第126話 全てが夢のように。−2

「昨日の夜、お父さんと話したんだよね?春日。」

「うん…トイレに行く時、ハルがいなくなったことに気づいて探し回ったの。」

「へえー、うちの子猫春日ちゃんー春木くんが心配になったよね。」


 片頬をつねる由利恵が笑いながら春日を見る。


「うう…なに…」

「最近、春日が明るくなった理由は春木くんだよね?」

「…」

「お母さんは見れば分かるよースケジュールがそんなに詰まっていたのに、うまくこなしたからびっくりしたよ。」

「それは…」

「その後、ニノさんに聞いてみたら春木くんとデートがあるって。」

「知らない…」


 母親に直接言われるのが恥かしかった春日は赤くなる耳を隠して由利恵から目を逸らした。


「だから…春日のその姿を見て、考えた…」

「お母さん…」

「もう…春日にこだわらなくてもいいでしょうって…お父さんに言ったんだ。」


 由利恵の声が変る、先とは違う雰囲気を出す彼女は隣に座っている春日の手を握った。お母さんの真剣な声と暖かい手から伝わる心、そして今まで抑えてきた感情が溢れるほどお母さんの一言が春日の胸に響いた。


「…」

「確かに、うちの娘は頭もすっごくいいし実際に後継者授業もうまくこなすから…期待が高まっているかもしれない。」

「私は…ただ…」

「分かる。普通の女の子みたいに遊んなだり、彼氏を作ったりしたかったでしょう?」

「うん…いつも、いつもなぜ私はこんな人生を生きているのかな…と思ってたの。なんのために生きていくのか、ある日は一人で夜更かししながらそれを考える日もあった…とても寂しくて死にたいくらいの夜だったよ。」

「もう話してもいいよ…疲れたでしょう?お母さんに全部話してもいいよ。」


 消せないあの時の記憶はずっと春日を苦しめていた。話しながら湧き上がる気持ちに堪えなかった春日は我慢してきた涙を流し、自分の話を続けた。


「そんな日々を過ごしている時、私はハルと出会った。何も知らないバカみたいな顔をしているけど…ずっと一人で頑張っていた。何日もそれを辞めずに続けていた。」

「春木くんは昔から熱心だったね?」

「別に勉強が嫌いわけでもないけど、私はただ…普通の意味が知りたかったの。あの時のハルは私にとってすごく特別の人だった…」


 膝に涙を落とすことに気づいた由利恵は春日の背中を撫でてあげた。その顔から何を感じたのか、由利恵は悲しい表情で春日の涙を拭いてあげる。


「学校に行っても、私に近寄る人の目的はお金と体だけだったよ。そして家に帰ったら息苦しい教科書と参考書の壁に囲まれて、そこは決して出られない檻のように…見えた。」

「うん…」

「毎日…そんな日々が続いてた…だから…だから私を普通の意味を教えてくれたハルが好きなの…好きなんだよ…でも…」


 もう春日にその感情をコントロールするのはできなかった。本当の気持ちを伝えるだけ…


「うん…」

「どうして…お父さんは私とハルを引き離そうとするのよ…なんでだよ!ただそばにいてくれるだけでいいのに…なんで…」

「…」


 春日の大粒の涙が廊下に落ちる。


 ぼとぼと…


 涙声で話す春日の姿を見ていた由利恵は堪えてきた涙を少しずつ流していた。人を好きになるのはどんな人でもよく分かる感情だったから、由利恵はその気持ちを誰よりもよく分かっている人だった。


「春日…苦しかったよね…」


 どんなに苦しかっただろうか…

 心の話は心で理解するしかできない領域だ。人は見えるものだけが全てではない、その中に隠れているただ一つの心に気づくべきだ。


『だから好きになるのを辞めた時、君の中から全てが壊れるんだ…由利恵… … …』


 その一瞬、由利恵は春日から自分の過去を見た。


「もう…泣かないで…」


 哀れげに泣いている春日の姿を見た由利恵は春日を抱きしめて背中を軽く叩いてあげた。


「私は…」

「うん…」

「ただハルに抱きしめられたくて、一緒に話して笑いたくて、普通の恋人がすることがしたかった…それがそんなに悪いことなの…?」

「うん…春日は悪くない…」


 自分なりに考えていたけど、現実の壁にぶつかった娘の姿は昔の自分と同じのようだった。由利恵は思わず春日の肩に涙を落として、こっそり自分の涙を拭いた。


「もう…時間だよ。お母さんは会社に戻らないとね。」

「うん…」

「泣かないで、ほら。」

「…うん。」


 新しいハンカチを春日に渡して病室に戻る時、開いた扉から春木が出てきた。


「あ、すみません…」

「大丈夫!お母さんと電話は?」

「おかげで…うまくできました。ありがとうございます。」

「うん。私は帰るから春木くんも早く治って!」

「はい。ありがとうございます!」


 そして由利恵は黙々と病院を出る、駐車場に向かう由利恵はポケットの中から何かを取り出して一人で話し始めた。


「聞いたでしょう?」

「…」

「答えないの?」


 由利恵が出したものから男の重低音が聞こえた。


「あ…聞こえた。」

「知ってる?昔のあなたと同じだよ?」

「何がだ…」


 車に乗る由利恵はもう一つの携帯を肩と耳の間に挟んで電話を続ける。


「由利恵が好きだから…由利恵がここにいて欲しいと言ったら僕もここにいる。もう忘れちゃった?」

「今更そんな昔話を…」

「もういいでしょう?あなた…春日を幸せにしてあげよう。」

「…」

「たくさんのお金より、高い名誉より…春日はただ春木くんと一緒に過ごす普通の日常が欲しかっただけなのよ。」


 しばらくの静寂が流れる車の中、道路に出て走る由利恵はナビゲーションに目的地を入れる。そして沈黙を維持している英夫に話した。


「子供は親子を真似るって言うのかな…」

「…」

「あの時、あなたが父親に殴られても諦めなかった私を…あなたの過去を今、春日が繰り返しているのよ。」

「それは…」

「そして体が離れると心も離れるって言ったのもあなたでしょう?もうこれでいいんだよ…」

「由利恵…」

「人を失うのがどれほど悲しいのかはあなたもよく分かってるでしょう?もう大切な人を失うのは私一人で十分だよ…英夫…春日の幸せを祈ってあげよう。」


 静かに由利恵の話を聞いていた英夫はただ一言を残して電話を切った。


「会社で会おう。」


 ……


「だから好きになるのを辞めた時、君の中から全てが壊れるんだ…由利恵…好きだよ。武藤英夫の名をかけて絶対に離れないと約束するから!…と言ってたよね。懐かしい…」


 携帯を隣のシートに置いた由利恵はそのまま会社まで走る。

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