第5話:初めての感情
(おかしい。どれだけ精気を吸っても満たされない。あのマシュマロを食べてからずっと変だ。ロゼに何かされた?いや、淫魔に淫魔の催眠は効かないはず……)
『あの……ね……恋っていうのはその……せ、性欲も含まれるかもしれないけど……えっと……一緒に居るとドキドキするとか……もっと一緒に居たいとか……この人を独占したいなぁとか……抱きしめたいなぁとか……そういう……気持ちのこと……です』
リリの脳内に、夢鈴の言葉が反響する。一緒に居てドキドキしたことはない。そもそも、ドキドキというものがわからない。悪魔であるリリには、心臓が無いから。もっと一緒に居たいと思ったこともない。
だけど、抱きしめたいという気持ちは今まさに強く感じている。だけどこれは、夢鈴の精気を食べたいという欲望だ。性欲だ。
彼女にはリリの催眠は効かない。催眠が効いていない状態で捕食するとなると、正体を明かすことになる。それはあまりにもリスクが高い。
ロゼの協力を仰ぐ他ない。しかし……催眠をかけられて抵抗出来ない彼女から精気を吸うという想像をした瞬間、罪悪感を覚えてしまった。今までだって、人間を操って無理矢理奪ってきたのに、夢鈴にはそうしたくない。
(どうして……)
『リリちゃんが好き』
夢鈴の声が空っぽな胸に突き刺さる。紅潮した頬が、今にも涙が溢れそうなほど濡れた瞳が、リリの中の激しい劣情を掻き立てる。リリが個人にここまで強い劣情を覚えたのは初めてだった。
(ゆめが……欲しくて仕方ない……けど……)
いい加減、夢鈴の元に戻らなければいけない。分かっているが、今彼女をみたら抑えが効かなくなりそうで怖かった。自分の中の劣情に恐怖を抱いたのもまた、初めてだった。
「……リリちゃん、どこまで行ったんだろう」
リリが『お手洗いに行ってくる』と言って、もうかれこれ30分以上経っていた。
(何かあったのかな……リリちゃん……)
心配になった夢鈴が立ち上がろうとすると、誰かに腕を掴まれた。
「駄目だよ。お嬢さん。リリちゃんは今お取り込み中だから」
夢鈴の腕を掴んで止めたのはロゼだった。彼が、しーと人差し指を唇の前に立ててそう言うと、夢鈴は素直にこくりと頷き、ベンチに座り直した。
「ふふ。いい子だね」
ロゼは彼女の頭を抱き寄せ、夢鈴を狙っていた別のインキュバスの方を見て「この子は俺の餌だから」と口パクで伝える。すると彼は舌打ちをして大人しく去って行った。
ロゼは別に彼女を捕食するために催眠をかけたわけではない。彼女を守るためだ。すでに淫魔の催眠が効いている状態の人間には、別の淫魔の催眠は効かない。つまり、ロゼが催眠をかけている間は、彼女は淫魔に襲われる心配はないということだ。
「君はリリちゃんのお友達?」
「はい……そうです……」
「今日は何しにこの街に?」
「マシュマロを買いに……」
「マシュマロ?あの専門店のやつ?」
「はい」
「ふぅん」
ロゼの質問に、夢鈴は機械のように淡々と答えていく。
「ごめんなさい、ゆめ。思っていたよりお手洗いが混んでいて——」
戻ってきたリリに、ロゼは夢鈴の頭を抱いたまま、笑顔で手を振る。夢鈴もロゼに頭を預けたまま、虚な瞳をリリに向けて、口元だけ笑って、力なく手を振った。
「狙われてたから守っておいたよ。この子、リリちゃんのお気に入りの餌なんだろう?」
「……別に餌じゃないわ。ただの友達。けど、ありがとう」
「あれ。そうなんだ。ふぅん。マシュマロ気に入ってたから女の子に興味が出て、俺に催眠かけてもらうためにこの街に連れてきたのかと思ったのに」
「ここに来たのはマシュマロのためよ。彼女が食べてみたいって言ったから」
「うん。この子から聞いたよ。買って来てあげようか」
「……結構よ。彼女と一緒に並ぶから。催眠、解いてあげて。ていうか、頭離して」
ロゼは苦笑いしながら夢鈴の頭を離す。
「食わないの?すぐそこに隠れる場所あるし、絶好の捕食チャンスだけど」
そう言ってロゼは自分が住む高層マンションを指す。夢鈴を待たせている間、リリは適当な男性を捕まえて腹を満たしていた。しかし、満たされなかった。捕食中もずっと夢鈴のことを考えていた。彼女はどんな味がするのだろうかと。ロゼの言葉が、抑えていたリリの欲望を再び掻き立ててしまう。
