第4話 1年目 開幕戦

 2023年シーズン開幕戦。

 北九州ファルコンズ×東北シルバーフラッグス 第1戦。

 

 ファルコンズ、フラッグス共に両エースの激しい投球戦を繰り広げていた。

 6回を終えた時点でファルコンズが1点リードの1-0。

 両チームともにここまでの安打数はわずか3ずつで、ファルコンズは6番岡田が打ったラッキーな当たりがそのままライトスタンドへギリギリインし、何とかリードしていた。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」


 だが、7回の表でファルコンズはピンチを招く。

 エース柳葉の球のキレが露骨に落ちたところをフラッグスは見逃さずに連続ヒット。

 ノーアウト1-2塁でバッターボックスに立つのは、チャンスに滅法強いフラッグス4番の砥峰 雄大。

 昨年は本人キャリアハイの数字を残しており、今年はさらに盤石なものにしようと開幕前から気合を入れてきた選手だった。

 一打出れば同点、二塁打以上で逆転であり、ホームランでも打たれればもう試合は決してしまうだろう。


 副島監督は迷っていった。

 明らかに柳葉は肩で息をしており、すぐにでも交代を告げた方がいい。

 だが、信頼して送り出せる中継ぎは誰だ……?

 中川? 友永? いややはり実績十分の斑尾か? それとも今年こそ給料に見合った活躍を期待しているファーマー?

 だが副島は胸中で首を振る。

 この中で言えば斑尾が最も計算の出来る選手だが、あまりにも目の前に掲げられたハードルが高すぎる。

 では、昨年わずかに台頭していた成田か……?

 いや、それなりの成績を残したといってもまだまだのものである。

 成績だってチーム内最優秀中継ぎではあるものの、そもそもの平均成績が悪すぎたのだから。

 しかもバッターは砥峰だ。昨年のシーズンで成田が砥峰を苦手としていたのは数字にも如実に現れている。


 視線を徐にブルペンカメラへ向ける。

 斑尾と中川が投球している姿が映るが、その端には今年入団したばかりのドラ1立花とドラ2真鍋の姿も小さく見えた。


 副島もこの2人が世間を賑わせている事は重々承知している。

 なぜなら本人も毎日のように記者から夜討ち朝駆けを食らっていたからだ。

 さすがにシーズンが始まればそれらも落ち着くだろう。

 これほどまでにシーズン開幕を祈っていたのはチーム内でも俺が一番ではなかろうかと、副島は小さく笑った。


 副島がヘッドコーチに声を掛ける。


「交代だ。ピッチャーは立花、キャッチャーは真鍋で行け」


 ヘッドコーチの森は一瞬監督の言っている意味が分からず呆けたが、すぐに頭を再起動させてグラウンドへ飛び出す。

 さもなければプレイが再開され、リードが消えるかもしれない。何だったらそのまま引っくり返される可能性も多分にあったのだから。


 

「立花、真鍋お呼びだ。すぐに準備して行け!」

「は、はい!」

「来たか」


 ブルペン内で話をしていた立花と真鍋にブルペンコーチから声が掛かった。

 コーチのその言葉に、投球練習をしていた斑尾と友永もしばし止まる。

 特に斑尾は苦々しげに新人2人を睨んでおり、プライドをズタズタにされた気分だった。

 昨年の成績が不甲斐ないものだった事は己が一番理解しているし、一番己に腹が立っている。

 それでも、ファルコンズ一筋でやってきた斑尾からすれば、開幕戦のこの大事なポイントで自分以外に声が掛かるなど到底考えられない状況だったからだ。

 目の前にいるドラ1立花の投球は斑尾もすでに見ている。

 確かに驚くべきものであり、これは本物だと頭では理解しているが、どうしても自信のプライドがそれを遮ってしまう。

 昨年シーズン終わりからは例年にないほどの自主トレも続けており、勤続疲労によって満身創痍ながらも、気力体力ともにここ数年で最も良いと自分では思っていたからだ。

 だからこそ、このタイミングで監督が自分ではなく、ルーキーに任せるのが、どうしても納得出来なかった。

 

