蛇口からジュースを出す方法

 ずっと三人で一緒に暮らしたい。おそらく俺はこの願いを受け入れるべきではないのだろう。分別のある大人として、世の中にはままならないことがあるということをきちんと言い聞かせるべきなのだろう。

 でも俺は。


「一日だけ、考えさせてくれ」


 朱莉のわがままを突っぱねることができなかった。いや、最終的には朱莉の意志は関係ないのだ。これは、俺がどうしたいかという問題だ。だから簡単に答えを出すことができなかった。


「……そうだね」


 朱莉は少し顔を曇らせて、ゆっくりと立ち上がった。


「ごめんね、いきなりこんな話をして」


 目も合わせず、呟くように言った。そして、そそくさとリビングから出て行ってしまった。


 俺は広いリビングに一人で取り残された。家の中が雪の日のように静まり返る。壁に掛かった時計の秒針だけが動き続け、それ以外には全ての物体が静止している。俺もしばらくの間、心の動きを止めてみた。

 すると急に誰かの声が聞きたくなった。ポケットからスマホを取り出して電話をかける。


「……もしもし」


 千沙の声が聞こえた。俺は再び心を動かし始めた。


「もしもし」


「どうしたの?」


「まだスーパーか?」


「うん、そうだけど」


「ビール、買って来てくれないか?」


「ビール? いいよ、いくつ?」


「とりあえず何でもいいから、六本入りのやつ」


 俺の飲むペースから考えて、六缶あれば足りなくなるということは絶対にない。


「分かった」


「悪い。それじゃあ」


「じゃねー」


 通話が切れた。

 この家で酒を飲んだことはなかったが、千沙は別に気にしていなさそうだ。

 悩みごとができたから酒を飲む。我ながら実に安直だ。安直で、素晴らしくて、馬鹿馬鹿しい。


 夕方、朱莉がまたリビングに来たときには、いつもの彼女に戻っていた。昼間の出来事などまるでなかったかのように、俺たちは普通に会話をし、食卓を囲った。

 風呂には最初に朱莉が入り、入浴が済むとまた自分の部屋へ行った。今日はこのまま寝る流れだろう。次に俺が風呂に入り、千沙は最後になった。

 千沙が洗面所に消えると、俺は買ってきてもらったビール缶を冷蔵庫から一本出し、ソファーに座って飲み始めた。


 俺は別にビールが好きなわけではない。むしろ、なんでこんなに不味い飲み物が世界中でポピュラーになっているのか理解できないとすら思っている。

 でも、今日はなんとなく飲みたくなった。頭の中が苦くなっているから、逆にとことんまで苦くしてやろうと思ったのだ。


 やがて、風呂から上がった千沙がリビングに戻って来た。グレーのスウェットを着ている。


「珍しいね、晩酌なんて」


「ちょっと色々あってな。お前は先に寝てていいぞ」


 ビールの缶をじっと見ながら言った。しかし千沙は寝室には行かず、冷蔵庫から自分のビールを取り出し、ソファーの俺の隣に座った。風呂上がりだから髪がちょっと艶っぽい。


「一本貰うね。つーか、私が買ったやつだけど」


「お前も酒飲むのか」


 意外だと思った。正月の集まりも含めて、千沙が酒を飲んでいる場面は一度も見たことがない。


「会社の飲み会以外で飲むのはめっちゃ久しぶり。でも明日も休みだし」


 そう言って缶を持ち上げて、小気味いい音と共にプルトップを開け、静かに喉へ流し込んだ。


「あー、おいし」


 千沙は笑顔になった。少女がジュースでも飲んだかのようだ。「ぷはあっ」とか、親父みたいな声は上げない。失礼かもしれないが、初めて千沙に女性らしさというものを感じたような気がした。

 ビールを飲みながら何を話そうか考えていると、出し抜けに千沙が言った。


「そういえば貞治、朱莉と随分仲良くなったよね」


「そうか?」


 冷静を装いながらも、内心どきりとした。朱莉に関することで悩んでいるのがいきなり見破られたのだと思った。


「うん、二人でよく話してるし。朱莉め、私の貞治を取りやがってー」


「相手は小学生だぞ。何言ってんだ」


 自分でそう言いながら、突っ込むべきところはそこなのだろうかと自問する。

 でもなんというか、昔の千沙だ。子供だった俺にくっ付いてばかりいた、あの頃の千沙みたいだ。


「私の好きな言葉で、こういうのがある」


「なんだ?」


「僕はロリコンではない。好きになった相手がたまたま小学生だっただけだ――」


「……それは誰の言葉だ?」


「近所のおじさん。小学生に声をかけた事案で捕まったけど」


「ダメじゃねーか」


「ま、嘘だけどね」


「嘘かよ。信じちゃったよ」


「子供と一緒にいると、作り話が上手くなっていくものなの」


「ならもうちょっと救いのある話にしてくれ」


 千沙は返事をする代わりに、ビールを口に運んだ。

 それから俺たちは黙って酒を飲み続け、二人とも同じタイミングで缶の中身が空になった。

 俺はまた冷蔵庫からビールを二缶持って来て、片方を千沙に手渡し、ソファーに身を沈めた。

 千沙は冷えた缶を開けながら言った。


「それで、何かあったの?」


「話さなきゃダメか?」


「別に無理強いはしないけど」


 俺も二本目のビールを一口飲んだ。それから深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「朱莉にお前のことをママと呼ばせるの、できないかもしれない」


 淀みなくそう告げると、千沙がこちらを向いた。目付きが少し真剣になっていた。


「朱莉に何か言われたの?」


「俺とずっと一緒に暮らしたいと言われた。あと、千沙のことをママと呼ばせようとしていた約束がバレていて、約束が果たされたら俺がここを出て行ってしまうのだとしたら、もうママと呼ばないとも言っていた」


