朱莉の部屋
今日も三人でコタツに入ってテレビを見ながら、スーパーの店内にあるパン屋のパンを齧った。俺は塩パン、千沙はピザパン、朱莉はカレーパンだ。
朱莉が最初に食べ終え、まるで何でもないことのように言った。
「貞治君、私の部屋で勉強教えてほしいんだけど」
無論、さっきの話の続きだ。俺は朱莉の部屋で勉強を教えたことなど一度もない。
「ああ、いいぞ。あとで行くから」
「うん」
朱莉は頷いて立ち上がった。自分のグラスを水道の水で流し、リビングから出て行く。
俺もパンの最後の一口を牛乳で流し込むと、グラスを持って立ち上がった。
「貞治」
千沙が座ったまま声をかけてきた。
「ん?」
「昨日は途中で寝ちゃってごめんね。布団まで運んでくれてありがとう」
恥ずかしそうに目を逸らしながらそう言った。
「ああ、そっちか。気にすんな」
「ごめん」
「それだけか?」
「うん、それだけ……」
「ふぅん」
俺もグラスをシンクで洗ってから、朱莉の部屋へ向かった。リビングから出てまっすぐに歩いた先、短い廊下の奥に朱莉の部屋のドアがある。毎日目には入るが中に入ったことはない。
軽くノックすると、すぐにドアが開いて朱莉が顔を覗かせた。
「いらっしゃい」
「おう」
なんだか他人の家の中に更に他人の家があるみたいで、妙な感じだ。
「お邪魔しまーす」
今まで不可侵領域であった部屋の風景が視界に現れる。その全貌はなんというか、普通だった。白い壁紙にアイボリーのカーテン、白い布団が掛けられたベッド、木製のタンスと学習机、本棚には雑誌や漫画が綺麗に並べられている。実はアイドルファンでポスターが貼られていたりだとか、アニメオタクでグッズが所狭しと置かれていたりだとか、そういう面白トピックは一切ない。
「ちゃんと綺麗にしてるんだな」
初めて入った部屋なのに、それしかコメントが思い浮かばなかった。
「あんまりじろじろ見ないでほしいんだけど」
「あ、悪い」
俺は部屋を見回すのをやめ、適当に腰を下ろした。朱莉は自分のベッドの上に座った。
「もう一ヶ月も住んでるのに、この部屋は初めてだ」
「まだ一ヶ月しか経ってないんだね」
朱莉は目を伏せてぽつりと呟く。どういう意味なんだろう。心情を読み取ろうとしていると、朱莉が続けざまに口を開いた。
「ねぇ」
「なんだ?」
「どうしたら貞治君がずっとうちで暮らせると思う?」
やれやれ、いきなり本題か。子供らしいといえば子供らしいが。
「それを話す前に、確認しておきたいことがある」
「何?」
「朱莉だって、ずっとこの家で暮らすわけじゃないだろ? 大人になったら独り立ちするはずだ。まあ、中にはずっと親と暮らす人もいるけどさ」
「それは、分かんないけど……」
「十年先のことはどうなるか分からんが、とりあえずこれから十年くらいどうするかという話として聞いてくれ」
「うん」
「ずっと暮らすこと自体は別に難しいことじゃない。今の生活をこのまま続ければいいだけだからな。問題は大義名分というか、他の人に何て説明するか、だ」
「うん」
「無難なのは同居人という扱いだが、火事になる前はずっと一人で生活できていた俺がいつまでも同居人として一緒にいるのも怪しい。何か裏があると思われる。うちの親が千沙に頼んだという事情ならまだ分かるが、金がないからとか言ったら、俺の親はすぐにでも金を送ってくるだろう」
「うん、確かにそうかも」
自宅を失ったからしばらくの間親戚の家に住まわせてもらうというのは全然おかしなことではない。でももう、その『しばらくの間』が終わろうとしていて、さあこれからどうしようという段階だ。俺の親は、朱莉の望みであろうと俺が世話になっていることを申し訳なく思っている。だから食品を送るという形でお礼もしている。
「他に何か上手い言い訳があればいいんだが」
「うーん」
脳をフル回転させて考えた。一緒に暮らすことを指す言葉を一つずつ思い出してみる。同居、居候、ルームシェア、同棲――。
そして俺はある方法を思いついた。というより、普通は最初に挙げられることだが、当然のごとく選択肢から除外していた。
「なあ」
「うん?」
「今から話すことはもしもの話であって、俺が実際にそうしたいというわけじゃないからな? あくまでそういう方法が存在するというだけだからな?」
「分かった」
朱莉はこくりと頷いた。
この話はできればしたくない。俺はやや緊張しながら口を開いた。
「一緒に住むことを認めさせることができる最強の手は、やっぱり結婚だ」
「うん、そうだよね」
朱莉の反応はあっけらかんとしたものだった。
「あまり驚かないんだな」
「まあ、あとはそれしか残ってないと思ってたし」
「そうですか……」
どん引きされてもおかしくないという覚悟で言ったのだが、杞憂だったようだ。
「それで、話の続きは?」
朱莉の声が弾んでいる。ワクワクし始めているのか。
