ピタゴラス症候群

米 八矢

序章 夢見る少女じゃいられない。


 誰かに愛されるのは嫌いじゃない。誰かを愛するのも嫌いじゃない。

けれど、愛した人に愛されないのは大嫌いだ。それでも、すべての恋心が成就するほど、平和で幸せな世界は、現実には存在しない。あるのは不幸な現実だけ。

 そう、ボクはまさにその不幸な現実の渦中にある。望んで飛び込んだわけじゃない。気付いたらその沼にはまり込んで抜け出せなくなっていただけ。

 ボクは彼女を愛してしまった。彼女は蜜のように甘く、バラのようにトゲを隠す。そんな二面性を持った彼女は、麻薬の様な中毒性を隠していた。

 14歳の春、重力の井戸に落ちていくように、ボクはキミに恋をした。


◆◇◆


 金曜日の昼下がり、ここは屋上。ボクは一人。イヤホンを当てがい喧騒を遮る。眼鏡が少し下がって、視界の半分くらいがぼやけて見える。


瀬那せな


 ボクを呼ぶ声。仕方なく右のイヤホンを外した。もうちょっとでサビだったのに。気は進まない。ボクが待っているのは君じゃないんだ。


「…なんだい?」


相手が誰かは声で分かる。低くもなく、高くもない普通の男の子の声。


「午後の授業はどうした?」


 屋上の扉にもたれた男子生徒が煽るように言った。

 説教だ。下らない。別に他人の出席日数なんてどうでもいいだろうに。


「体調が優れなくてね」


 嘘は言ってない。もっとも、真実も言ってないのだけど。


「そうか。なら保健室に連れて行ってやる。早退するなら荷物だって持ってやる」


 少々お節介が過ぎる。君はお母さんか。


「はぁ……伊吹、少しは察してくれよ」

「何をだ?」

「今日は女の子の日だ。こんなことを言わせるな」


 淡々と感情を込めずに呟いてみせた。


「……すまん」


 もちろん嘘だ。それを真に受けてしまう伊吹に少し申し訳なくなった。

優しさも度を越せばただの迷惑だ。


「でも授業には出てくれ。大和おおなぎが心配してる」


 大和……。その名が耳に響く。本当は彼女に来てほしかった。でも、彼女の性格からして、伊吹に頼むのは自明だ。


「なら梢江こずえに伝えといてくれよ。心配ないって」

「はぁ……」


 そのため息の意味は何なのさ。きっと梢江は喜ぶはずだ。だって彼女は。


「俺もサボろうかな」

「は?」


 伊吹は自他共に認める優等生だ。ボクは認めていないけど、君は授業をサボるなんて択は選ばない。


「いや、次数学だし。俺、数学嫌いだから」

「それは理由になっていないよ」


 嫌いだから授業に出ない、なんて道理が通るのなら授業の半分は誰も出席しなくなる。


「たまには、不良っぽいこともしてみたいんだよ。いつも真面目な生徒を演じるのは肩が凝る」


 伊吹の性根は腐っている。真面目に授業を受けるようなヤツじゃない。


「そう。大変だね、君も」

「だからたまには大目に見てくれよ」


 伊吹はボクの隣に腰を下ろす。ブレザーのポケットをまさぐり、カフェオレの缶を取り出した。


「一本やるよ。当たったから」

「……なら、遠慮なく」


 最初から自分もサボるつもりだったな……。この学校に当たり付き自販機なんかないぞ。

この不器用な感じが伊吹の居心地の良さなんだろうと思う。あるいは、長く一緒に居過ぎたせいか。

どちらにせよ、ボクが伊吹に対して肯定的な感情を抱いていることは間違いない。当然、それは恋なんてキラキラした感情じゃない。ある一種の慣れ、麻痺、日常化、そんなところだ。

