奇跡が起こって、君が笑う

葎屋敷

前編

 俺が最初に彼女の歌に聴き惚れたのは、放課後の屋上だった。

 夕暮れの空に向かって通る、大きさは控えめながらも透いた歌声。それを聞いた俺は屋上の扉の前で、口をポカンと開けたまま立ち尽くした。


 彼女は歌うことに没頭しており、目を瞑りながら、小刻みに身体を揺らしリズムをとっている。その度に彼女のショートカットの黒髪もさらさらと揺れた。

 俺は彼女の歌に聴き惚れるだけでなく、ついでに彼女自身に見惚れたのだ。


 歌が一曲歌い終わり、彼女は瞑っていた目を開ける。そこで彼女はようやく俺の存在に気が付いたらしい。びくりと肩を跳ねさせ、じっと俺を見る。そして口をわなわなと震わせた。


「あ、あの。屋上の鍵、開いてたから、その」

「……………………」

「う、歌上手だな! 俺も音楽好きだから、良かったら――」

「み、み」

「へ? 耳?」


 俺が彼女の歌を賛辞すると、彼女は顔を真っ赤にして俯く。そしてどこか拙さを思わせる小さな声で、なにかを話そうとしている。俺は話しかけることよりも、耳を傾けることに集中した。


 すると――、


「み、見なかったことにしてくださぁい!」


 彼女は力一杯そう叫び、猛ダッシュで俺の横をすり抜け、そのまま屋上から出て行った。


「ええ……?」


 困惑する俺を置いて。



 *



 そもそも、俺がなぜ屋上に行くことにしたか。


 俺が通っている高校の屋上には、皆入れないと思っている。なぜなら、屋上の扉の前に使えなくなった椅子が山ほど配置されているからだ。それは一種のバリケードのようで、それを乗り越えて屋上の扉の前に辿り着くのは、少々骨が折れる。

 だいたい椅子をどけたところで、屋上の扉には鍵がかかっている。実際、試した奴がいたらしい。そんな噂がまことしやかに囁かれているものだから、俺もそう信じていた。


 しかし俺は先輩からの話を聞いて、おかしいと思ったのだ。


 それは夏休みも近くなってきた今日こんにち。受験を控えた三年生の卒部する先輩方のためのお別れ会でのことだった。俺はフォークソング部に所属していて、これまでお世話になった部の先輩に別れを告げていたのだ。


 ちなみに、フォークソング部は軽音部となにが違うのかとよく問われる。フォークソングだから民謡でもやっているのか、とも聞かれる。

 しかし実際は民謡よりも現代の曲を演奏することが多い。少なくとも我が校のフォークソングが軽音部と違うのは、エレキギターやドラムではなくフォークギターやカホンを持ち、ロックではなくバラードを演奏することが多い、ということだけだったりする。


 閑話休題。


 仲の良かった先輩に「受験勉強頑張ってください」と声をかければ、紙コップに入ったコーラをあおっていた先輩は快活に笑う。


「いやだね! 俺は勉強しねぇ!」

「先輩……、もう夏ですよ?」

「ああああ、知るか知るか! 勉強したくねぇ!」

「先輩、もうすぐ夏休みですよ? その後は短い秋を迎え、すぐに冬です」


 受験に嫌悪感を示す先輩に対し、俺は心を鬼にして現実を示す。すると先輩は心底嫌そうに俺の顔を見た。


「いいなぁ、お前は。俺がお前と同じ学年の頃には、屋上で気楽にギターかき鳴らしたもんだけどさ。今じゃ受験の奴隷だ」

「あれ? 屋上って入れないんですよね?」

「おうよ、今はな。お前らが入学してきた年から、ちょうど入れなくなったんだよ。俺ら生徒が勝手にあがるのが危ないって話になったらしい。特に大きい事件とかがあったわけじゃねぇんだが、ご時世ってやつ? で、今じゃ椅子でバリケードみたいにされてんの。椅子積まれる前は、鍵も壊れっぱなしで入り放題だったんだけどな」


 かつての気楽な日々とやらを回顧し、先輩はため息を吐く。

 この高校は自慢ではないが貧乏だ。校舎のあちこちが痛んでおり、雨漏りもそこらにあるが、それらの不備が早急に直された試しはない。だいたい年単位でほっとかれる。そして生徒たちが天井の下にセットされたバケツを見慣れ、存在すら気にならなくなった頃にようやく雨漏りが直される。そんな事態が繰り返されるほどに、我が校には金がなかった。

 