「……マジか」


 千沙は呟くように声を漏らし、俯いた。


「俺、どうしたらいいと思う?」


 千沙はしばらく黙って考えていたが、やがて顔を上げた。


「今まで朱莉のお願いに付き合わせちゃってごめんね。とりあえず、もう貞治は朱莉の言うこと気にしなくてもいいよ。それは親である私が話をしなきゃいけないことだから」


 そこで一呼吸置く。続きがありそうなので、俺は口を挟まずに待った。


「……それに冷たい言い方をすれば、朱莉にママと呼ばせる約束だって、アンタが自分で言い出して自分でやろうとしてたこと。もちろん、私たちのために色々してくれたのは感謝してるけどね」


 優しげな微笑みを見せてくれた。俺が言葉を返さないので、千沙は話し続ける。


「要するに、朱莉が私のことを呼んでも呼ばなくても、貞治がうちを出たいなら出ていいし、いたいなら気の済むまでいてもいいよ」


「そんな下手なこと言ったら、俺は死ぬまで居座るかもしれんぞ」


 俺はようやく口を開いた。何か言わなきゃいけないと思ったから。


「そうなったとしても、私は別に困らないかもしれない」


 本気なのだろうか。

 うちにいてもいい、いても困らない。千沙自身は、いてほしいとは言わないが拒否もしない。望まれれば受け入れてしまう。だからこそ危うい。学生のうちに子供を身籠ったのも、そういう性分が起因したのかもしれない。


 最初から「早く家探しなよ」だとか、「いつになったら出て行くの?」だとか、そんな風に言われていたらどれだけ救われただろう。でも千沙はそんなことは言わない。これは優しさなのか?


 千沙の横顔に目をやる。心なしか、頬がほんのりと紅潮しているようにも見える。きっと酒のせいに違いない。そうじゃなきゃダメだ。


 俺はビールを飲みながら考えた。考えて、考えて、考えた。その間、部屋の中はずっと静かだった。千沙もこれ以上何も言わなかった。

 そして、俺はついに結論を出した。


「しばらく考えさせてくれ」


 俺の出した結論は、今は結論を出せないということだった。


「いくらでも、待つよ……」


 そう言って千沙は俺の肩にもたれかかった。そして、そのまま動かなくなった。

 腕に千沙の温もりが感じられる。顔を覗き込んでみると、瞼を閉じていた。


「大丈夫か?」


 声をかけても反応がない。浅い呼吸を繰り返している。酔いが回って眠ったようだ。会社の飲み会でも二本で潰れてしまうのだろうかとちょっと心配になった。


 毎日同じ部屋で寝ているが、こんなに近くで寝顔を見たのは初めてだ。閉ざされた一対の瞼と長い睫毛は、飛行機で見た朱莉の寝顔――実際には寝ていなかったわけだが――を思い起こさせた。


 起きる気配がないので千沙の体をソファーに横たえて、寝室に二人分の布団を敷いた。

 それから千沙の肩と膝の裏に腕を回し、抱きかかえ、布団に寝かせた。

 僅かに残っていたビールを飲み干し、空き缶をゴミ袋に捨て、俺も千沙の隣で眠った。

 あと何回、こうしてこいつと一緒に寝ることができるのだろう。



 翌朝。誰かに体を揺らされ、目が覚めた。いや、誰かではない。誰なのかは分かっている。揺らし方、力加減、掴む手の大きさ――ではなく、小ささ。それら全てがこの生活の中で俺の体に滲んでいる。


「起きて、朝だよ」


 朱莉が俺の顔を見下ろしている。何が楽しいのか分からないけれど、楽しそうな顔をしている。


「起きた?」


「朱莉」


「おはよう」


 休日は目覚ましのアラームをかけずに好きなだけ寝る。千沙はいつも先に起きていて、朝ご飯を食べる頃に朱莉が小さな手で俺の体を揺らして起こす。俺は今、改めて幸せを


「なあ、聞いてくれ」


 寝起きだが頭は正常に回っている。俺は今言わなきゃいけないと思った。今伝えたいと思えた。


「うん?」


「正直に言ってしまえば、俺もお前らとずっと一緒に暮らせたら嬉しい」


「え? うん……」


 朱莉の表情が期待の色に染まる。


「でも、そうしたいからといって実際にそうするわけではない。せいぜい、水道の蛇口から俺の愛する我が社のジュースが出てきたらいいなあぐらいの現実味だ」


 結局俺は、正しくない道を進み続ける気にはどうしてもなれなかった。それが自分自身の望んだものだとしても。


「じゃあ――」


 今の説明で、俺は朱莉の願いを断ったつもりだった。でも朱莉はそのことに気付かず、あるいは気付きながらもへこたれることなく、笑顔を崩さずに言った。


「一緒に考えようよ、蛇口からジュースを出す方法を」


 窓から朝の光が差し込み、彼女の形を柔らかく照らす。その姿には子供の頃の千沙の面影がある。遠い過去の世界に佇む千沙が「そうなったとしても、私は別に困らないかもしれない」と呟いたような気がした。


「まあ、考えるだけなら……」


 思わず朱莉の提案を受け入れてしまった。俺はどうしようもなくダメな大人だ。生まれて初めてそう思った。

 すると、朱莉が寝ている俺に顔を近づけ、囁いた。


「朝ご飯食べたら、私の部屋に来て」


 まるで親しい友達と内緒話をするかのようだ。俺は無言で頷いた。どうしようもなくダメな大人だ。求められれば受け入れてしまう。

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