 ちなみにそんな斑尾を気弱な友永は戦々恐々と見ていた。

 今日の試合終わりも行きつけの料理屋で斑尾さんの愚痴に延々と付きあ合わされるのだろうか……、と。


 2人もそんな斑尾と友永の姿は当然のように見えている。

 真鍋はブルペンから出る際に被っていたキャッチャーヘルメットを取って2人へ頭を下げる。

 それでも斑尾の厳しい視線は変わらない。

 立花はそんな状態でも飄々とした足取りで準備を続けていたが、ふとブルペンから出る際に斑尾へ声を掛けた。


「斑尾サン」

「……なんだドラ1ルーキー」


 まるでお前の事など微塵も怖くないとでも言いそうな表情で斑尾を見るルーキー。

 思わずその目が腹立つんだよ! そう怒鳴りたくなる斑尾だが、さすがに一回り以上離れているルーキーにそこまでするのは大人げないと、噴火一歩手前で抑える。


「俺、この試合を勝たせてきます」

「……何が言いたい」

「明日も投げるかもしれません。でもそれも勝たせてきます」

「だから何が言いたいんだ!」


 坊主と問答でもしているようで、腹が立つ。

 抑えていたはずの怒りは気がつけば噴火していた。

 斑尾の怒鳴り声がブルペン内に響く。

 遠くに聞こえる歓声が妙に懐かしいと友永は感じていた。


「俺、どうしても優勝したいんですよ。今年も来年もずっとずっとです」

「お前、本当に何言ってんだ?」

「俺が投げた日は勝てるかもしれない。でも、全試合に登板なんて出来るわけがない」

「……ハァ?」


 斑尾はなんだか喋っていて疲れてきた。

 これは年のせいではなく、目の前にいるルーキーのせいだと思いたい。

 

 優勝したいだ? そんなもの誰だってそうに決まってる。

 俺だってしたい。横にいる友永だってそうだろう。

 優勝を目指さない理由などどこにもあるわけがない。

 それを自分の力で成し遂げる為に、日々動かなくなっていくこの身体に鞭を打って働き続けているのだから。


「その為には斑尾さんの力が必要なんですよ。斑尾さんのピッチングが俺はめちゃくちゃ好きで、あの投球術でバッターが三振した時は、ベッドの上で痛む身体も気にせずに喜んだのを今でもよく覚えています」

