廃線鉄道の夜

生田英作

廃線鉄道の夜


(あーぁ……)


 終点××駅。

 無人の駅舎を通り抜けて空を見上げると辺りはすっかり夕暮れ時だった。

 本当は、もう少し早く来られる予定だったのに、手前の分岐する駅でうっかり乗る電車を間違えて、一端分岐の駅まで戻ってもう一度行き先の正しい列車に乗り直して……なんてやっていたらこの時間になってしまった。

 僕は、手の中の切符を見つめてため息を吐く。

 と言っても、この手の中の切符で列車に乗れる訳じゃない。

 何故ならこの切符は、すでに廃線になってしまった旧国鉄○○線の物。

 先月亡くなったおじいちゃんの形見の品だ。

 記載された発行日は、昭和四十五年の六月某日。

 この旧国鉄○○線が、廃線になる少し前。

 旅行と鉄道が好きだったおじいちゃんは、多分、廃線になる前に、という事で乗りに来たのだろう。その丁度一か月後、○○線は廃止になった。

 ハサミも入っていないきれいな保存状態の切符は結構貴重らしく、その手の事に詳しい友人に聞くとマニアの間では、結構な値段で取引されているらしい。

 とは言え、この切符は、おじいちゃんの形見。

 丁度、大学が夏休みに入ったこの日、僕はおじいちゃんの形見の切符を手にその旧国鉄○○線の始発駅があったこの地にやって来た。

 背負い直したリュックが、肩に食い込んでガサリと鳴る。


(と、言ってもこの時間だからなぁ……)


 そう思って何もない田舎のロータリーをきょろきょろしていると、一台だけ停まっていたタクシーが見えた。

 ウィンカーを点滅させて出発しようとしているのを僕が慌てて呼び止めると運転手のおじさんは目をぱちくりとさせた。


「うん? 兄ちゃん、どないしてん、こんなとこで?」


「あっ、実は――」


 僕が、旧国鉄○○線の始発駅である○○駅の遺構を見に来た事を説明すると、おじさんは「あぁ……」と頷いて真っ赤な夕暮れを背に黒々と佇む山の麓の方を指差して言った。


「そら、あの向こう側やな。あっちの商店街をずーっと下って行った突き当りや。ホームの跡がちょびーっと残ってるわ」


 ――遅ならんように気ぃ付けや、この辺誰もおらんさかいな。

 と、付け加えるおじさんに僕は丁重に礼を告げる。

 そして、タクシーの後ろ姿を見送ってから、僕は言われた通りにロータリーの先の件の商店街へと急いだ。

 時刻は、午後六時半過ぎ。

 いかに、夏とは言え、そろそろ暗くなってくるし、戻る電車だって今日は、あと一本だけ。八時十二分に来るのが最終だ。

 でも、折角来たのにこのままサヨナラでは勿体ない。

 なにせ、この旧国鉄○○線の遺構は、ネットでも取り上げているサイトが全く無くて、例の切符を見せて尋ねた友人が辛うじて概要を知っていたくらい。

 何故か分からないが本当にレアな廃線遺構らしいのである。

 僕は、拭っても拭っても噴き出て来る汗をタオルで拭いつつ


(これが商店街かな……)


 ロータリーの少し先にある薄暗い通りへと入って行った。

 青錆びた銅板張りの外壁やモダンな外装が特徴的な昭和初期の頃に作られたと思しき古い佇まいの商店が立ち並ぶ街並み。

 どの店も当然のように入り口は固く閉じられて、人の気配はない。

 曇ったガラス戸の向こうに見える、締め切られた分厚いカーテン。

 薄暗い視界の中にぼんやりと浮かび上がる、掠れて色あせた大昔のポスターと古びてあちこちペンキが剥がれた店の看板。

 ひび割れた木製のサッシに剥がれ落ちたモルタルの外壁。

 商店街と言うよりも元商店街、その廃墟とでも言うべきその街並みの中を僕は、足早に歩いて行く。

 麓に向けて緩やかなカーブを描く百メートルほどの長さの商店街。

 立派な石畳とその頭上に広がる薄く闇を帯び始めた濃紺の空。

 所々に唐草模様のデザインの外灯が立っているけれど、点灯する様子はまったくなく、まるで両側から迫って来るかの様に黒く闇に沈み込んだ建物の間をじっとりと湿った風が吹き抜けていく。