 ここで、ふと。俺はうだうだと勉強の不必要性を説く先輩を見ながら、「はて?」と思った。

 先輩は屋上の鍵がかつて壊れっぱなしだった、と言った。俺が噂で聞いたところによると、椅子のバリケードを超えたところで鍵がかかっているから、校舎には入れないらしい。

 この二つの話を総合するに、屋上の鍵の故障は問題視され、すでに修理された、ということになる。


 しかし先輩の話によれば、屋上でなにか大事件が起こったわけではない。ただなんとなく、問題視されただけ。生徒たちが口をそろえて「雨漏り直せ」と訴えても動かないこの学校が、なんとなく問題視されただけで動くだろうか。いや、そうは思えない。


 それに、屋上の鍵を治したなら、なぜ椅子をバリケードとして設置する必要があるのか。


 予想するに、学校は使っていない椅子のバリケードで屋上に生徒が入れないようにし、屋上の鍵は直ったとカモフラージュの噂を流したのではないだろうか。

 そうすれば、わざわざバリケードをどけてまで、屋上に挑戦しようとする者はほとんどいない。予算を一切使わないで、問題の解決へこぎつけたのだとしたら。


 俺は思った。

 本当は屋上の鍵は直っておらず、侵入は可能ではないのか、と。



 *



 屋上が本当に開いている保証などない。そもそも、屋上へ上がることが出来たとて、特に利益はない。

 だから俺がお別れ会の後に先輩たちに別れだけを告げ、ひとり屋上にそっと向かう行為に意味はなかった。

 強いて理由をあげるとするならば、ただの知的好奇心による衝動だった。


 屋上への階段をのぼり、椅子によって構築されたバリケードの前に立つ。遠目にしか見たことがなかったが、近くで見て見れば、それはなんともお粗末なものだった。なにせ、椅子を積み上げ、扉の前を塞いだだけである。生徒が椅子をどかすことに躊躇する要素は、椅子の汚れくらいのものだ。幸い、汚れは洗えば取れるのだ、という考えのもとに俺は生きているため、椅子をどかすことに戸惑いはない。でも後で手は洗う。


 大きな音を立てないように椅子をどかすことには、少しばかり苦戦した。意外なことに、繊細なバランスの上で椅子は積みあがっていたらしい。

 俺が手前に積まれていた椅子群を処理すれば、奥の方は意外や意外。人が通れるほどの隙間が屋上の扉まで続いていた。それは細い道のようになっており、女子生徒であれば余裕で通れるだろうが、男の俺にとっては通るのがギリギリの細さであった。


 しかし、通れさえすればこちらのもの。俺は屋上の扉の前に、特に犠牲を払うことなく辿り着いた。


 少年の頃に小学校の裏山を探検したときかのような、わくわく感。それを感じながら、俺は屋上の扉を開いた。



 以上、これこそ俺が屋上に来た経緯であり、美しい歌姫を見つけるまでの前振りである。



 *



 屋上で歌っていた少女の名を、俺は知らない。同学年かもしれないが、同じクラスになったことのない女子生徒については、顔すら覚えてない子がいるはずだ。他学年だと断定することすらできなかった。



 俺はその日、悶々とした気持ちで帰宅した。母の用意した食事を喉に通す時も、風呂に入っている時も、自室の椅子に腰掛けた時も、常に少女の歌声が頭にあった。


「激うまだったよなぁ……」


 少女の歌声は素晴らしく、動画サイトで一度話題になれば、プロになることも夢ではないかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は動画投稿サイトを開き、自身のチャンネルを見る。


 俺は昔から音楽が好きだ。特にバラードが好きで、それを理由にフォークソング部に所属している。曲を作るのも、下手の横好きというもので、プロになりたいとまで志を高く持っているわけではないが、評価はされたかった。

 自身はこういう歌が好きだと主張し、誰かに同調してもらいたかったのだ。


 しかし俺の作った曲は世間からは見向きもされないものだった。それはチャンネルの登録者数や、動画の再生数からも明らかだ。これらの数を伸ばすためには、流れ星に願いを託して叶えてもらうような、そんな奇跡が必要かもしれない。他力本願もいいところではあるが、


「もし、彼女が俺の歌を歌ってくれたら――」


 それは俺にとって奇跡が起こすための一手になるかもしれない。そう思った。



 *



 それから数日、俺は屋上で出会った少女を探していた。もちろん、その目的は彼女に自身の作った曲を歌ってもらって、自身の動画の再生数を伸ばすため。

 我ながら、なんとも利己的な理由であるが、青春とは利己的なものであるとここに論を立てて、正当性をはかった。

 だがおそらく、そんな臍の曲がった屁理屈を神は認めないらしい。少女はなかなか見つからなかった。




 *



 俺が少女を見つけることを諦め、期末テストの結果を母に怒られることを懸念していたある日のこと。やはり探しものというのは探している時には見つからず、諦めた頃にポロっと出てきてくれるものであるらしい。


