切れない赤い糸

内山 すみれ

切れない赤い糸

 ああ、なんてことを。なんてことを、してしまったのだろう。涙ぐむ両親の言葉に、私は目の前が闇に覆われるような感覚を抱いていた。


「柚瑠は椋人くんととても仲が良かったもの。ショックを受けるのは当然ね」


 母親の言葉がどこか他人事のように感じられて、彼女の話が終わったのをきっかけに私は茫然としたまま自室へ足を運んだ。ベッドに身体を預けて、そのまま瞼を閉じる。反芻するように頭に響くのは、先程母親が告げた言葉だった。


『椋人くんが今朝、自殺したみたいなの』

『朝、中々起きて来ない椋人くんを心配した椋人くんのお母さんが部屋に行ったら、首を吊っていたそうよ』

『机の上には家族に宛てた手紙が置いてあったみたい』


 椋人くん、『平等院 椋人』は私と同い年の幼馴染だ。成績優秀、スポーツ万能、顔も良し、そして平等院家の大切な御曹司、という完璧を絵に書いたような人だった。優しくて、いつも笑みを浮かべている、とても素敵な幼馴染。私には勿体無いくらいの幼馴染だった。思えば私の隣にはいつも椋人くんがいた。私の好きなものをいつも用意してくれて、落ち込んでいたら慰めてくれる。

 けれど私は彼が、平等院 椋人が苦手だった。彼が悪いという訳ではない。彼は凄い人だ。どんなこともいとも簡単にこなしてしまう。不器用で人見知りな私とは正反対だ。比べるまでもないのに、私は酷く劣等感に苛まれていた。いつも隣にいてくれる彼を見る度に胸が苦しかった。自分は何もできない人間だと言われているようで、彼といる時に心が休まることはなかった。彼がとびきりの笑顔で私に話しかける度に、逃げ出してしまいたくなった。彼といると女子生徒の視線が刺さって、息ができなかった。こんなことになるなら一人にしてくれと、何度思ったことか。

 そうして実際に、椋人くんは自殺してこの世を去ってしまった。長年一緒にいたのだ、情はある。悲しくない訳はない。けれどそれ以上に後悔と自責の念に囚われて身動きがとれなかった。その原因は昨日の夜まで遡る。






「放課後、話したいことがあるんだ。僕の部屋で話がしたいのだけど…いいかな?」


 断っているのに、朝はいつも椋人くんが私を迎えに来る。登校なんて私一人でいいのに、彼は優しいのだ。今日も断りきれずに、私は椋人くんの隣に並んで学校に向かう。何気ない会話をしている、そんな時だった。彼はそう言って私の顔を伺うように覗いた。何の話か、およそ見当もつかない。けれど私は深く考えることはなく頷いたのだ。私の返答に彼は嬉しそうに笑う。彼の瞳の奥が熱を孕んだことなど知る由もなかった。

 話がしたいと言っていたが、一体何の話だろう。気になりだすと止まらなくて、そわそわとぎこちなくなる。普段は早く感じる授業もやたらと長く感じて、ようやく終わった頃には酷く疲れ切っていた。ぐるぐると回る思考はもれなく悪い方へと進んでゆく。私は何か悪いことをしたのかもしれない、そんな不確かなことを考えては頭を抱えた。


「あ、柚瑠」


 ふいに声が聞こえて、声の方を向いてみると、そこには椋人くんがいた。嬉しそうに駆け寄ってくる彼に、私はドキリと胸を高鳴らせた。授業中に巡っていた『不確かなこと』が頭を過ぎったのだ。


