第2章
童貞を捨てなければならなかった理由
クリスマスの月曜日、福岡は久しぶりに晴れた。
家に帰り玄関で気だるげに靴を脱いでいると、リビングから朱莉がやって来た。もう学校は冬休みに入っていて、用事がなければ大抵は家で過ごしているらしい。
「おかえり、貞治君」
朱莉がわざわざ玄関までお出迎えに来るなんて初めてのことだ。今日は何かあっただろうかと考えてみる。それから思い出したように言った。
「おお、クリスマスのお土産なら、今日はないぞ」
「そんなの分かってるって。プレゼントなら昨日くれたでしょ」
「そうか。じゃあ、なんでわざわざ玄関に?」
「なんでって言われても……帰って来たから?」
朱莉は首を傾げた。どうやら特に意味はないらしい。将来俺にも娘が出来たら、こんな風に「パパ、おかえり」って言いながら玄関まで来てくれるのだろうか。それはさぞかし癒されるだろう。
「……ただいま、朱莉」
朱莉は何も言わず、微かに顔を綻ばせた。
一緒にリビングに入ると、千沙の声と共に旨そうな匂いが俺の感覚を刺激した。晩ご飯のビーフシチューがコタツの上に二つ並べてある。昨日ほど豪勢ではないにしても、クリスマスを意識した献立なのかもしれない。
鞄を千沙の部屋に置いてから、冷えた半身をコタツの中に潜らせる。千沙が俺の分の料理も持ってきて、今日も三人での食事が始まった。
テレビを見ながら他愛もない会話をしている最中、出し抜けに千沙が言った。
「あっ、そうだ。飛行機のチケット買うの忘れてた」
「飛行機?」
「正月に帰るときの」
「やべ、俺も買ってない」
「まだあるかなぁ、早く買わなきゃ」
毎年正月には、親戚一同が東京にある婆ちゃんの家に集まることになっている。自分の家が全焼してしまい、そんなことはすっかり頭から抜け落ちていた。
「じゃあ、俺も分も一緒に取ってくれるか? あとで金渡すから」
「往きはいいけど、帰りも一緒に帰って来るの?」
「そのつもりだけど、なんか変か?」
「いや、貞治は実家でゆっくりしてから帰るんだと思ってたから」
「まあ実家に行っても別にやることないしな。今は母さんがうるさそうだし、久しぶりに婆ちゃんちに泊めてもらおうかな」
「ふうん。私たちは三日に帰るけど、それでいい?」
「ああ。そうだ、折角だから朱莉も一緒に泊まったらどうだ?」
「わ、私?」
朱莉は不意を突かれたようだ。
俺は突如閃いたのだ。朱莉が千沙のことをママと呼ばなくなった理由、それをもう本人から聞き出そうと。普通に聞いても口を割らないが、婆ちゃんの家という非日常的な場所で親交を深めれば教えてもらえるかもしれない。
「私は泊まらなくていいよ」
即答された。俺の作戦は思いついた瞬間に終了した。
朱莉は婆ちゃんの家に泊まったことはない。朱莉にとってはひい婆ちゃんだし、同年代のいとこがいるわけでもないから抵抗があるのは分かるが。
「分かった、じゃあ往き帰りは一緒な」
無理強いすることもないので、とりあえず諦めた。
すると、黙って事の成り行きを見守っていた千沙がクスクス笑った。
「ふふっ」
「どうした?」
「帰るのも一緒だなんて、まるで家族の一員みたいだね」
「……別にそんなことはないと思うけど」
深い意味があって言ったわけではないということは分かっているが、曖昧に返すことしかできない。
千沙は立ち上がり、食器を片付け始めた。とりあえず俺も自分の食器をキッチンへ運んだ。
夕食後、最初に朱莉が風呂に入り、次に千沙が浴室へ行った。俺はずっとソファーに座ってテレビを見ていた。すると、風呂から上がったパジャマ姿の朱莉が隣に座って言った。
「ねぇ」
「なんだ?」
俺はテレビ画面から視線を動かさずに訊いた。
「貞治君って、いつまでうちにいるの?」
「まだ決まってないけど、朱莉が俺にしばらくいてほしいって千沙に言ってくれたんだろ?」
正直に言って、この家は居心地がいい。飯も旨い。朱莉に千沙のことをママと呼ばせるという約束も反故にするつもりはない。だが朱莉にそのことを言うわけにはいかない。
「うん。えーと……うちはお父さんがいなくなっちゃったから、貞治君がいてくれた方が寂しくないから」
朱莉の言葉は、まるで何かの台本を読んでいるような口調に聞こえた。真意なのかどうかは分からない。でも俺はそれに気付かないふりをした。
