夜の原画を破いたら

弱音

第1話

夜の原画を破いたら


 ああ、「このままで良い」と思えたらどれほど楽なんだろうか。

現状に満足してしまう事の恐ろしさと幸福感を私はどちらも知っている。そんな葛藤は隣にいる彼には伝わっていないのだろう。

「涼しいね」

 彼の放った一言で淀んでいた思考から解き放たれた。

「うん、涼しい。夏に冷まされちゃってるみたいで、私たちまだまだ弱いね」

 さっきまでの思考がまだ残っていたみたいで余計なことを言ってしまった。

彼は、少し安心を含んだ笑顔で言った。

「その表現いいね。今度使おーっと」

「あんたバカにしてるでしょ」

「してないよー。沙癸のそういう詩的な部分、俺は尊敬してるんだから」

 一瞬火照った背中を夜風が柔らかい軌道ですり抜けたことでいつもより素直な言葉が出てきた。

「ありがとう、冗談でも」

「おーう」

 彼はいつもの返事で応えた。

 私は、嬉しい瞬間なんて人生の半分にも満たないんじゃないかと思っている。けれど決してこれはネガティブな意味ではない。私はここに来るといつもより自信過剰になってしまう。強くなっている気がする。そんな時だからこそ、いつも思う事がある。

「今まで感じてきた悲しみが嘘ではない、と確かめる為に夜に来ているんだ」と。幸せは確かに存在する。実際に彼が横にいるのだから。

悲しみは幸福の材料であり、それに気付かないからこそ、皆ある程度満足に暮らしている。

巷でよく使われている「エモい」って言葉はそんな人生の悲しい瞬間を含んだ幸福から来るものなのかもしれない。こんな夜にはぴったりだ。

「なんか、エモいね」

 彼は意地悪い顔で

「エモいな」と笑って返した。

 その瞬間、悩んでいた言葉たちがどんどん風と共に流れて、夜の暗さに吸い込まれていった。右から覗く彼の健康的な骨の形や、優しさを内包した頬から背中にかけての筋肉が織りなす曲線、遠くに落ちてる丸い街の光、世界の隙間を埋めるように鳴る鈴虫の音、それら全てがいっぺんに言葉と入れ替わりで、心を満たした。

 空中で何かを蹴るように弄んでいた両足で、逸る鼓動と静かに流れるこの時間のバラン

スをとる。

「アイス食べたーい」

「さっき食べたでしょ」

 彼の返答に、母親のような安心が垣間見えたので、ますます幼児退行が進む。

「まだ、足りなーい」

「分かったよ、コンビニ行こっか」

 それはこの世で最も幸せなセリフに聞こえた。この感情は幼児退行によるものではない。

全てを詰め込んだ夜の空気が、私たちのこれからを描く夜の原画を作り出す。

 今これを破いたらどうなるのだろうか。この感情は幼児退行によるものな気がして笑ってしまった。

「何、急に」

 彼の目を真っ直ぐ見つめながら言う。

「私、このままで良いかも」

 彼は、一瞬悩んだ顔を見せたが、すぐにどういう意味か理解したようで

「俺も」といつもより笑顔で言った。


 無責任で大人っぽい、涼しい夏の夜の話。

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