「ベッドの上? お前また何言ってんだよ……」

「だから、斑尾さんには後3年現役でいて欲しいんです。しかも1軍で俺のそばにいて欲しいんです」

「……」

「斑尾さんのピッチングや友永さんのピッチング、他のみなさんの良いところを盗めるだけ盗ませてほしいんです」


 そうすれば俺は完全無欠のピッチャーになれるから。


「だから、今は少しでも身体を休ませてください。絶対にみなさんの力が必要な時が来ますから」


 立花はそう言うと、横で口を大きく開けたまま呆然としていた真鍋を小突くとブルペンを出ていった。

 真鍋は「お、おい! 待て立花!」と言いながらブルペンの2人に背を向けて走っていく。

 そんなルーキー達の姿を、斑尾はじっと見ていた。


「あ、あの斑尾さん……ヒィツ!」


 斑尾の後ろに立っていた友永が声を掛けようと回り込んで斑尾の顔を見る。

 思わず小さく悲鳴を上げてしまう友永。

 そこには大噴火一歩手前の顔を真赤にした鬼が仁王立ちで立っていたからだ。


「ーー、持って来い」

「は、はい?」

「椅子をここに持って来い! お前の分もだ!」

「お、おい斑尾……うっ」


 斑尾がブルペンの端に置かれているパイプ椅子を2脚持ってくるように友永に指示する。

 マウンド上に椅子を置こうとする斑尾にブルペンコーチが声を掛けるが、あまりの鬼気迫る視線に思わず口を噤んだ。

 友永が持ってきた椅子を斑尾は奪うように取ると、そのままグラウンドを映すカメラ前へドカッと置く。


「お前も座れ」

「えっ、投球練習は……」


 斑尾の言葉に友永は不安そうにブルペンコーチと斑尾を交互に見ながら呟く。

 そんな友永の視線に見向きもせず、斑尾はレフトスタンド側から悠々と登場するルーキー2人を睨んでいた。

 交代のアナウンスに、球場内が大きくどよめいている。

 それもそのはずで、今までこれでもかとベールに包まれていたドラ1ルーキーが姿を現したからだ。

 ドラ2真鍋の雄姿はさ散々甲子園で見てきたファン達だが、ドラ1に関しては何の情報も持ち合わせていない。

 大阪の有名進学校出身だという事以外は何一つ情報をファルコンズが公表していなかったからだ。



「今日はもう上がりだ。あのクソ生意気なルーキーが休めって言っただろ」

「えっ、でもそんな……えっ」

「いいから座れ!」

「ちょっ! 斑尾さん痛いですって!」


 斑尾は友永の利き腕ではない左腕を掴むと、半ば強引に椅子へ座らせる。

 ブルペンコーチも流石に何も言えなくなったのか、もしくはコーチも気になったのか、同じようにパイプ椅子を持ってきて2人と一緒に座った。


「友永」

「あっ、はい」


 斑尾はマウンド上で投球練習を始めた2人を見ていた。


「俺はな、優勝がしたい」

「は、はい。それは俺も勿論したいです」

「だがな、今の俺達の成績で優勝したとしても全くこれっぽっちも喜べない」

「それは……」

「何だったら優勝を喜ぶ前に、来季もユニフォームを着させてもらえるのかを心配するのが先になるかもしれんくらいにはな」

「……」


 その言葉に友永は何と返せばいいのか分からなくなった。

 ここ数年の友永はビクビクとしながらシーズン終盤を終えていたからだ。

 前半はそれなりの成績を残すが、終盤に向かえば向かうほどに防御率は落ちていく。

 これは毎年の事であり、あまりにも悪化が顕著な為に昨年の後半戦は主に敗戦処理として使われていたくらいには顕著だった。

 

 弱気な友永はどうしても終盤に差し掛かると、来季の事が気になって仕方がない。

 果たして俺は本当に来季もユニフォームを着られるんだろうか?

 さくっと戦力外を告げられるのではないか?

 ヒットを一本打つ度に、ストライクが入らずボールになる度に友永はそう考えてしまった。

 とはいえ内心では、自分よりも先に斑尾さんがまず首を切られるだろうと思っているフシも一部あったが。


「俺もお前も、去年と同じ成績だったら来年はここにはいられないだろうな」

「……」

「俺はもはや昔のような球は投げられない。疲れがどうしても抜けない。指のかかりが悪くてすっぽ抜ける球も増えている。そしてお前はその天性の慎重さが試合では裏目にばかり出ている」


 友永は斑尾の言葉に頷いた。

 確かに斑尾の抜け玉は友永も気になっていた。

 それは大体が明らかな失投であり、何とかボールにして逃げている事が多く今のところは大きく被弾するまでには到っていないが、それでもキレの失われたあの球がストライクゾーンに入ればイチコロでスタンドインされるだろう。