 昼休みのある日。廊下で偶然、普通にあの少女と出くわした。


「あ」

「え、あ――」


 俺の発した短音により、少女も俺の存在に気が付く。互いに突然の状況に思考がついていかず、膠着状態が続いた。


「あれ、宇田川。なにしてんの?」


 しかしその沈黙も長くは続かない。名も知らぬ女子生徒Aが少女の名を呼んだのだ。


 どうやら屋上の歌姫は「宇田川」というらしい。


「宇田川さん!」

「え」


 少女の名を偶然にも知った俺は、これ幸いと彼女に呼びかける。驚いた彼女はびくっと肩を震わせた。


「言ってなかったけど、俺、菊池!」

「え、は? えっと、はい……?」

「話があるんで、放課後、この前の場所で!」

「へ!?」

「なんだ!? LOVEか!?」


 俺の台詞に戸惑う少女、改め宇田川さんと、色めき立つ女子生徒A。

 楽しそうに笑う女子生徒Aは興奮した様子で、宇田川さんの肩を揺らした。


「どういうことだ! いつのまに恋愛イベントを熟したんだ!? イベントスチルは回収したのか!」


 女子生徒Aは独特の価値観をお持ちのようで、なんだか面倒そうな雰囲気を纏っていた。僕の言葉にただでさえ困惑している宇田川さんは、さらに女子生徒Aの詰問にも困っているようで、「えっと、ちが、えっと」と言葉を詰まらせている。


「それじゃ、そういうことで!」


 話は二人きりの時がいいだろうし、なによりここに長いは得策ではない。そう判断した俺は一言残し、そさくさとその場を立ち去った。



 *



 結論から言おう。宇田川さんはちゃんと来てくれた。

 彼女は屋上の扉を開けると同時に、先に来ていた俺を見た。そしてなぜか怯えた様子だった。


「あ、あの」

「呼び出してゴメン。どうしてもお願いしたいことが――」

「か、かつあげですか?」

「そんなことしないよ!?」

「すみません。屋上で歌ってたことは黙っててほしいんですけど、あのでも、私、お金持ってなくて――!」

「だからカツアゲじゃないって!」


 どうやら宇田川さんは自身が歌っていたことを秘密にしてもらう代わりに、俺に金を巻き上げられる、つまりは強迫されることを覚悟をしていたらしい。そんな物騒な。


「確かに頼みがあって呼び出したけどさぁ……」

「り、リボ払いは可能でしょうか!?」

「なんでよりによって利子付で払うつもりなんだよ! 一円たりとも要りません!」


 案外宇田川さんは人の話を聞かないようだ。そんな彼女に対し、俺はなんとか自身の事情を話した。


 自分が昔から音楽が好きなこと。自身で曲を作り、動画投稿サイトにアップしていること。しかしその評価は芳しくないこと。なにか自分の曲が話題になるきっかけが欲しいこと。


 そして――、


「この前の宇田川さんの歌を聞いて、すごいと思ったんだ! それで良かったら、俺の歌を歌ってみてくれないかな? その、お礼はケーキ奢ったりとか、ちょっとしたことしかできないけど……」

「……すみません、それは」

「あ、ごめん。甘いもの苦手だった? 豚骨ラーメンでもいい?」

「お礼の幅が端から端まで振り切れてますね。いやえっと、そのお礼の問題じゃなくて、人前で歌うっていうのが苦手なんです。そもそも、あなたが言うほど、歌そんなに上手くないし。だから、その、ごめんなさい……」


 そう言って、宇田川さんは頭を下げた。


「でも宇田川さん。気付いてないんだろうけど、宇田川さんの歌は本当に上手いんだ。これはお世辞とかじゃない。こんな誰もいない屋上で歌うんじゃなくて、いろんな人に知ってもらって、いろんな人に好きになってもらえると思うんだ。宇田川さんだって、いろんな人に認めてもらったりして、楽しいと思うし――」


 俺は説得を重ねたが、彼女の心に響いた様子はない。それは彼女の沈んだ表情から明らかだった。


「あなたにとって、音楽って誰かに認めてもらうためのものなんですね」

「それは――」

「私にとっては違います」


 目を伏せた少女は小さな声で呟く。


「私にとって、音楽は壁なんだ」

「え?」


 彼女の言葉の意味を図り切れず、僕はただ聞き返すことしかできない。

 目を見開く俺を一度だけ見て、彼女はまた目を逸らした。


「ごめんなさい。さよなら」


 そして謝罪と別れの言葉だけを残し、宇田川さんは足早に去って行った。

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