「大体想像つくと思うが、結婚はめちゃくちゃハードル高いし、クソ面倒臭い。ので、こういうケースでは事実婚の形を取ることになる」
「じじつこん?」
「要は結婚の届を出していないのに、あたかも結婚したかのように一緒に暮らすことだ」
「その場合って、貞治君はママか私のどっちとその事実婚をすることになるの?」
「……は?」
我が耳を疑った。でも聞き間違いかもしれないので、一応確認することにした。
「なんでそこでお前が出てくるんだよ。女は十六歳以上じゃないと結婚できないんだぞ」
「え? でも事実婚って、勝手に一緒に暮らすことなんでしょ? 年齢の法律は関係なくない?」
「え……」
確かに、住民票の問題を無視すればそうなのかもしれない。だが小学生と一緒に暮らして「これは事実婚です」なんて馬鹿な話は聞いたことがない。真っ当なプロセスを辿るのであれば、千沙の方と事実婚をするという形になる。
「なんだ、お前は俺をパパにするだけでは飽き足らず、結婚したいと申すのか?」
「ち、違うよ。貞治君がママに向かって『朱莉を俺に取られて妬いてんのか』なんて言うから……」
朱莉はほのかに頬を赤らめ、おずおずと言った。
「え、そんなこと言ったっけ?」
「正月にうちに帰るときに、飛行機の中で」
「ああ……」
朱莉が狸寝入りしていたときか。確かにそう言ったが、朱莉が思っているような意味ではない。
「それはそういう意味じゃねえよ。あくまで娘のような存在として、だ」
そう言った瞬間、朱莉の目が光ったような気がした。
「ふぅん、じゃあ貞治君は私を娘みたいに思ってるんだね。やっぱり一緒に暮らした方がいいんだよ」
「なっ……」
こいつ、この俺をはめやがったのか。言質を取るような真似をするとは、色々な意味で将来が心配になる。
「とにかくだ」
俺は咳払いをして気を取り直した。
「一応方法論としては説明してやったが、事実婚だろうと何だろうと、俺と千沙は付き合ってるわけでもないのに結婚なんかするわけない。つーか、そもそもいとこだし」
「いとこでも結婚することはできるよ」
「たとえ可能であっても、しない。お前と結婚する方が、まだ可能性があるかもな」
一杯食わされた仕返しにからかってみる。朱莉は困ったような表情で首を傾げた。
「……やっぱりロリコン?」
「俺はロリコンではない。好きになった相手がたまたま小学生だっただけだ」
「それ、ママの作り話のやつ……」
「なんだ、知ってたのか」
「うん。私、ママの作り話は好きだよ」
俺はその言葉に対しては反応せず、口を閉ざした。少し喋り疲れたみたいだ。
結局、俺には何かを決断しようとする気はないのだ。そもそも千沙抜きで話を進めている時点で真剣ではない。子供のおままごとに付き合っているようなものだ。
部屋の中は沈黙で満たされていた。が、やがて朱莉がまた話し始めた。
「ねぇ。恋や結婚じゃなかったら、貞治君が一緒にいて楽しいと思える女の人と暮らすのはいけないこと?」
「……いけなくはない。が、とても不自然だ」
「ねぇ、もしも……もしもの話だよ?」
やめろ、その先は言うな。
「もし貞治君が私たちと血が繋がっていなかったら、私たちと一緒に暮らしてる?」
「親戚じゃなかったらこの家に転がり込むことはなかったし、そもそも俺たちは出会うことすらなかった。無意味な仮定はやめろ」
「そういうことを聞いてるんじゃないんだけど……」
分かってる。だが、分かっているからこそ答えられないこともある。
「朱莉はもうすぐ中学生なるんだ。少しだけでいいから、大人になれ」
俺は静かな声で言い聞かせるように言った。でも朱莉はしょげた顔を見せ、俯いてしまった。
それほど落ち込むことだろうか。だって、家族でもないのに一緒に暮らすだなんて普通じゃない。彼女の心を突き動かしているものは何なのだろうか。俺にパパになってほしいだなんて、何が彼女をここまで言わせるのだろうか。俺はまだその解を知らないし、宙ぶらりんなままここを出て行く気にもなれない。
「あーもう、しょうがねえなぁ」
俺は頭を掻き、いかにも仕方ないという雰囲気を装って言った。
「一応千沙に頼んでみるよ。同居人として、ずっとここにいさせてくれって」
「本当?」
とどのつまり、同居人という手段しかない。親や周囲との調整は力技でどうにかするしかない。
「色々言ったけど、俺だって一緒に暮らしたいという気持ちは、嘘じゃない……」
それに、一度幸福の味を知ってしまったら、灰色の日々にまた戻るのは辛い。
「ありがとう」
朱莉にいつもの笑顔が戻った。だが可愛らしさの裏側に何かの痛みが潜んでいるようにも思えた。
なんか俺、千沙と朱莉の間を行ったり来たりしているな。もちろん二人が会話することもあるけれど、俺がこの家に来てからはずっと俺が二人の間を取り持っていた。
果たしてそれは、親子として正しい形、あるべき姿なのだろうか。
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