「椋人、くん」

「柚瑠も今帰り?」

「う、うん」

「奇遇だね。一緒に帰ろう?」


 椋人くんはさも当たり前のように隣に並んで、歩き出す。足がすくんでしまった私に、数歩進んだ椋人くんは振り返って不思議そうな顔をした。


「柚瑠?どうしたの?」

「え?あ、う、うん。何でもない。大丈夫」


 椋人くんは私の顔を覗き込んで、私の額と自らの額を当てた。喉から出かかった悲鳴を必死に押し込めていると、代わりのように、周囲にいた女子生徒の悲鳴が聞こえた。


「風邪ではなさそうだ」

「…風邪じゃないよ。椋人くんに突然声をかけられたから、ちょっとびっくりしただけ」

「…そうだったの?ごめんね、驚かせちゃった」

「ううん、私の方こそ、ごめんね」

「柚瑠が謝ることじゃないよ」


 申し訳なさそうな顔をした椋人くんに、罪悪感を抱く。本当に、平気だよ。私がそう言って笑うと、彼もほっとしたように笑む。


「じゃあ、行こうか」


 私は彼の隣に並んで歩を進める。椋人くんは人の話を聞くのがとても上手い。人と話すのが苦手な私の話も聞いてくれるのだ。今日起こったこと、友人との話を彼に話しているうちに、彼の家に辿り着いた。


「ちょっと待っていてね」


 椋人くんは紅茶の準備をすると言って、部屋に私を案内した後、部屋を出て行く。相変わらず豪華な部屋だ。いつ来ても緊張してしまい、借りてきた猫のように大人しく彼が戻ってくるのを待つ。やがてドアが開く音と共に椋人くんが戻ってきた。私の目の前にティーカップを置いて、彼は私の前のソファーに腰掛けた。


「この部屋に柚瑠が来るのは久しぶりだったね」

「う、うん。最近椋人くんも私も忙しかったからね」


 私も彼も部活動をやっていたのだから忙しかったのは事実だけれど、それだけではない。私はなるべく彼の家に行かないようにしていた。理由は単純だ。息の抜けない彼と二人きりになる状況を避けたかった、ただそれだけ。家に行く回数自体もあまり多くはなかったから、私はうまく言葉を探しては断り続けていた。最近は家に誘われることもなくなってきたのでほっとしていたのだ。久しぶりの彼の部屋は前に遊びに行った頃と変わらずに私を迎える。彼はいつも私に紅茶を振舞ってくれていたこともぼんやりと思い出した。彼の淹れた紅茶は私に合わせてくれているのか、いつも美味しくて頬が緩む。


「ねえ、柚瑠って好きな人いるの?」


 他愛のない話をしていた筈の椋人くんの言葉に、思考が停止した。彼とそういった恋愛話をあまりしなかったから余計に驚いて固まってしまう。彼は真っ直ぐに私を見つめて、返答を待っていた。ようやく動き出した頭で私は、ある人物を思い浮かべてしまったが即座に消し去り、首を横に振る。


「いないよ」

「…本当?」

「…う、うん」

「…なら、柚瑠の好きな人に僕はなれないかな?」

「……え?」


 彼は頬を僅かに上気させていた。熱に浮かされた瞳が私に向けられている。


「柚瑠のこと、大好きなんだ。愛してる。僕の、彼女になって欲しい」


 痛い程真っ直ぐに見つめているその瞳に、動揺する私の姿が映る。椋人くんの想いには答えられない。だって私には…。動揺してすぐに返答できなかったのがよくなかったのだろうか。目の前の彼は笑みを浮かべた。


「…そう。やっぱりいるんだね。好きな人」


 けれど彼の目は笑っていなかった。空気が冷えるのを感じて、私は恐怖に震える心臓を奮い立たせて声を絞り出した。


「ち、ちが…!」


 クスリ。今度は嘲笑するように彼が笑った。けれど目は一切笑っていない。こんな椋人くんは初めてだ。今までで見たことのない表情に私は目を見開く。


「嘘吐き」


 一言、彼はそう言い放った。


「あ、あの…椋人、くん…?」

「嘘は駄目だよ、柚瑠。僕は君のことなら何だって知ってる」

「え…?」

「ああ、言っちゃった」


 固まって動けない私に、彼は言葉を紡ぐ。


「柚瑠の好きな人くらい知ってるよ。日下部 巡。6月9日生まれ双子座のAB型。身長168cm、体重49kg。読書が好きで人混みの多い場所は好まない。それで、柚瑠と同じ、図書委員だね」