「やっぱり父親がいなくなって寂しいのか。千沙は再婚とか考えてないのかな?」
隣を向くと、朱莉は眉をひそめていた。
「分かんない。そういう話はしたことない」
「それなら、俺がそれとなく聞いてみるよ」
「うん……」
それ以上、この話題は続かなかった。
やがて千沙が脱衣所から出てきて、俺も風呂を頂いた。
眠る前、俺は朱莉に言った通り、千沙は再婚について考えているのか訊いてみることにした。
いつものように千沙の部屋の照明を消し、布団に入り、横になったまま話しかけた。
「なあ」
「んー?」
「お前、ゆくゆくは誰かと再婚しようとか考えてるの?」
「んー」
千沙は少しの間、考えるように唸った。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「別に、なんとなく」
俺がいれば寂しくないと、朱莉が言っていたとは言えない。それは千沙には言うべきではないことだ。
俺は言葉を濁したが、千沙は話を続けた。
「……なんかもう恋愛とかするのも面倒なんだよね」
「何が面倒なんだ?」
「私が今、恋愛において面倒だと思うことは、ライン、電話、デート、セックス、何を話すか考えること、何を着るか考えること、贈り物を考えること、それから……」
身内とはいえ、布団を並べて寝ているときにセックスなどと軽々しく口走らないでほしい。こいつには昔からこういう明け透けなところがある。
「いやいや。それはもう恋愛の全てじゃねーか」
「そんなことはないよ」
「あとは何が残るんだよ?」
「ただ好きでいるということ」
千沙は静かな、かつはっきりと輪郭を持ったような声で言い放った。その言葉には、目に見えない固い芯が通っているように聞こえた。
「いい歳して乙女みたいなこと言うなよ。気持ち悪い」
千沙にとって、ただ好きでいるだけの恋愛とは一体どういうものなのだろうか。真意が分からず、悪態だけつく。
「貞治はどうなの? 彼女とか作らないの?」
いつもの気さくな話し方に戻る。修学旅行の夜に友達と恋愛話をしているかのようだ。だが俺も彼女を作る気はない。なぜなら。
「……俺にはもう、人を好きになる理由がなくなったんだ」
「ということは、過去には人を好きになる理由があったってこと?」
「そうだな」
「それは何?」
「端的に言えば、童貞を卒業することだ」
「うわ……」
声色だけで相当引いていることが分かる。俺はすかさずリカバリーした。
「まあ、聞け。これから深い話をしてやるから」
「ここから深い話に昇格するビジョンが全く見えない……」
「いや。実は、童貞を卒業すること自体が目的ではないんだ」
「……どういうこと?」
「童貞でいると上から目線で物を言ってくる連中がいる。心の中で勝手に思っているだけなら問題ないが、俺に見聞きできる形で色々なことを伝えてくる。それが鬱陶しくてな。俺はそれをなくすために童貞を捨てなければならなかった」
「ふうん……。貞治のためを思ってアドバイスしてる人もいると思うけどな」
「たとえ善意によるものだとしても、鬱陶しいことに変わりはない。でも結果としては、俺は彼女を作り童貞を卒業することができた。上から目線で何かを言われるということを、なくすことができた。だから、今はもう人を好きになる必要がなくなった」
「なんか彼女が可哀想。その人とはどうなったの?」
「一年半くらいで振られたよ。あと誤解があるかもしれないが、俺は彼女のことが大して好きじゃなかったとか、体目当てだったというわけではない。彼女のことは真剣に好きだった。ただ、好きにならなければならない理由というものが存在していただけだ」
「……なんか私にはよく分からないな、そういう感覚」
先ほどの話から考えて、千沙は純粋な好きという気持ちだけを必要としている。対して俺は、理由のない好きという気持ちを必要としなくなった。まるで正反対だ。分かり合えるはずもない。
そういえば千沙が離婚に同意した決定打も、浩司さんが千沙のことを好きじゃないと言ったからだ。誰かを好きになるということは、それほどまでに素晴らしいことだっただろうか。遠い昔の出来事でもないのに、上手く思い出すことができない。
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