(そうだ……)


 僕は、かつての商店街を見回して何とも言えない気持ちになった。


(ここは、滅びてしまった街なんだ)


 そして、これから見に行く旧国鉄○○線。

 それもまた廃線となった、云わばこの街と共に滅びた鉄道。

 ここにあるのは、全て滅びてしまった跡。

 在りし日の残骸――


 …………。


 なんだか急に心細くなってきた。

 それに気のせいかもしれないけれど……。


(誰かに見られているような……)


 僕は、立ち止まるといま一度周囲を見回した。

 けれど、周囲には特段の変化はなく、薄暗い世界に立ち尽くすかのように、建物たちが無言でこちらを見つめ返して来るばかり。

 カーテンも扉も窓も固く閉じられたまま。

 何もかもが、唯々、無言で朽ち果てていた。

 しん、と音一つ無く闇に埋もれた過去の遺物たち。

 いま、この森閑とした廃墟の中にいるのは自分一人だけ。

 そう、少なくとも生きている人間は。


「…………」


 両の二の腕の辺りが、ひんやりと冷たくなって来て、そのそこはかとない薄気味の悪さに僕は思わず身震いした。

 僕は慌てて踵を返すと先を急ぐ。

 そうして歩く事、暫し。

 ほどなく、商店街の出口が見えて来た。

 と……

 薄闇を透かすようにして目を凝らすと、丁度商店街を抜けたその先に――


「えっ……」


 僕は息を呑んだ。

 目の前に広がったのは、さっき居た駅のロータリーのそれと同じぐらいの広さ、テニスコート二面分くらいの広場。

 その先に――


(まさか、コンビニ?)


 僕は、汗を拭って目を凝らす。

 ぼんやりと明かりが灯る平屋の建物。

 その低いシルエットと独特の形状。


(もしかして……。でも、そんな訳ないよな……)


 切符を握り締めた手にじっとりと汗が滲む。

 国鉄○○線は、とっくの昔に廃線になっていて、駅舎だって当然残っていない、という話だった。そう。タクシーのおじさんも言っていたけど、ホームの遺構が微かに残されているだけ。

 それだけしか残されていない筈なのに……。

 なのに――

 僕は、そろりそろりとその建物に近付いて行く。

 近づくとそれはよりはっきりと見えた。

 目の前にあるのは、平屋の白い建物。

 真っ暗な周囲に反して灯る薄暗い蛍光灯の明かり。

 僕は、小走りに走り寄り周囲をきょろきょろと見回した。

 どういうことなのか……。

 目の前の物が僕の勘違いであってほしい。

 後で帰った時に、件の○○線の事を教えてくれた友人に笑い話で報告できるように。

 でも――

 僕は、おじいちゃんの切符を取り出して印字されている文字を見る。

 そして、その建物の入口の上に掲げられた看板を見上げて僕は認めざるを得なくなった。

 間違いない。

 ここにあるのは、




『国鉄○○線 ○○駅』




 その駅舎だった。

 僕は呆気に取られて立ち尽くす。

 だって、そうだろう?

 とっくのとうに○○線は廃止になったはずなのに。

 そう、駅舎だってもう無い筈なのに。


(……なんで?)


 唖然とする僕の脇を人々が何事もないかのように通り過ぎ、改札口に立つ駅員さんに切符を見せ、駅の中へと吸い込まれていく。

 と、そんな僕の気を知ってか知らずか、後ろからさらに人がやって来て、


(あっ、とと……)


 僕も改札の方へ。

 駅員さんが、僕の手元に手を伸ばしてくる。


(あ、でも、この切符は――)


 と思った瞬間、



 パチンッ



 駅員さんは、僕の手の中の切符に当たり前のようにハサミを入れた。

 そう、それは、おじいちゃんの形見の切符。

 そして、僕はハサミを入れられたその切符と共に改札の中へ。

 何も言えないまま、半ば押し出されるようにして僕は駅舎の中へと進み、現われたのは左右に伸びる薄暗いホーム。

 が、

 それだけではなかった。

 ホームには、




 列車が停まっていた。




 古ぼけた二両編成のディーゼル列車。

 ぼんやりと蛍光灯の灯る列車の窓。

 僕の喉が、コクンと鳴って、切符を握り締めていた手が微かに震えていた。


(そんな……ウソだろう?)