 伊吹の奢りのカフェオレを一口啜る。


「……甘い」

「人の奢りに文句を言うなよ」

「ふーん、奢りなんだ」

「あ、いや。元の一本は俺が買ったわけだし……」

「ふーん」


 こういうドジな所が伊吹らしい。少し顔を紅くした伊吹はそっぽを向いた。


「君のは無糖じゃないか。交換してくれよ」


 甘いものは苦手だ。あの可愛らしい感じがボクには眩しすぎる。


「いいけど…もう一口飲んだぞ?」

「別に構いやしないよ。今更間接キスくらいで恥じらうような関係じゃないだろう?」

「ま、瀬那が気にしないならいいけど」


 伊吹をからかうのは程ほどにして、無糖を口にする。無糖の苦みがカフェオレの甘みを中和して、苦みが舌を支配していく。この苦みの感覚がたまらない。

 沈黙が流れる。わざわざ沈黙を埋める会話なんかしない。疲労するだけだ。


「そういや、お向かいさんとこの娘さんが結婚したらしいぞ。それもどっかのエリート相手と。式は6月に挙げるってさ」

「そうなんだ。美人だったもんね、あの人」


 中身もない、生産性なんか微塵もない。そんな会話をする関係を世間では何と呼ぶのだろうか。世間は知らないが、ボクらはボクらの関係を幼馴染だと認識している。少なくとも、ボクは。


「放課後、予定とかあるか?」

「ない。空いてるよ、残念ながら」


 放課後の予定はいつも空いている。予定なんかなくたって、家で本を読むだけだ。


「また櫻川に絵を描きに行こうと思ってるんだけど、一緒に行かないか?」

「相変わらず好きだね、絵を描くの」

「唯一の趣味だからな」


 伊吹の描く絵は絵に詳しくないボクが見ても上手だと思う。いい趣味だと思っている。当人は言わないけどね。


「悪いけど、今日は遠慮しとく。絵に詳しくないボクがいても空気を悪くしちゃうだろう?」

「そうか……大和もくるから瀬那がいてくれたら良いかなって思ったんだけど」

「……」


 彼女も来るんだ……。それなら、なおさらボクは。


「やっぱり行く」


 考えるよりも先に答えが出てしまった。ごめんね、梢江。ボクは醜くても、現実に抗いたいんだ。邪魔をして、本当にごめん。


「じゃあ放課後玄関で待ち合わせしてるから」

「分かったよ。ボクは花見でもするよ」

「じゃあお菓子とか買っていくか」

「いいね、それ」


 久しぶりに放課後が楽しみになった。こんな気持ちはいつぶりだろう。

記憶の浅瀬を探ったが、今まで放課後が楽しみなことなんか一度もなかった。つまりは今回が初めてだ。


◆◇◆


「お待たせ、長門おさかどくん。瀬那も待たせてごめんね?」


 16時を少し過ぎたころ。息を切らして、赤髪を揺らしながら梢江は階段を降りてきた。日直の仕事があるのを忘れていたらしい。ドジな所が梢江らしい。中学生の頃から変わらない。そんな所に安心する。変わってないのはボクだけじゃないみたいだ。


「あ! 水彩道具わすれちゃった……ごめん、取ってくるね」


 慌てて来た道を戻っていく。


「あぁ。行ってらっしゃい」


 また二人残された。


「梢江、楽しそうだね」

「瀬那がいるからじゃないか?」

「違うよ。君がいるからだよ」


 これが真実だ。そこにボクの入り込む隙間はない。そう、ないんだ。

哀しいけど、これが現実なのよね。


「お待たせ」


 数分後、梢江は再び息を切らしながら階段を駆け下りてきた。額に滴る汗が焦燥感を際立てせる。


「じゃあ行こう」


 先導するのは伊吹だ。軽い足取りで校舎を出ていく。その10メートルくらい後ろをボクら二人はゆっくりとついていく。


「瀬那も来るなんて珍しいね。どういう風の吹き回し?」


 梢江の言葉に裏はない、はずだ。それでも、その言葉の裏を探りたくなるのは、ボクが幼いからなんだろうか。


「別に。ただ天気がいいから桜でも見ようかと思っただけだよ」


 花見なんかする柄じゃないくせに。色欲には正直な人間だな、ボクって。


「へぇ。そっか」


 どことなく、言葉が引っ掛かる。嫌悪感を示されているような嫌な感じだ。


「瀬那はさ。伊吹と二人が良かったの?」


 心の最深部に探りを入れる。この質問はすごくズルい。


「え、あー。私は……瀬那がいても嫌じゃないよ?」


 優しい人だ。でもその優しさは人を癒し、時に人を切り殺すことを梢江はまだ知らないんだ。優しさだけでは誰からも愛されない。けれど、優しさなくして人から愛されることはない。愛なんて、ただの抽象的表現でしかないけれど。


