第87話 他人の視線。−4

 いつもの橋を渡っている時、俺の前に立ち止まった先輩が怪しい顔で見ていた。


「はる…ひ…?」


 目の前で見えた先輩は目を閉じて俺の胸に頭をつける。一人で何かを呟く声が聞こえるけど、車の騒音で何を言ってるのかよく分からなかった。


「…においがする。」

「ん?」

「ハルの体から他の女のにおいがする。」


 犬…


「さっき一緒にいたからそうかも…しれない。」

「他の女とくっついたの…?浮気?!」

「ち…違います!」

「冗談ーよ、ハルが落ち込んでいるからね。早く行こうー」


 女は分からない…

 そう言った先輩が俺の手を握って歩き出した。もう夏が近づいている季節なのに、なぜか俺の手だけが冷たくて先輩の温もりが伝わっていた。


「ハルの手は冷たいね?」

「びっくりした…」

「何が?」

「なんでもない!」


 先輩の後ろ姿をぼーっとして見ていた俺は話をかける先輩にちょっとびくっとした。一人で悩んでいても何も変わらないことを知っている、先輩に相談をしてもいいのか…こんな話をしたら嫌がらないかな。

 無駄なことばっかり考えながらぼーっとしていた。


「何〜?変なことを考えたんでしょう?」

「いや、違う。」

「また!落ち込んでいる!私が嫌なのかな?」

「そんな顔してない!」

「してたよ!」

「…」


 沈黙して心の中の悩みを口に出せなかった。

 家についてからカバンを居間に投げ出した先輩は俺の手首を掴んでソファに座らせた。いきなりの展開でソファに座っている俺とその上に乗る先輩、その見下す視線はとても冷たくて多分今まで見たことがない表情だと思う。


「言って。」

「なんの話…」

「友達の相談に乗ってから悩む理由ね。」

「悩みなんかない…」


 俺の話を疑っている目をする先輩が顔を近づけておでこを合わせる。


「本当に言わない?」


 顔が近い…すぐ前に先輩の唇が見える…

 卑怯、そんなことをしたら耐えられるわけないだろう。


「分かった…話すから、そして顔が近い…」

「うんー」


 やっと表情が明るくなった先輩は俺の太ももに座ったまま、肩に頭を乗せた。


「不安でしょう?ハルが全部話す時までくっつくから言ってね。」


 なんだ、なんでだ。

 先輩に抱きしめられただけで涙が出てくる、俺も分からない俺の感情のかたまりが先輩に癒されて溶けていた。


「ハル…泣いてる?」

「…」

「泣くの?」

「俺も春日見たいな人になりたかった…人と関わるのが怖かった。」

「なんで?私はハルが思ういい人じゃないよ?」

「他人の視線に気にしすぎて、自分を傷つけるのはもう嫌だ…でも友達だから…ほっておきたくなかった…」


 遅い思春期なのか、泣き始めた俺はなかなか止まらないまま先輩に甘えていた。感情を理解するのが難しくて、人を知るのが難しくて…他人の視線ばかり気にして結局何も変わらないことを知っているから挫折する。


「ハルは悪くない…」

「でも…康二に言ったのも俺だった、春日に告ってって押し付けたのは俺だった!その後、うまく行かなかったことを知って佐々木先輩と結んであげたのも俺…だったんだよ…」

「なんで…」

「俺…友達がいないから少なくとも親しい人だけは幸せになってほしかった…俺とか関わっている人たちは幸せになってほしかった…俺には何もいないから周りの人だけでもそうやって大切なものを手に入れてほしかった…」

「ハルはなんで自分の気持ちを隠して、そこまで他人のことを考えるの?もっと自分のことを考えてもいいんじゃない…?」


 先輩の話は俺が今まで考えていたことと同じだった。そう自分のことだけ考えればいいのになんで他人の視線なんか気にしているんだ。


「分かっていてもうまくできない…他人の視線が怖い…感じられるだけで体が震える。」

「今まで…ずっとそうだったの?」

「うん…ごめん、情けない彼氏で…やはりこんな俺は先輩と似合わない…先輩はもっと明るくて欠点がない人と付き合うべきだ。」


 情けない自分の独り言を先輩の前で出してしまった。それは他人の視線から怖がっていた俺が周りのプレッシャーに耐えられず、俺は先輩に心にもない話を言った。


「…」

「ごめん…ここまでにしよう。帰る…」


 気づいたら俺は自分が言ってはならないことを言っていた。顔を合わせる資格がなかった俺は下を向いてソファから立ち上がろうとした、そして黙々と話を聞いていた先輩はぼとぼとと涙を落とした。

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