 プライドの高い斑尾へ言おうとどうしようか迷っていた友永だったが、そんな友永の表情を見て、斑尾はフンッと鼻で笑った。


「お前の言いたいことくらい俺にもわかっている。何年ファルコンズの1軍にいると思ってるんだ」

「あっ、す、すいません……」


 座ったままペコリと頭を下げる友永を冷ややかな視線で見た後、すぐにそれをカメラへ戻す。


「だが、まだやれるはずだと俺は思っている。それは、俺もお前も。ここにはいない貴之介も、成田もだ」


 ファーマーは俺も知らん。

 そう言った斑尾にコーチがクワッと厳しい視線を向けるが、斑尾はまるで気にしていないとカメラを見続けた。


「あのクソ生意気なガキの言う通りで癪だが、精々があと持って3年だろう。それも様々な事がいい方向に転んだとしてだが」


 斑尾は今年で35歳。すでにチーム内では最年長選手となっており、ファルコンズ投手陣のドンと呼ばれている。

 本人は偉ぶっているつもりなど微塵も無かったが、若かりし頃からの年長者へ噛みつくその姿勢態度は首脳陣からは疎まれているものの、後輩たちからは好かれている要因の一つだった。


「俺はまだまだ投げたい。この身体がボロボロになってでもあのヒリつくような1軍のマウンドに立ち続けたいんだよ。その為ならマウンド上で死んでも悔いは無い」

「斑尾さん……」

「それがあのクソルーキーの力で少しでも良い方向に転がるんなら、俺は尻尾振りでも靴舐めでも何だってやってやるぞ」

「……」

「ま、とはいえ俺は俺の力で結果を残してやるつもりだがな」


 友永もコーチも、斑尾のその言葉が嘘ではないとすぐに理解した。

 斑尾の表情からはいつの間にか怒りが消え、真剣な表情でカメラを見ていた。

 その視線の先に見えるのは、昔の自分の姿なのか、はたまた数年先のボロボロになった自分の姿なのか。


 

「クソルーキーがあれだけ大きな口を言ったんだ。この試合のピッチングを見て俺も態度を決める」

「態度を決める、とは……?」

「アイツが言った通りにこの試合に勝てば、俺はアイツの為にチームの為に働く。敗戦処理でも何でもいい。勝てるためなら何だってやってやる」

「か、勝てなかったらどうするんですか」

「今と何も変わらんさ。そういえば昔、クソでかい口を聞いたクソルーキーが一人いたなと過去になるだけだ」



◆◆

 マウンド上。


 スタンドがルーキーの登板に今もどよめく中。

 意気揚々とした姿でマウンドに駆け寄った立花へ柳葉がボールを渡した。


「ほらよ、ルーキー」

「ども」


 この大事な開幕ゲーム、しかもこの試合で最も大事な場面でルーキーを送り込んできた監督に柳葉は苛立っていた。

 昨年も一昨年もそうだった。

 特にこういった接戦でリードしている時に送り込まれる中継ぎが打たれ、勝利が消える場面を何度も見てきた柳葉からすれば、マウンドを降りるのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 とはいえ、斑尾や友永あたりに来られても嫌だっただろうが……。