「明日、伊吹に予定は入ってない。だから、明日にでもデートに誘ってみれば?」

「で、デート⁈ わ、私は別に……」

「好きなんだろう? 伊吹のこと」


 畳み掛ける。ここで認めてくれれば。ボクの苦しみは多少改善されると思うんだ。

愛している人から愛されない苦しみから。真っ只中の罪悪感から。


「……うん。好き」


 梢江は耳まで真っ赤にしながら虫の鳴き声のように弱々しく答えた。


「私は応援してる。梢江にも、伊吹にも幸せになって欲しいからね」

「……でも」


 不安を詰め込んだ瞳でボクを見る。その奥に宿っている不安が分からない。


「瀬那も、好き、なんじゃない…の? 長門くんのこと」


 馬鹿を言っちゃいけない。そんなことあるはずがないだろう。


「どうしてそう思うの?」

「だって、いつも一緒にいるから。昼休みとか、放課後とか」


 ボクが望んでそうしているわけじゃない。伊吹が付き纏ってくるだけだ。


「ただの幼馴染。伊吹は友達が少ないから、すぐ私の所に来るんだよ」


 ごめん、伊吹。物凄く君の評価を下げてしまった。でも友達のいない君の評価を少しはいるってことにしといたんだから、許してくれ。


「なら、私が告白、とかしてもいいのかな…?」


 梢江がボクを追い越した。梢江の歩幅が変わったんじゃない。ボクが立ち止まったんだ。無意識的に。脳の処理能力を歩行に割きたくなかったんだ。


「瀬那…?」


 何か、何か言わないと。何でもいいから、言葉を吐き出さないと……。


「っ………」


 動悸が止まらない。呼吸が落ち着かない。世界の音が遠のいていく。


「瀬那? 大丈夫?」


 ごめん。


「ごめん……ボク、今日は帰るよ」


 早くこの場を離れたかった。自分でもイタい人間なのは分かっている。だけど、ボクは人とは違うんだ。抱く想いも、感じる痛みも、自分の保ち方も。


「あ、ちょっと瀬那!」


 自分の持てる力を最大限に振り絞って走る。呼び止める声は鼓膜で塞き止める。脳まで届かせない。届かせたら考えてしまうだろう。この足を止めてしまうだろう。

ただの独りよがりは、一人で解決しないと。こんなに気持ち悪いのだから。

 ボクはなんで今日来ちゃったんだろう。こういう気持ちになるって予想してたのに。

馬鹿だなぁ。


◆◇◆


 気づいたら、どこかの公園にいた。日はもう落ちて街灯に虫が集っている。涙はもう枯れた。目尻が痛くて仕方がない。自分の感情なのに制御はおろか理解すら出来ない。人の形をした木偶の坊みたいだ、今のボクは。

 眼鏡を外して涙の跡を拭う。目尻の痛みは相変わらず取れやしない。


「……明日謝らないと」


 何に対してかは漠然としていないけど、あの場を惑わせたことに対しては謝罪しなければならない。特に梢江に対しては。


「帰るか」


 スマホを見るとすでに19時を過ぎていた。姉さんから何時に帰ってくるのかと連絡が来ている。よくよく考えればお腹が空いた。腹の虫が鳴きだす一歩手前といった感じ。


「はぁ……憂鬱だ」


 きっと今頃、伊吹は梢江を家に送り届けている頃合いだろう。それに比べてボクは、どことも知れぬ薄暗い公園で一人で帰路に就いている。鴉の鳴き声が寂しさを加速させ、ボクの心を煽ってくる。

 本当は、誰かに追いかけてほしかったのかな。いや、そんなことはないか。

ボクを気に掛けるような奴は酔狂を通り越してただの馬鹿だ。


「……見つけた」


 息を切らした声がする。

はは、ついに幻聴まで聞こえるようになったか。


「はぁ…はぁ…探したぞ、随分と」


 幻聴はボクに話しかけてくる。やめてくれ。ボクに希望を持たせないでくれ。


「ケガとかは無いみたいだな……よかった」


 優しい声がボクに届く。嫌と言うほど聞き馴染んだ声。


「瀬那、帰ろう」

「伊吹………なんで」


 何故ここにいるのか。それを問いただそうとしても、声が出ない。ボクは知っているからだ。君の優しいところを。それに期待してしまうことを。それがボクの弱さだという事も。