 駅舎どころか列車まで。

 しかも、中に人まで乗ってるし……

 こんなことがあるだろうか?

 これは夢?

 いや、もしかしてものすごく大がかりなドッキリ?

 僕が車内に乗り込んだ瞬間、テレビでよく見るみたいに誰かが看板を持って出て来て、種明かしをしてくれるとか?


(まさか……まさか――ね?)


 そう思いつつ、僕がタラップを踏んで車内に入った瞬間だった。



 ジリリリリリリリッ!



 ベルが鳴った。

 この列車――


(……動くの?)


 そう思った瞬間だった。

 背後でバタンッとドアが閉じる音がして、



 ……カタン………………カタン……カタン……カタン、カタン――



 と列車が動き始めた。


(え……こ、困るんですけど!)


 僕は、振り返って思わずドアに縋り着いた。

 が、そんな僕の事などお構いなしに、ドアの窓を流れて行く薄っすらとした周囲の山並みは、徐々に速度を増して行く。

 僕の戸惑いをよそに列車は、当たり前のように走り出していた。


(ど……どうなって……)


 と、僕はここで、はっ、と気が付いた。

 さっきホームで見た列車の窓。

 その中にいた人たち――

 そうだ。

 列車に乗っている人たちに聞いてみればいいんだ。

 イタズラとも思えないし、かと言ってここまでリアルなのもどう考えてもおかしい。

 なら――列車に乗ってる人たちに尋ねればいい。

 うん、そうだ。

 なんてことない。

 多分、みんな「ハハハ」と笑って僕の疑問に答えを出してくれるだろう。

 なんてことない事なんだから。

 そう。

 たかが、列車に乗っているよ、ってだけの話なんだから。

 そう考えたら、急に元気が出て来た。

 そうだ、そうだ、僕は何をそんなに慌てていたんだろう?

 僕は、早速、乗っている他の人に話し掛けようと思って振り返った――のだけれど……。

 …………。


(あれ……?)


 思ったより乗っている人が少ないような……。

 僕が、いまいる位置から見えるのは、五人ほど。

 すぐ横にあるボックス席に座っている行商からの帰りらしいモンペ姿のおばさん達三人とその斜め向かいのボックス席に座るセーラー服の高校生くらいの女の子。そして、そこから少し離れた、車両の連結部に近い席に腰かけて、じっ、と目を瞑る背広姿のおじいさん、見える範囲にいるのはそれだけだった。


(さっき、もっと乗ってた気がしたんだけどな……)


 でも、まあいいや。

 誰もいないならまだしも、いるんだし。

 と言う訳で、僕は早速――という割には、おずおずとボックス席のおばさん達の元へ。通路側に座ったおばさんの横にゆっくりとしゃがみ込むと「あの、すいません……」と声を掛けた。


「すいません、この列車どこまで行くんですか? 僕、この路線初めてなんで、よく分からなくて……て、いうか、廃線になった○○線を見に来たつもりだったんですけど――」

 



 …………。

 



 あれ?


「あのぉ……すいません?」

 

 


 …………。

 

 


 え?

 ええと……


「…………」


 おばさん達は、互いの顔を虚ろな表情で見つめ合ったまま、なにかぼそぼそと話をしていて、僕のことなどまるで眼中に無いみたいだった。


「あのぉ! すいませんっ!」


 もう一度、呼び掛けてみる。

 が、同じだった。

 おばさん達は、聞こえない、と言うよりそんなものまるでいない、とでも言うかのように、僕の存在など気が付いていないかのように、おばさん達どうしで相変わらず聞き取れないほどの小さな声で何事か話しているだけだった。


(えーと……)


 額にじんわりと汗が滲んで来る。


(何なんだ……このおばさん達?)




 …………。




 無視とか、シカトと言うのとは少し違う。

 何と言うか、こう、もっと自然な感じの知らんぷり。

 何と言っていいのか分からないけど、まるで、自分が透明人間になったみたいな――

 そこまで考えて、僕は思わずゾッとした。

 背中を這い上って来る冷たい感触とみぞおちの辺りに感じる鈍い重さ。

 自身の胸の鼓動が、微かに聞こえて来る。

 まさか――

 まさか、本当に――


(いや……いや、待て、待て、この人たちが変なだけかもしれないだろう?)