 ファルコンズ投手陣は、ここ数年の中継ぎの不甲斐ない結果で、完全に派閥が2つに分かれてしまっていた。

 先発陣と中継ぎ陣に、である。


 先発からすれば、勝ちが目の前でいくつも消されるのだ。

 一度や二度ならまだしも、それが何度も続けば嫌にだってなる。

 あまりにも交代するのが嫌で、監督に直談判した事も一度や二度ではない。

 だが、それならばお前が完投出来るのかと聞かれ、何も言い返せなかった。

 数年前であれば、自信を持って言い返せたが、今の柳葉のスタミナでは、精々がどう頑張っても7回までで限界だった。

 特に今日のような接戦でのゲームはスタミナがごりごりと削られていくのが自分でもよくわかった。


 故に、目の前にルーキーらしからぬふてぶてしい姿でボールを受け取るその様に、嫌味が口を出てしまった。

 自身をさっぱりとした性格だと思っていた柳葉は、そんな自分の姿が嫌になり、チッ、と舌打ちをするとマウンドから歩いてベンチへと向かっていく。


「柳葉さん」

「アァ?」


 マウンドに立つルーキーから名前を呼ばれ、視線を向けた柳葉。

 やはりその視線はふてぶてしいものだった。


「このゲームで俺が勝たせたら、柳葉さんのクイックを教えてください」

「はぁ?」


 こいつゲーム中に何言ってんだ? と顔を顰める柳葉。

 歓声に消されて立花の耳には届かなかったが、小さく殺すぞと呟く柳葉だった。


「俺のピッチングでこのゲーム勝ったら、柳葉さんのクイックを教えてほしいです」


 柳葉さんのクイックは超一流ですから。

 そういけしゃあしゃあと宣うルーキーに思わず笑ってしまう柳葉。


「おうクソ生意気なルーキーちゃんよ。言う通りお前が俺を勝たせてくれたらクイックに限らず何だって教えてやるよ」

「えっ! 本当ですか!」

「おっ、おう……」


 急にそれまでのふてぶてしい態度から、人懐っこい18歳の笑顔でそう聞いてくる立花の表情に柳葉は思わず頷いてしまった。

 立花はすぐに、しまった! とでも言いたげな表情をした後に、先程までのふてぶてしい態度に戻った。


「じゃあ、ベンチでしっかりと俺のピッチングを見ててください。んでもって、明日からのクイック練習お願いしますね」

「お前……」


 柳葉がまだ何かを言おうとするが、流石に交代に時間を取りすぎたかアンパイアから早々の退場を指示される。

 立花はもう柳葉には視線を向けず、すでに態勢を整えている真鍋に向けて投球練習を始めた。



 立花が投じたボールに、スタンドがまたしてもどよめく。

 表示されるスピードガンの球速は119,121,122キロ。

 どう見てもプロレベルではない。


 あれって俺でも打てるんじゃねえの?

 そんな声がスタンド内からちらほらと漏れる。

 それでも立花は粛々と投球練習を続け、ついに練習が終わった。

 マウンドへ真鍋が小走りで駆け寄る。

 ミットを口元に当てて立花へ何かを言っている。

 スタンドにいる者全員が、何を言っているのかを脳内で考えていた。

 途端、立花の表情がムッとするのがカメラ越しにも分かった。

 ミットを口に当てる事もせず、真鍋に何かを言っている。

 最後は右手にもったグローブで、バシッ!と聞こえてきそうなほどの勢いで真鍋の頭を叩くと、さっさと己の定位置に帰れとでも言いたげに鬱陶しそうに右手を何度か振った。


「知らねぇからな!」


 真鍋がそう言うのがカメラ越しにもわかった。

 声は聞こえないが、青筋を立てて大きな口でそう言うのがわかったからだ。

 すぐに真鍋はバツが悪そうにマスクを被って肩を怒らせながらバッターボックスへと歩いていく。


 え、こいつらそんなに仲悪いの?


 誰もがそう思う中、アンパイアがプレイを告げる。

 

 打席に立つフラッグス4番の砥峰がやっとかとでも言いたげな表情でゆっくりとバットを立てる。

 塁上にいたフラッグスの2人もあの球なら十分に盗塁を見込めると、普段よりも大きめにリードを取っていた。


(ダブルスチールもアリか……?)


 マウンドに立つ左腕ルーキーの幼気な顔立ちがランナーからもよく見えた。

 1塁ランナーがそう考えながら2塁へ視線をチラと向けると、向こうもそう考えていたのだろう、視線が交差した。

 小さく頷く2人。

 右手を何度か小さく振り、初球から走ろうかと合図をしてもう一度頷いた。

 4番砥峰の性格を考えれば、2球目以降で走ろうとするとランナーがちらついて鬱陶しいと後で言われる可能性があるので、走るなら初球一択だ。

 ジリジリと右足で取るリードを広げながら走るタイミングを図る1塁ランナー。

 モーションに入った瞬間に走り出せば間違いなく盗塁できる。

 あの遅い球なら十分だろう。

 2-3塁になれば、ヒットでもホームまで飛び込めるかもしれない。

 同点が逆転になるのだ。チームに勢いを付ける為にもビジターであるこの試合で是が非でも勝ちをもぎ取りたい。

 だから、次の瞬間に起こった事が、まるで理解出来なかった。

 

「アウト!」


 は?