「急にどこかに行っちゃったから心配でさ。あ、大和には今日は帰ってもらったから心配しなくてもいい」

「君は馬鹿なのか…? ボクなんかに構うより、梢江と一緒に絵を描いてくればよかったじゃないか」


 それが梢江が一番喜ぶことなんだから。ボクが親友のために、してあげられること。


「俺は大和よりも瀬那の方は大事、だから」


 すぐそういうことを言う。そういう所は本当によくない。たぶん、梢江にもおんなじようなことを言ってる。


「ばか。そういうことは気安く言うもんじゃないぞ」


 知ってる。知ってるよ、それが本心だってことは。誰にでも言ってるわけじゃないってことくらい。


「気安くなんかこんなこと言うかよ。本心じゃなきゃ言えねぇよ」

「……そうかい。君は良い男だね、本当に」

「そういうお前は、俺の中で一番いい人間だ」


 伊吹の言葉選びは慎重だ。きっとボクに気を使っている。いや気を使っているわけじゃないか。そうすることが普通なんだろう。本当に良い奴だ。


「ありがとさん」


 ごめんね、ボクは君の気持には答えられない。前にも言った通りだ。


「やっぱり瀬那は、大和のことは好きか?」

「唐突だね。そんなの答えるまでもないだろ? 特に君には」


 なんせ初めてこんな感情を抱いていることを打ち明けたのは、他の誰でもない伊吹なのだから。その選択は間違っていなかったと思っている。


「そうか。なら俺は、前にも言った通り応援する。全力で」


 だいぶ気を使わせてしまったみたいだ。


「例えみんながお前に奇異な眼差しを向けても、俺はお前がずっと大好きだから」

「知ってるよ、ばーか」


 伊吹は顔を紅く染めることなく言い切る。本当に、いい男だ。梢江が惚れるのも分からなくもない。

ボク以外を好きになっていたら君は幸せになれただろうに。ボクが知ってる痛みを君にも背負わせてしまってすまないね。そっか…梢江もこんな気持ちになっちゃうのか。


「帰ろう、伊吹。お腹空いた」


 腹の虫が考えることを放棄させる。腹が減っては何とやら、だ。


「ラーメンでも食って帰るか?」

「伊吹の驕りなら、いく」


 別に自分のことを好いてくれている人を手玉に取るわけじゃない。ただの友人としての付き合いである。普通に所持金がないのだけれど。


「じゃあ今度は瀬那が奢ってくれよな」

「もちろんだとも」


 特に取り決めたわけじゃないけど、たいてい交互に奢り合っている。発端は別々に会計するのが面倒くさかったことにある。


「どこいく?」

「行ったことないとこ」

「難しい注文だな……この辺りの中華料理屋は開拓してるし」


 中学の時に毎週のように二人で開拓していったのは懐かしい思い出だ。いつもは二人だが、時々梢江が加わり三人になったっけ。あの頃はまだ自分が少女でいられた。


「あ、あった」


 スマホで何かを検索していた伊吹が見つけたようだ。


「どこどこ?」

「すぐそこに先月できた塩ラーメンの専門店がある」


 塩かぁ。泣きじゃくって塩分が足りてないから丁度いいかもしれない。


「いいね、行こう」

「決まりだな」


 なんやかんやで時刻は20時手前。姉さんに連絡しておかないと。


「先に姉さんに夕飯いらないって連絡しとくよ」

「まな姉がご飯作ってたら、ラーメンは無しだけどな」

「えー、もう塩ラーメンの口になっちゃってるよ」


 頼むよ、姉さん。まだボクの分のご飯は作ってないでくれよ。塩ラーメンがすごく食べたいんだ。


『もしもし』

「あ、姉さん」

『なんだ瀬那か』


 なんだとはなんだ。通知みればボクだって分かるだろうに。


「今日伊吹とご飯食べて帰るから」

『はいよ。んなことだろうと思って作ってないよ』

「流石我が姉。ありがとう」

『いっちゃんによろしく伝えといてねぇ~』

「うん、じゃあ」


 やりぃ。今日の夕飯の他人の金で塩ラーメンだ。格別に美味だろうて。


「どうだった?」

「塩ラーメンゴチになりやす」

「流石はまな姉だ。瀬那のことをよく分かってる」


 今日の夕飯が決まったので、ルンルンで夜道を歩く。食事はいい。腹だけじゃなくて心も満たしてくれる。ちょっとの辛いことなら忘れさせてくれる。失恋とか、そんな感じの悩みも。今日はぐっすり眠れば完璧だ。

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