誰かの夢が叶うころ

(2015年頃・JA805A/同エアラインの先輩エアバス機に対して語る)


 幼いころに見たただの夢だったとは、今も信じられないでいます。あの時確かに私は彼女と約束をしたはずで、彼女のその穏やかな声だって、ちゃんと思い出せるんです。


 彼女に会ったのは一度きりで、私がエバレット工場で生まれて間もない幼いころでした。そのあともBフライトやCフライトのときに空から彼女のものらしい機体を見かけることはありましたが、フライトが終わった後彼女に会いに行こうとすると、決まって父や工場の人がやってきて、私を別な用事に引っ張っていくのでした。その時は忙しいなあとしか思いませんでしたが、今になって思えば、あの後からはそれとなく監視が厳しくなっていたのかもしれません。


 あの日は朝からよく晴れていて、まだ機体本体の組み立てもそこそこという状態だったのに、私は作業建屋の外に出てみたくてうずうずしていました。それこそ機人として実体を得たのだってそのほんの一週間やそこら前だったっていうのに。トゥールーズの工場のことはよくわからないけど、先輩もきっとそうだったでしょう? 飛行機の機人ってみんな、生まれたときから多かれ少なかれ空の青に焦がれているものだ、って父も言ってました。

 せわしなく人や時に自転車が行き交う建屋の中、幸い私はその合間を縫って、裏口から外へ抜け出しました。父は「外は危ないからロールアウトまで出てはいけないよ」と言ってましたけど、なにぶん幼くて好奇心のほうが勝りましたし、だいたい滑走路を別とするなら建屋の中の方がよっぽど物だらけで危ないっていうのに、他に何の危険があるっていうんでしょうね?

 とはいえ、見つかったらきっと怒られるだろうなというのは幼心にもわかっていましたから、私はかくれんぼするみたいにしてあっちに隠れこっちに隠れしながら工場の各所を見て回り、その先で彼女のことを見つけたんです。


 フライトラインからは離れたところで、彼女は制服姿で所在なさげに座っていました。傍らの機体は窓のところが黒いビニールで覆われてはいましたが、遠からぬうち私も纏うことになるだろうこの会社の塗装でした。

 彼女は唐突に現れた私に随分驚いたようでした。無理もありません、エアラインの制服もまだ纏ってない私は、一人で出歩くにはやっぱり少し幼すぎましたから。

「…君は? 見たところ、塗装もまだみたいだけど、君も787かな?」

「うん! いまかくれんぼしてたの」

「そっか、」

 ここならパパもそうそう来ないけど、おこられないように程々で戻るんだよ、と苦笑しながら、彼女は私の頭を撫でて機内に招いてくれました。目張りのように窓が覆われた機内は薄暗く、まるで秘密基地のようでうきうきしたのを覚えています。

 受領が近いのか彼女の背格好は私よりも随分大きく、私から見れば早生まれの姉にあたるのが伺えました。おねえちゃん!と呼ぶと、彼女はちょっと困ったような、でも照れくさそうな顔をして笑って、それから日が陰るまでたくさん遊んでくれました。

「ちびちゃんの受領は来年かなあ」

「うん、おくれそうだってパパもゆってた」

「はは、しかたないよねえ」

彼女はため息交じりに微笑んで、膝の上に載せた私の肩をぽすぽすと叩きます。

「心配しないで、君ならきっと大丈夫」

 ささやくように、願うように静かに、彼女は私を抱きしめて言いました。うつむいた彼女の表情はよく伺えませんでしたが、少し不安そうにも見えました。



「暇してたから、君が来てくれてうれしかった。これから初飛行に向けて忙しくなるだろうけど、運用入りしたらまた会おうね。よかったら君の名前を教えて」

「わたし、JA805A! おねえちゃんとおそろいだよ!」

 そうです。帰り際に私が指差した先、彼女の機体には、今の私と同じ機体記号が書かれていました。見間違いではなかった、と思います。

「え」

 彼女は一瞬目を丸くして、ややあってくしゃりと苦笑しました。

「……そっか。私はもう少し直さないといけない場所があるから、君よりもデリバリーは遅くなりそうなんだ」

 彼女は腰のあたりをとんとんと叩いてみせました。


 でも、日本に来たあとにANAさんに訊いても、「『JA805A』は君一機だけだ」って。海外の空港に行っても、誰も彼女のことを知らないんです。また会おうねって約束したのに、いつまで待っても、彼女は来ないんです。

「改修が終わってからの受領になるしきっと時間がかかるから、先に行って待っていて」

そう言って指切りした彼女の姿を、私は今も空に探しています。

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