「……なるほど……そういうことね」
「ん?」
「私に女の味を覚えさせて、協力するふりをして従わせる気でしょう」
「ええ?なにそれ。信用ないなぁ。けどまぁ……リリちゃんが女の子しか食べれなくなるくらいハマってくれたら、俺にとって都合が良いのは事実だけどね。俺が君の餌を用意して、君が俺の餌を用意する。分け合う必要もなくなるし、良くない?」
「……」
「別に従わせようなんて思ってないよ。今までと変わらず協力し合えば良いだけ」
そういうとロゼは夢鈴を操って立ち上がらせた。立ち上がった夢鈴は、ふらふらとした足取りでリリに近づき、抱きついた。
「っ……ゆめ……!?」
「リリちゃん……」
「ほらほらー。君の大好きなお友達も、君に食べてもらいたそうだよ?」
楽しそうにニヤニヤしながら自分を煽るロゼを、リリは睨みつける。ロゼは怯むどころか、ふっと笑った。
「リリちゃん……好き……大好き……」
「っ……!ゆめ……!しっかりして!」
はぁ……と夢鈴の口から吐かれた熱い吐息が、リリの耳に吹きかかる。
「ねぇ……リリちゃん……私を食べて……?」
「ほら。食べてって」
「い、嫌」
「ええ?なんで嫌なの?」
「わ、わかんない……けど……嫌なの……操られてるゆめから無理矢理に精気を吸うのは……嫌……」
初めて経験する謎の感情にパニックなったリリは、ついに泣き始めてしまった。流石のロゼもいじめすぎたなと反省した。
「なるほど。それほどまでに、リリちゃんにとってこの子は特別ってわけか」
夢鈴がリリを離し、ロゼの隣に戻る。
「特別……」
『私にとって……リリちゃんは……特別な人だよ』
夢鈴の言葉がリリの脳内に蘇る。
(ゆめにとって私は特別で……私にとってもゆめは特別……?)
『この人を独占したいなぁとか』
(独占……)
例えば夢鈴が誰かに精気を吸われていたら。誰かと性行為をしていたら。想像するだけでなんとも言えない気持ちになる。
「……ロゼ……」
「ん?」
「淫魔が人間に恋をするって……あり得ることなの?」
「ありえなくはないよ。昔、俺の友達が人間の女の子に恋をしていた」
「……私は彼女に恋をしていると思う?」
「俺にはそう見える」
「恋って何?」
「俺はしたことないからわからないけど……元同僚曰く、強い執着心とか独占欲とか、愛しさとか性欲とか、そういう、綺麗な感情と醜い感情が入り混じった複雑なものらしいよ」
「執着心……独占欲……」
「例えばさ、俺がこの子の精気吸ってたら嫌でしょ?」
「……殺意湧いてきた」
「怖っ。まぁ、刺されても殴られても悪魔だから死なないんですけど」
「……ていうか、いい加減、催眠解いてあげて」
「良いの?吸わないの?」
「しつこい。早く解いて」
「その前にご飯食べたーい」
「はぁ……どいつ?」
「んー……じゃああそこの食べ応えありそうなマッチョなお兄さん」
「外国人っぽいの?」
「そ。背が高くてガタイがいいあの人」
「ちょっとまってて」
催眠をかけるには、対象の目を見なければならない。リリは二人を待たせ、ロゼの希望の男性に催眠をかけて連れて戻ってきた。
「彼の命令に従いなさい」
リリがロゼを指差しながら男性に命令すると、男性はロゼを見てこくりと頷いた。
「リリちゃんはどうする?残した方が良い?」
「今日はいい」
「その子から吸うから?」
「吸わない」
「えー?吸わないの?俺、リリちゃんが女の子から精気吸ってるところ見てみたいんだけど」
「……まさかそれがあなたの本音?気持ち悪っ……」
「にゃはー。いかにも淫魔って感じっしょ?」
「……はぁ……」
「冗談冗談」
「……早くゆめの催眠解いてくれない?」
「んふー。ごめんごめん」
ロゼが夢鈴に手をかざすと、虚ろだった彼女の瞳に光が戻る。
「あれ……私……」
「ゆめ。気分はどう?大丈夫?」
「リリ……ちゃん……?」
「私が居ない間に倒れたらしくて、彼がたまたま通りかかって、介抱してくれていたみたい。貧血なんじゃないかしら」
息を吐くように嘘を吐くリリ。「流石悪魔。嘘が上手い」とロゼが呟くと、リリは「あなたも悪魔でしょう」と声には出さずに彼を睨んだ。
「貧血……そうだったんだ……ありがとうございました」