「な、んで…」

「何でって、柚瑠のことなら何でも知ってるって言ったでしょう?」


 怖い。せり上がってくる恐怖のままにソファーから立ち上がった私の手首を彼が掴んだ。


「柚瑠。僕はね、君が素直に認めたら諦めてしまおうと思ったんだ。愛する君の幸せを一番に考えているからね。ただし、僕に何でも話してくれる可愛い柚瑠でいてくれたら、ね。でも、君は僕に隠した。あの男の存在がなかったように、好きな人はいないと言った。僕はそれが許せなかったんだよ」


 彼の瞳に宿る狂気に身が震える。抵抗して腕を動かす私のことなど気にも止めずに、彼はいとも簡単に自分の方へと腕を引き寄せて、耳元で囁いた。


「逃がさないよ」


 ちゅ、とリップ音を立てて耳介にキスをする椋人くん。私は渾身の力を振り絞って突き飛ばした。ソファーに身を打ち付ける椋人くんに構わず、私はこの部屋から逃げ出した。一刻も早くこの場から、椋人くんから逃げてしまわないと。私はその一心で、自分の家へと逃げ帰ったのだ。


「…そう。これが柚瑠の答えなんだね」


 彼が小さく呟いていたことも、私は何一つ知らなかった。






 昨日のことを思い出して、私は取り返しのつかないことをしてしまったのだと悟る。椋人くんは私が彼の告白を断って逃げたから、ショックを受けてしまったのだろう。今まで彼女がいたことなんてなかったのだから、彼はずっと私を想ってくれていたのだろうか。ああ、どうしよう。私のせいだ。溢れる涙が枕を濡らす。椋人くん、ごめんなさい。もういない彼を思い、私は謝り続けた。






 私は幼馴染を亡くしてから、大きな穴が空いたような心地だった。劣等感を抱いていた相手だけれど、やはり情はある。あれだけ隣にいたのだから、そう思うのも当然だった。そんな私を慰めてくれたのは、日下部くんだった。大好きな彼に慰めれていくうちに、私の空いた穴は日下部くんで満たされていた。しばらく経って、大学生になった日下部くんから告白された時は夢を見ているような心地だった。私は迷わずに彼と付き合うことにした。優しくて大好きな日下部くん。大学を卒業して、私達は結婚した。時折頭に浮かぶ幼馴染の顔をかき消して、私は日下部くん、いえ巡に一生を捧げると決めた。

 結婚から二年で、妊娠していることを知った。二人の愛の結晶。その言葉はあながち間違いではない。男の子だという我が子に「柚希」と名づけて、生まれてくるのを今か今かと待った。






「まま」


 ようやく伝い歩きを始めた我が子に、自然と笑みを浮かべてしまう。私を呼んで、必死に伝い歩きで私の元へと目指す柚希。手を広げて待っていた私の胸に、ようやく辿り着いた柚希が抱きついてきた。抱きしめて立ち上がると、落ちないように首に腕を回した柚希。愛しい、愛しい私のこども。


「ようやくはなせた」


 およそこどもとは思えない言葉が鼓膜を揺らす。驚いて固まっていると、言葉が更に紡がれる。


「ずっとあいたかった、ゆずる」


 違和感が胸に広がって、私は柚希から身体を離す。声は、確かに柚希だ。柚希のはずなのに、彼の表情を見て顔が凍りついた。熱に浮かされたような、この表情に私は見覚えがあった。


「ずっといっしょにいたのに、ぼくのことわすれたの?」


 椋人くんだ。平等院 椋人が、そこにいる。私は一歩、後退る。


「ぼくはね、ずっとゆずるといっしょにいるほうほうをかんがえたんだ。いちかばちかだったけど、せいこうしてほんとうによかった」

「な、で…」

「いったでしょう?にがさないって」


 柚希、いや椋人くんは嬉しくて堪らないといった表情で一歩、歩み寄った。


「ようやくできたこどもでしょう?あのおとこもぼくをしんそこかわいがっている。そんなぼくをきょぜつなんて、できないよね?ぼくのこと、あいさずにはいられないでしょう?」


 彼から逃げることなんて出来ないのだと悟る。震える膝が身体を支えきれずに崩れ落ちるように地面に座り込む。椋人くんは私の元に歩み寄って抱きしめた。


「まま、だいすきだよ」


Fin.

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