第36話 蒼太
その週の休日、僕はスーツを着て上野駅へ向かった。
つばさ号に乗り山形へ向かう。目的は
彼女に会って何を話そうと決めている訳でもない。答え合わせがしたい訳でもない。ただ、なんとなく会わなければいけないと思っただけだ。
2回目の山形。前回はアオイと来たけど今回は僕1人だ。つい最近の事なのに酷く遠い昔に感じる。
正午前には山形駅に着いてタクシーで以前行ったアオイの家へ向かう。当然アオイには今日の事は話していない。
「いらっしゃい、真也君。上がって、暑かったでしょ?」
「おはようございます」
恵子さんには笑顔があった。その笑顔の意味するところは分からない。
「アイスコーヒーでいい?」
「はい。ありがとうございます」
恵子さんはアイスコーヒーを二つ用意しテーブルに置くと僕の正面に座った。
「ふう……暑いね」
「……そうですね」
「仕事の方はどう? 順調?」
「まあ、それなりに」
恵子さんはアイスコーヒーをブラックのまま口に含んだ。
それを見て僕も同じように一口飲む。
「あの、今日は僕の事を話そうと思って」
恵子さんの笑顔が消え眉が少し寄った。
自分の事を話すのは特に決めていた訳でもない。話題に困ったと言う訳でもない。ただ、何となく伝えたかった。それによって同情してもらおうとか、謝罪の言葉が欲しいとか、そういう事でもない。強いて言うなら恵子さんの中の、抜け落ちてぽっかり空いてしまった隙間を埋めてあげたいと思っただけだ。
「僕は児童養護施設で育ちました。東京の築地市場で保護されたと聞いています。保護された当時の年齢は推定3歳らしいです。生まれた所も名前も両親の名前も分からなかったと聞いています」
きっと、その当時は分っていたのに口を閉ざしていたのだろうと思う。
「本来の戸籍がある可能性がありましたが、僕本人が自分の名前を言えなかった事から家庭裁判所が就籍を認め、二重戸籍になる可能性がある事も容認して僕に大崎真也という戸籍を与えたと聞いています。その時から僕は法律上、大崎真也になりました。他の誰でもありません」
最後の一文は自分自身に言った言葉だった。
恵子さんは下唇をぎゅっと噛んで眉を顰め瞳に涙を湛えていた。
僕は自分が山形生まれだと言う事を告げないでいた。どうやって山形から東京まで行ったのかという事も。それはアオイとの関係について最後の抜け道を残しておきたかったからかもしれない。
「辛い思いをしたんだね」
恵子さんは絞り出すようにそう言った。
「いえ、僕の人生は辛くなかったです。辛いのは僕の生い立ちを同情されることです」
「そう……」
恵子さんはスンっと鼻を啜るとティッシュで鼻を拭った。彼女は口を真一文字に結び窓の外を眺めると、
「真也君、これは私の独り言だと思って聞いて」
そう言って僕を一瞥するとすぐに視線をテーブルに落とした。
「以前、私は山辺町って所に住んでいたんだけど、私には息子がいたの。生きていればそう、きっとあなたと同じくらいかな。私は一度離婚してすぐに再婚しているんだけど、再婚して1年も経たずにその子が生まれたの。だけど再婚相手はそれが自分の子供だと認めなかったのよ。再婚する直前まで前夫と関係があったのかって疑って、凄く怒ってね。勿論そんな事無いし、その子が再婚相手の子である事に間違いはなかったのだけれどね。それでも疑惑は払拭されなかったのか、夫はその子に辛く当たったの。日常的に叩く、つねる、食事を与えないとか、もう、絵に描いたような虐待。止めようとすると私にまで暴力を振るってくるもんだから怖くて。自分可愛さに守ってやれなかったの。今でこそDNA検査ですぐに証明されるのだろうけど、当時はまだそういう風潮がなかったのよ」
僕は何も言わず黙って聞いていた。虐待された理由は納得がいった。それ以外は概ね僕の記憶と一致している。
「あの子が3歳になった頃には虐待もどんどんエスカレートしていった。ちょうどその頃、私は葵を身籠っていてね、殴られるのが怖かったのよ。とにかくお腹の子だけは守ろうって、見て見ぬふりをしたの。卑怯よね。本当にあの子が可哀そう」
そう言うと再びティッシュで鼻を拭った。
「歳が明けてあの子が4歳になる年、たまたまグズったあの子は夫に外に出されたの。「うるさい」って怒鳴られて。1月で外は寒かったと思う。いつもなら玄関のドアを叩いて「ごめんなさいごめんなさい」って謝ってくるのだけど、何故かその日はそれが無かった。不思議に思わなかっと言ったら嘘になるけど、それほど気にしなかった。それから1時間経ってもうんともすんとも言わないから流石に心配になって玄関から出てみれば、いなくて。どれだけ周辺を探しても見つからなかったの」
