第172話 その7
郷は自販機のコーヒーをのボタンを押そうとするが、手を止めて千秋に尋ねる。
「コーヒーでいいかな」
「いえ…、できれば紅茶を……」
郷はミルクティーを選び、千秋と自分の分を買うとひとつを千秋に手渡した。
「ありがとうございます」
郷はロビーの長椅子に座るように促すと、自分もひとり分の間を開けて横に座った。
「ちょうど会いたいと思っていたんだ、話したいことがあってね」
また非難されるのかと身構える千秋だが、郷からの言葉は違うものだった。
「町屋さんと塩尻さんを引き受けてくれてありがとう。心から御礼を言わせてもらう」
「は、あ、いえ、私はなにも、」
「たしかにそうだが、しかし、佐野くんがいなければ今回のような人事は出来なかったのも確かだ。じゅうぶん御礼を言わせてもらう理由はあるよ」
郷の甘い声は一定のトーンで話すから心地好い。千秋は素直に頷くことにした。
「御二人は私が若い頃の上司でね、大きな功績は無かったけど、部下や若手の面倒見が良くて、社員教育という見えない功績がある。それにそれが今の私の支えにもなっているんだ。そんな大恩ある先輩を、家庭の事情とはいえ早期退職するなんて事を見過ごせなかったんだよ」
「私情ですか」
「まあ否定はしないが、それだけじゃない。今回の対応で、会社は社員を助ける目と情があると知らせられたからね。福利厚生的にはプラスになったと思ってる」
「そうですか」
千秋の返事を聞き、郷はミルクティーをひと口飲んだあと黙りこむ。沈黙の時間が流れた。
「どうかなさったったんですか」
「なにか話したそうだから黙っている」
「別に話すことなんか……」
「そうかい、ならいいけど」
ふたたび黙りこむ郷。千秋も黙ったままミルクティーを飲み始めるが、やがて口を開く。
「会社に与えられた仕事をこなしただけですよね、私は」
郷は黙ったままである。
「なのに企画部長が退職して、企画部が無くなって、その影響でいろんな部署に迷惑をかけています。私はなにか間違えてしまったのでしょうか、私は会社に居ていいのでしょうか」
「会社を辞めたいのかい」
「……いいえ……」
「例えば、佐野くんが今回の仕事をしなかったとしたら、どうなっていたかな」
「それは……」
「サトウ課長とスズキさんは横領を続けて、会社の被害はもっと大きくなっていただろうね。スズキさんも、ずっと脅されて心が休めない日々をおくっていただろう」
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