第38話 失われた記憶の欠片。−4

「先輩、これはさすがに困ります。俺…そんなことできないから…す、すみません。」

「私じゃだめ?会長の方がいいの?」


 とても怖かった。避けられなかったら唇を奪われたかも…俺は武藤先輩のためにここにいるんだ、我慢しないと先輩に合わせる顔がない。

 誰もが望んでいるかもしれない展開だけど、俺にはとても負担になる状況だ。これはドキドキする感情ではなく緊張感と恐怖感ばかりだった。


「七瀬先輩はいい人なんですよ。その言葉は聞かなかったことにします。」

「…」

「どうやら先輩は忙しそうだから、俺は帰ります。」


 生徒会室から出る時、扉の前で七瀬先輩が俺を呼んだ。


「春木。」


 扉を平手で叩いた七瀬先輩の顔が近づいてくる、これがあの壁ドンか何かするものじゃないか…なんか七瀬先輩を怒らせたみたいだ。

 俺を見つめるこの目がヤバ過ぎで先輩から目を逸らした、目を合わせなかったのが原因か左手で俺のあごを持ち上げた先輩が冷たい視線で見上げる。

 生徒会室の扉からなぜか先輩の攻められてしまった。


「私の話、聞いた?」


 何を言ったか分からない…生徒会室から出ようと思った時点で何も聞こえなかったから一応適当に答えた。


「聞いてます…」

「うん…本当…?じゃー春木。くっついてキスでもしよっか?」

「はい…?」

「春木はそのまま立っていてもいいよー私が行くから…」


 そう言った先輩が俺の前で立ち止まる、左手で俺の腰を抱いて右手は顔を触っていた、先輩の体とくっついてさらに緊張感が溢れる。


「先輩…こ、こ、これはあの。え…」

「…静かにしてね。」


 ん…?何これ…

 七瀬先輩は体をくっつけて俺のことを抱きしめていた。しばらくそうしていた先輩は何もしてこなかった。

 肩によりかかっている先輩の顔が何かをたくらんでいるように見えた。悲しいとは言えないけど少し心配をしている顔って言うのが正しいかも…俺を抱きしめているその間、先輩は俺の胸で顔を埋めていた。


「どうしたんですか?」

「来た…」

「え…?」


 俺は向こうから人けを微かに感じていた。いや、先から扉の向こうにいたようだった、七瀬先輩が扉を叩くあの瞬間に少し動揺する小さい声が出て後ろに人がいることを確信した。まさか七瀬先輩は知っていたのか…

 武藤先輩か…そんなはずないよな。


 そして生徒会室の扉が開けられた。


「生徒会室から何をしているの、二人。」


 やはり外でこの状況を聞いていたのは武藤先輩だった。分厚い本と生徒会書類を持って生徒会室に入った先輩は俺と七瀬先輩を見つめた、先輩の表情がすごく歪んでいて俺から話を出す雰囲気ではなかった。


「あれー会長ー。」


 中でくっついていたことを先輩にバレてしまった。慌てる俺とは違って七瀬先輩は体をもっと密着して先輩に見せつけるように顔だけを向いていた。


「何…これ…何をしている…」

「会長がお好きにどうぞって言ったからー」

「…」

「違う?言ったじゃん。」

「それは…」

「別に、会長と春木が付き合ってる関係でもないし。」


 すぐ泣きそうな武藤先輩の顔、強がる先輩はその気持ちを隠したと思うけど俺には分かる。今までの長い付き合いで先輩が悲しくなる前の表情変化をよく知っていた。

 でも、俺は何一つも口には出せなかった。先輩に嫌われていると思ったから、何も言えなかった。


「離れて…」


 武藤先輩の声が小さくなった。


「うん?何、会長?」

「離れろって言ってる!」


 怒ってる先輩の声を聞いた七瀬先輩が俺から離れて先輩の前に立った。喧嘩でも起こすそうなこの空気はなんだろう、目を合わせた二人、何も言えない俺だけが生徒会室の重い空気に押されていた。


「なんで?会長って春木のこと好き?」

「…知らない。生徒会室で嫌らしい行為をしないで!」


「素直じゃないね…」


 小さい声で呟いた美也は再び春木のところに戻った。


「じゃ外でイチャイチャしょう!中はダメだってー」

「いいです…もう帰ります。すみません。今日のことは忘れてください。」


 耐えられない、あの場所からどうすればいいのかも分からない、誤解だと言うべきだったのにただ怯えた子供のように逃げるだけだった。

 本当は武藤先輩のことが気になって生徒会室に行ったけどなんでこうなるんだ。


 春木がいない生徒会室で春日と美也が立ち向かっている。


「何…さっきのは?美也らしくないよ。」

「らしくないって…別に会長と関係ないし。」

「なんで春木に手を出すの?」

「えー?彼女いる人でもないし、ちょっとだけはいいじゃん。」

「ちょっとだけ?くっついてキスしたのがちょっとだけ?」


 どんどん上がる春日の声。


「全部聞いたんだ…」

「なんとなく…」

「たっぷり味わった、春木の唇。」


 春日の手と唇が震える。


「…」

「イケメンで可愛いよ。会長は知ってる?春木って女の子にすごく弱いからね、近づいたら何も出来ないんだよ?だからこっちが何をしても抗えないの〜全部受けてくれるの〜欲しいな…子犬みたいな春木。」


 美也の言葉はまるで日に油を注ぐものだった。


「もういい…上げないよ…」

「うん?何?」

「上げないって言ってる…」


 春日は美也に声を上げた。


「上げない!春木は私のものよ!」

「先にもらっちゃった、キスしたと聞いたでしょ?」

「そんな…嘘!春木はそんなことをする人じゃない!」

「じゃー今すぐ春木に追いかけて聞いてみてよ。」


 少しためらっている春日は春木が遠く行ってしまう前に生徒会室を出た。


「大事な書類をそこら辺にポンポン置いてはいけないでしょう…?」


 一人で生徒会室に残った美也は春日が適当に捨て置いた書類を片付けて会長の机に置いた。外で春木を追いかける春日の姿が美也に見られた、4階で二人を眺めた美也は一人でこう言った。


「ちょっとやり過ぎだったかも…でもこうしないと行かないでしょ…会長。」

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