 1塁ランナーは、左脇腹に当てられているミットの意味が分からなかった。

 気がつけば横にはファーストが立っていて、その手の先にあるファーストミットは自身に当てられている。

 アンパイアを見ると、右腕を高らかに上げてアウトを宣告していて、ファーストは持ったボールをピッチャーに投げ返していた。


 え? どういう事?

 アイツは一度も俺を見ていなかったじゃないか。

 下半身はピクリとも動いておらず、バッターボックスだけを見ていたが、いつの間に牽制球を投げたのだ?


 ランナーは呆然とした表情のまま、足をベンチに向ける。

 そこで初めて気がついた。

 スタンドはルーキーが登場した時以上のどよめきを持っていると。

 そのどよめきの中をベンチまで足取り重く戻る。


 ランナーはヘルメットを脱ぎながら、監督へと足を向ける。


「監督、今の何だったんですか」


 今も疑問符がいくつも浮かんでいる様子の選手へフラッグス監督が視線を少しだけ向けるが、すぐにマウンドへと戻した。


「わからん。誰にも分からなかった。気がつけばあのルーキーが1塁へボールを投げていて、お前は牽制死した。それだけしか分からん」


 監督の言葉を聞いてランナーはベンチ内へ視線を向ける。

 だが、他の者も同じだったが、誰も視線を合わせてくれなかった。


「ヘッドコーチ、後でさっきの牽制動画を用意しといてくれ。癖があるのかどうかを見極めねばならん。癖とかのレベルじゃないかもしれんがな」


 マウンド上ではプレイが再開される。

 牽制死したランナーは今も呆然としたまま、若いにも関わらずふてぶてしい態度でマウンドにたつドラ1ルーキーへ視線を向ける。

 何度も先程の光景を頭に浮かべる。

 だが、やはり気がついた時には自分は牽制で刺されていた。

 監督が言うように癖だとかそんなレベルじゃない。

 もはやファーストが隠し玉を持っていたと言われたほうがよほど納得出来るくらいだった。

 

 そのまま何分立っただろうか。

 気がつけばいつの間にかフラッグスの攻撃回は終わっていた。

 ハッとして周囲を見ると誰も顔が浮かばない。

 スコアを見ると0が表示されている。


「お、おい。なんで俺たちに点が入ってないんだよ」


 近くにいた控え選手に声を掛ける。

 だが、返ってきた答えは驚くものだった。


「何いってんだお前。全員アウトだっただろうが」

「はぁ? 全員アウトぉ?」


 思わず声が裏返ってしまう。

 自分は牽制死したとはいえ、ノーアウト2塁で打線は4-6番のクリーンナップだ。

 せめて同点くらいにはなっていないとおかしい。というか相手がルーキーなら今頃固め打ちで逆転していてもおかしくない。


「お前砥峰さんに殺されるぞ。全員三球三振だっただろ」

「三球三振!?」


 口に出してハッとした。

 グローブを持ってグラウンドに向かおうとしていた砥峰がピクリと動き、今にも何人か殺しそうな表情でこちらを見たが、すぐに帽子を目深に被り直すとグラウンドへと足を向けた。


「ほら、お前もさっさと行け。監督にどやされるぞ」


 その言葉に慌ててグローブを持ってグラウンドへ向かう選手。


 結局その後、試合は1-0のままで試合終了。

 北九州ファルコンズのエース柳葉は開幕戦を勝利で飾った。


◆◆

 

 2023年 北九州ファルコンズ

 立花 聡太。 投球回3回

 球数 24球 8奪三振 1セーブ

 防御率0.00


 

 1つの時代が幕を開けた。

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