 僕は、ともすれば喉の奥からせり上がって来る不安を飲み下すかのようにフルフルと首を振ると、今度は、おばさん達の斜め向かいのボックス席のセーラー服の女の子の元へ。

 卵型の顔に柔らかな目元と形のいい唇、そして、両の肩に少し掛かるほどの長さに編んだお下げ髪。女の子は、薄暗い蛍光灯の明かりに照らされて鏡のようになった列車の窓を無言で見つめていた。

 何処を見ているのか全く分からない瞳とシーンと冷たく静まり返ったその佇まい。


(………………)


 息をしているのかも疑わしいようなその寂とした姿に僕は若干気後れしつつも、


「あのう……すいません……」


 通路から彼女の横顔に声を掛けた。

 真っ暗な窓に映る弱々しい自身の姿に若干辟易しつつ、僕は彼女の様子を窺う。

 が、




 …………

 


 

 彼女は、相変わらず窓の外を見つめたまま、ピクリともしなかった。


(まさか……ウソ……だよね?)


 もう一度、声を掛けようとして僕は気が付いた。

 気が付かなくてもいいのに気が付いてしまった。

 真っ暗な列車の窓に映る僕の姿。

 が――

 目の前の少女の姿は、窓のどこにも映っていなかった。

 そう。

 誰も居ないボックス席と通路にポツンと立つ僕の姿。


「………………」


 背中に冷や水をぶっかけられたかのように、僕は目の前の少女を見つめたまま声を失って立ち尽くす。

 まさか……

 透明人間なのは、僕じゃなくて……

 と、いう事は、行商のおばさん達も――

 



 ――わあぁ!




 僕は、思わず飛び上がった。

 気が付くと背後に人が立っていた。

 紺の制服に同色の制帽。


(ああ、ビックリした…………車掌さん? 車掌さんだよね?)


 思わず胸を撫で下ろした僕に、背の高いその人は、制帽の下から虚ろな目で僕を「じーっ」と見つめながら


「…………」


 すーっ、と手の平を差し出した。


「…………へ?」


 まるでマネキンを思わせるような無表情の見本のような顔。

 キョトンとする僕に手を差し出したまま、車掌さんは身じろぎ一つせず、ただ、「じーっ」と僕の顔を見つめていた。

 ぼんやりと薄暗い車内。

 周囲を聞こえるのは、「カタン、カタン……」という規則正しい電車の走る音だけ。微かに血走った車掌さんのその目は、制帽の庇の下の暗がりの中から僕の顔を見つめて離さない。

 互いに無言のまま、時だけが過ぎていく。

 脇の下から滲み出た汗が体を伝い、再びじわじわと感じ始めた薄気味悪さが僕の体を包み込んで行く。


「ええと……」


 そこまで考えて僕は、ハタと思い当たった。


(切符だ!)


 そうだ、切符を見せてほしい、って事だ。

 でも、


(それなら、黙っていないでそう言えばいいのに……)


 体をごそごそとまさぐりながら僕は、胸の中で愚痴る。

 とは言え、


(おじいちゃんのあの切符でいいのかな?)


 僕は、体中をまさぐりながら、相変わらず無言のままの車掌さんに言い訳じみた卑屈な笑みを浮かべてみせる。

 額にじんわりと汗が滲んでくる。


(あれ……?)


 ジーンズの左右のポケットをまさぐり、


(あれ?)


 リュックサック……も入れた覚えはないけど一応調べてみよう。

 というか、列車に乗るとき――


(確かに手に握ってた筈なのに……)


 足元で、ドサッ、とリュックサックが重そうな音を立てた。

 もし、入れるとすれば、小さな物入れの部分。

 もし、あるとすれば――

 焦っているせいか、リュックサックのチャックが中々開かない。


(あっ、くそっ! 汗で滑る――)


 と、

 ふと、僕は我に返ったように、気が付いた。

 否、気が付いてしまった。

 額に、

 頬に、

 そして、背中に、

 痛いほどに感じるこの感覚。

 このじりじりとした感触……

 にじり寄って来るようなこの圧迫感……


(まさか――)


 僕は、恐る恐るリュックから顔を上げる。

 と――




 ――――っ!