「いえいえ。あ、そうそう。リリちゃん。ちょっと耳貸して」
「何」
ちょいちょいとリリに手招きするロゼ。リリが近づくと「その子、さっきインキュバスから狙われてたから。気をつけてね」と忠告をした。
「……もしかして、ゆめに催眠かけたのって……」
「んふふ。じゃあね〜。俺はこのおにいさんとデートだから。行こ。おにいさん」
リリが催眠をかけた男性を連れて去っていくロゼ。催眠術は、被術者が術者から離れすぎれば解けてしまうが、ロゼの家の位置からすると、リリがこの街から出ない限りはその心配はない。
「……リリちゃん、あの人は知り合いなの?」
「親戚みたいなもの」
「親戚……そっか」
「……ゆめ」
「……なぁに?」
「改めて、考えてみたの。私があなたをどう思っているのか」
「……うん」
「……結論から言うと、恋かどうかは分からない。だけど、大切には思ってる。あなたを、誰にも取られたくないって気持ちもある」
人間は、淫魔に取ってはただの餌でしかない。一人の人間に固執するとしたら、よほどその人間の精気の味が気に入ったからだろう。だけど、リリは違う。リリは、夢鈴の味をまだ知らない。にも関わらず彼女に固執しているのは、恋をしている故なのか。
恋をしているとしたら、恋人になるとしたら、サキュバスであることは隠せない。擬態を保ちながら吸精を出来るほど、リリは器用ではない。相手が男性から催眠で誤魔化せるが、女性である夢鈴に催眠は効かない。
「……私はあなたとは恋人にはなれない」
口にした瞬間、リリの胸に鋭い痛みが走った。その瞬間、リリは確信した。自分も彼女と恋人になりたかったのだと。他の誰かにその座を取られたくないのだと。
「……どうして……リリちゃんが泣くの?」
「私……あなたが欲しいの。欲しくてたまらないの。あなたが……誰かに取られてしまうのが嫌……あなたが誰かと性行為をするのが嫌……」
「……それって……私と恋人になりたいってこと?」
泣きながら、リリはこくりと頷く。
「じゃあ……どうして?どうして恋人になれないって言うの?……女同士だから?」
「違う……私達の間には、性別なんてちっぽけなものより、もっと大きな壁があるから……」
「大きな……壁……?」
悪魔は人間の前に姿を表してはならない。それは、悪魔が人間から忌み嫌われているから。
自分が悪魔だと知っても、それでも夢鈴は、自分を好きだと言ってくれるのだろうか。
不安がリリを襲う。
震えるリリの手を、夢鈴がそっと握った。
「リリちゃん……話してくれないと私……納得出来ないよ……両想いなのに付き合えない理由を教えて。壁ってなに?」
「……それは……」
「どうしても言えない?」
「……私の正体を知っても……それでもあなたは、私を好きで居てくれる?」
「正体……?」
「……私、人間じゃないの」
「へ?人間じゃないって……」
「詳しくは、後で話す。ここでは話せないから。……知る覚悟があるなら、もう少し待ってほしい。しばらくはこの街から出られないから」
「街から出られないって……?」
リリのポケットから、ぶーぶーとバイブ音が響く。スマホにロゼからの「終わったよ」と一言メッセージ。
「ゆめ、ここで——」
待っていてと言いかけて、リリはロゼの『インキュバスから狙われてたから気をつけて』
という忠告を思い出した。
「……リリちゃん。私はリリちゃんが何者であっても、リリちゃんが好きだよ。だって……私は、君の優しいところが好きだから。私の体型のことを貶さず、可愛いって言ってくれたの、君が初めてだったから。私はリリちゃんの中身が好きなんだ。だから……本当の姿がどんな姿でも良い」
「ゆめ……」
「……私は知りたい。君の正体を。本当の姿を」
「……分かった。じゃあ、着いてきて。あなたに正体を話す前にやるべきことがあるの」
「ここで待ってるよ」
「駄目。ここは危ない」
「危ない?」
「とにかく……私の側から離れないでほしい」
「……よく分からないけど……分かった。リリちゃんを信じる」
「ありがとう」
夢鈴を連れて、リリはロゼの住むマンションの一室へ向かった。
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