「捜索願は出さなかったんですか?」
ずっと疑問に思っていた事だ。普通そうするだろう。
「これは本当に恥ずべき話なんだけど、あの子には日常的に行われれる暴力による痣や火傷の痕があったし、それに満足に食事も与えてもらえないから栄養失調気味だったの。もし捜索願を出して警察に保護さる事になれば虐待を疑われるからって、夫は捜索願を出す事を拒んだの。自らの保身の為に息子を見殺しにしたのよ。本当、最低な男。無理やりにでも私が出していればあの子も助かったかも知れないのに」
「でも、子供が1人忽然と消えたら、周辺でも騒ぎになったり、児童相談所が訪問したりして発覚するもんなんじゃないですか?」
普通に考えればそうだ。子供が1人忽然と消えて、役所などにバレない筈がない。だけど、僕のその問いに対する恵子さんの答えは衝撃的な物だった。
「あの子には戸籍が無かったのよ」
「え!?」
「300日問題って知ってる?」
「……いえ」
僕は正直に首を横に振った。
「前の夫との離婚後300日以内に生まれた子供は前の夫の子と推定されてしまうから夫との子供として登録できないの。前夫との子供であるとして届ける様にって言われてしまって。勿論、そんな事実は無いし、夫の子供である事は間違いないのだけれど、法律上は認められないのよ。あくまで法律では前夫との子なの。それでも夫との子供として認めてもらうには前夫の協力が必要になってくるの。もう会いたくもないし顔も見たくないから離婚してるのに、今さらそんな事で協力してもらう事も絶対に嫌だったの。結局出生届は出せないままでね……。今、日本にいる無戸籍者も私と同じ理由でそうなった人が結構いるみたい。現在はそれが社会問題となって少しづつ改善されているみたいだけどね。だから、もともといない子なの。もともといない子が行方不明になった所で警察は騒がないわ」
そんな……事が……今の日本で?
だったら僕は正真正銘、大崎真也なんだ。恵子さんの息子でもなければアオイの兄でもない。法律上はまったくの赤の他人だ。
戸籍が無い。普通の人ならば悲観的な事実だろう。だけどその事実は、僕にとっては決して悲観的なものでは無かった。
「それが原因か、警察に捕まるのが嫌だったのか、夫は蒸発したの。私もお腹の葵も残してね。ほんと男を見る目が無いわ。あの子が救われない……」
「アオイはその事を知っているのでしょうか?」
恵子さんは力なく首を左右に振った。
「こんな事言える訳ないでしょう。人間として失格だもの。そんな人間が自分の親だなんて嫌でしょう? それこそ葵まで不幸になっちゃう――ううん、葵の為なんて偽善ね。結局は葵に酷い人間だと思われたくなかったのよ。自分可愛さに黙っていただけ。本当、最低だわ、私」
恵子さんはそう言うと俯いてしまった。
確かに、恵子さんは人間として間違いを犯したのかもしれない。だけど、当時の状況を顧みて彼女を責める事が出来るのだろうか。事の発端を探すとどうやっても一つの答えに辿り着く。法律だ。
僕がすんなり父の息子だと認められればこんな悲劇は生まれなかっただろう。
彼女にかけてあげる言葉はもう無い。どんな慰めの言葉も恵子さんにとっては良心を抉る物でしかないだろう。だとしたら、彼女が心を痛めている事を少しでも癒してあげるしかない。
「まだ、どこかで元気に生きているかも知れませんよ」
「っ!……そうね」
そう言うと僕を見つめ不自由に微笑んだ。瞳から涙が一滴溢れ出し頬を伝った。
「その子の特徴はなんですか?」
「胸に火傷の痕があるわ。タバコを押し付けられたの。3つだったかな」
「そうですか。きっともう痛くないんじゃないかな」
僕も微笑んで言った。
「その子の名前は何ですか?」
「……
「蒼太……」
『蒼太』
記憶が蘇る。確かに遠い昔そう呼ばれていた。だけど温もりのある呼びかけでは無くていつも悲壮感が滲んでいた。蒼太に続く言葉はいつも「ごめんね」だった。胸が張り裂けそうに苦しくなった。目頭が熱くなり涙が零れそうだ。
「蒼太君はきっと、あなたの事を……恨んでいないと思いますよ」
「――っ!――」
恵子さんはテーブルに突っ伏して泣き出してしまった。
「――っ、産んでくれた事を感謝していると思います、っ!」
素敵な娘さんを産んでくれたことも。
「――っ、っ、っ。ごめんねっ、ごめんねっ、蒼太っ!」
「もし、東京で蒼太君に会う事があれば伝えておきますよ。お母さんは元気だよって」
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