 これまで、僕のことなど見向きもしなかったのに。

 まるで僕などいないかのようだったのに。

 行商のおばさん達が、

 女の子が、

 目を瞑っていた筈のおじいさんが、

 身を捩ってボックス席の脇から、

 身を乗り出して座席のその上から、

 そして、通路の奥から、

 僕の事を「じーっ」と見つめていた。


(あぁ……あぁ…………あぁっ!)


 淡い蛍光灯の光に照らされたぼんやりと薄暗い車内。

 血走った虚ろな瞳。

 青白い顔、顔、顔、顔、顔――

 ただ、無言で、

 ただ、ひたすらに、

 僕を見つめ続ける十二の瞳。

 その背後から微かに聞こえ続ける列車の音。


(ああ……ああ……)


 背骨を貫くかのように全身が痺れて、僕は……僕は、もう――


 


 僕は、もう声が出なかった。

 



(あぁ……)


 …………。

 車掌さんは、そんな僕にどうするでもなく手を差し出し続けている。

 僕は――

 僕は――

 僕は、絞り出すように言った。


「切符……あの……切符――」


 ――無いみた……い……


 ………………。


 …………。




 ***************




「兄ちゃん! 兄ちゃん!」


「…………」


 腫れぼったい感覚を頭に感じながら、僕がそっと目を開けると、


「あれ?」


 そこは、××駅駅前のロータリー。

 駅舎の前に一つだけ置かれたベンチの上。

 ベンチに横たわった僕の事を昨日会ったタクシーの運転手のおじさんが心配そうに見下ろしていた。


「兄ちゃん、ここで寝たんか? いやぁ、よぉ、無事やったな。いやな、今日、この奥のおばあはん、迎えに行く用事あったさかい、昨日の兄ちゃん、どないしてるかなぁ? ちゃんと帰ったかなぁ? 思うて、道の途中やし見に来たんやけど……」


 でも、まあ――

 おじさんは、短く刈られたごま塩頭をタオルで拭うと人の好さそうな顔をくしゃりと崩して笑った。


「無事で何よりや。もう、電車動いとるさかい、今度は、ちゃんと帰るんやで」


「あ……ありがとうございます」


「ほな、な」


 おじさんは、そう言い残すと停めてあったタクシーに乗り込み、走って行った。

 ミーン、ミンミンミーン……

 真っ青な空と胸いっぱいに満ちる夏の匂い。

 周囲からは、蝉の鳴き声がうるさいくらいに響いている。

 僕は、ベンチに寝転んだまま、視界いっぱいに広がる青い空を眺めてなかば呆然と気持ちで昨日の事を思い返していた。


(あれは、一体何だったんだろう?)


 廃墟の商店街。

 ある筈のない駅舎。

 来る筈のない列車。

 そして、その列車に乗っていた不気味な乗客たち。


(夢……だったのかな?)


 でも……

 僕は、ゆっくりと体を起こすと周囲を見渡した。

 誰も居ない駅前ロータリー。

 その隅には――

 ある。

 あの古びた商店街の廃墟が。

 夏の日の光の中、朽ち果てた哀れな姿を晒す過去の世界の住人達。

 あの先に――

 そう考えかけて僕は、フルフルと首を振った。

 もう、あんな怖い思いは御免だ。


(帰ろう)


 僕は、立ち上がって伸びをするとベンチの足元に置いてあったリュックを片方の肩に背負う。

 それにしても――


(あれは、一体何だんったんだろう?)


