人が彼の前に現れた。
「お待たせいたしました、狩人様。どうぞこちらに、旦那様方がお待ちしております」
紳士風の老人の老人に誘われるがまま、狩人は大きな玄関に隣接するこれまた大きな扉を2つ3つ潜り、様々な工芸品が等間隔で至る場所に飾られた廊下の先にあった豪華な扉の前まで来た。
「失礼いたします。旦那様方、例の狩人様をお連れいたしました」
「入れ」
短い許しの言葉の後、紳士風の老人が開けた扉から狩人はその先に広がる大広間へと入る。そこに居たのは5人の男女。内2人の女は皆、これから王宮で開かれる式典にでも参加するのかと言わんばかりの豪勢な服装に、ギラギラゴツゴツとした装飾品を指や耳、首に至るまでいっぱいに散りばめていた。残りの3人の男も皆、紳士風の老人に負けない程に綺麗な服装に身を包み、決してお洒落のためではないサーベルを腰からぶら下げていた。
そして、当たり前であるが、扉から入ってきたこの空間の空気に全くそぐわない狩人にそこにいた皆々は眉をひそめていた。
「セバス、この…汚らしい男が…?」
「はい。旦那様のご所望の、今回の事件の専門家でございます」
「…ふむ。そうか…なるほどな…」
特段珍しくもない刺さるような視線と態度に狩人がただ黙って立っていると、“旦那様”と呼ばれたこの中でも一段と身なりが良く、また屈強な体と立派な髭を持つ中年の男が狩人の前へと進み出た。
「私の名前はエルメール・ガルオッシュ。この国を治める王家の血筋を受け継ぐ名門、その内の選ばれた家系の“長”である」
「俺はティア。“人狼狩り”を生業とする狩人だ」
触れるか触れないかの一瞬の握手を交わすと、エルメールはいそいそと他の者たちへの所へと戻って行った。そして、ティアと名乗った狩人はエルメールを始めとする5人の貴族たちと対峙する。
ティアはこの貴族たちに仕事として呼ばれたとはいえ、それはお世辞でも歓迎されていると言える雰囲気ではなかった。
それもそのはずである。
ここに“狩人”が来たということは、同時に“人狼”がこの屋敷の何処かに居ることを意味するのだから。
人の皮を被った卑しき獣が、人を食い殺した悍ましき獣が平然とした顔で人の中に混じっているのだ。
それを見つけ出し、吊し上げ、始末するのが狩人の生業である。
だとすれば、狩人であるティアにとってここにいる貴族たちは味方ではなくただの敵でしかないのだから、同じように敵を見るような目で見つめ返されたところで仕方がないことなのである。
「…それじゃあ、狩りを始めますか」
言い知れぬ緊張が包む中、ティアはそれだけを言うと不敵な笑みを浮かべた。
これより、狩人による狩りが始まる。
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