 振り返った先に相変わらず見える商店街の残骸。

 僕は、夏だというのに、しーん、と静まり返って冷たく佇むその姿にいま一度一瞥をくれると、今度こそ、駅の中へ。

 誰も居ない無人の駅舎。

 あるのは自動販売機が入り口の脇の一台切り。

 と――


「へぇ……」


 僕は、思わず声を出していた。

 昨日は焦っていたし、暗かったしでろくに見ていなかったけれど、駅舎の入り口を入ったすぐ横に六畳ほどの小さな部屋があった。

 アルミサッシの引き戸をガラガラと開けて中に入ると学校の教室で昔使っていた、正にあの机が向かい合わせで二つ部屋の中央に置かれ、その上にはペン立てにさされた鉛筆とノート。

 そして、左右の壁に架けられたモノクロのパネルたちと部屋の隅に立つガラスケース。中の車掌の制服を着たマネキンが生真面目に見つめるその先、件の写真のパネルの間に張られた模造紙にはこうあった。



『さようなら、○○線』



(そうか……この部屋は――)


 僕は、部屋の中をゆっくりと一巡する。

 夏の明るい日差しが差し込む小さな部屋に飾られた在りし日の○○線の姿。

 写真のパネルの下には、それぞれ小さな解説が付けられていた。



『最後の行商から帰って来た女性たち。大正初期から続く行商もこの日が最後となった』


『最終列車運転手への花束贈呈。彼女は、○○線を利用する沿線で最後の学生だった』


『最終列車に向けて敬礼する男性。男性は、大正末期から昭和にかけて○○線の運転士を四十年に渡って務めていた』



(…………)


 背中にひんやりとした感触が広がっていき、僕はパネルを穴が開くほど見つめていた。


(そんな……)


 みぞおちの辺りにまるで氷でも置かれたかのように、自分の顔から血の気がみるみる引いていくのが分かる。

 この写真の人たちは……

 そう、この写真の人たちは――





 昨日、列車に乗っていた人たちだった





 間違いない。

 笑顔で笑い合うモンペ姿の行商のおばさん達。

 恥ずかしそうに俯き加減に花束を渡すセーラー服のお下げの女の子。

 力強い眼差しで列車を見つめながら敬礼する背広姿のおじいさん。

 そして――




 …………




 部屋の隅のガラスケースを見て体中に鳥肌が起った。

 在りし日の○○線の車掌の制服を着たマネキン人形。

 そう、それは――





 列車の中で僕に切符を見せるように迫ったあの車掌さんだった。





(…………そんな……馬鹿な……)


 全身から冷たい汗が噴き出して僕はじりじりと後ずさる。

 蝉の声が、遠くの方で聞こえている。


(そんな――)


 と、




 カシャンッ!!!




 踵が机に触れて、ペン立てが床に落ち、鉛筆が散らばった。


(あっ!)


 僕は、慌てて鉛筆を拾い上げようと床に屈み込む。

 震える指先に当たって鉛筆があらぬ方に転がって行き、リュックもずり落ちて来てひどく拾いづらい。


(く……くそっ……くそっ!)


 パニックになりそうな自分を何とか押し止めながら僕は、鉛筆を無理くりにペン立てに差し込むと何度も失敗しながらなんとか机の上に置いた。

 その時だった。

 何かが、ひらひらと床の上に落ちた。

(何だろう?)

 僕は、屈み込んでその小さな紙片を拾い上げる。

 それは――



「切符……?」



 そう。

 おじいちゃんの形見の切符。

 あれだけ探しても無かったのに。

 しかも――


(ハサミが入ってる……)


 という事は、あれは――


(夢じゃ……なかったんだ…………)


 全身を包み込むような冷たい感触と喉の奥からせり上がって来る恐怖。

 切符を持つ指先が、カタカタと震えてしまって言葉が出ない。

 そして――

 頬に額に感じるこのむず痒い不快な感触……

 僕は切符から恐る恐る顔を上げると、


「うわぁぁっ!」


 尻もちを付いた。

 




 ――見ていた。





 パネルの中から全員が、

 笑っていた行商のおばさん達が、

 恥ずかしそうに笑みを浮かべていた女の子が、

 列車を見つめて敬礼していたおじいさんが、

 真顔で、

 僕を、

 切符を持つ僕の事を、

 写真の中から見下ろしていた。




 ああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁっ!




 体の底から湧き上がって来る戦慄。

 慌てて逃げ出そうと踵を返して喘ぐように戸口に向けて床を這う。

 僕の指先がサッシに触れようとしたその瞬間、

 カラカラカラ……とアルミサッシの引き戸が閉まった。

 そして――




 視界の隅で、ガラスケースの中の車掌のマネキンの首が、ゆっくりとこちらを向くのが見えた。



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廃線鉄道の夜 生田英作 @Eisaku404

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