真実

第30話 真実1

 少し疲れた僕はベッドの縁を背もたれにしてアイスコーヒーを片手に休憩をしていた。その間、僕の代わりにノートパソコンを弄っていたアオイが、

「ねえ、ここは?」と、いつもと変わらないテンションで呟いた。こういう事は過去に何度でもあり、その度に、「うーん……違う気がする」と答えるのが常になっていた。


 僕はアイスコーヒーのカップを口に付けながらゆっくり身を起こし、アオイの言った場所のストリートビューを見る。どうせまた空振りだ。見つかりっこない。心のどこかで諦めていた。そしてモニターに映し出される画像を見て目を見開いた。


 周りの音が聞こえなくなった。全身に鳥肌が立った。ゾクリとして二の腕の辺りに寒気を覚えた。クーラーを消したい、咄嗟にそんな事を思ったほどだ。


 硬直している僕に気付いたアオイが、

「え? なに? どうしたの?」と訊いてくる。


「ここ…………だ……」

「うそ! ほんと?」


 勿論、この景色のストリートビューを見るのは初めでた。だけど、この景色は遠い昔に確かに見ている。その瞬間、様々な事が走馬灯の様に蘇ってきた。


 寒かった。寒さに震え逃げて来た。日常的に行われる暴力。ごめんさない、ごめんなさいと言って許しを請い、もうしませんと言って食事を願った。いい子にするから外に出さないで下さいと懇願した。古い長屋の借家。真冬に外に出され許しが出るまで外に立たされた。

 ある日、暴力が耐えられなくなり、食事もまともに取っていない為、ふらつく足取りで家から逃げ出した。偶然止まっていたトラックの荷台に隠れるように逃げ込んだ。僕はずっと寒さに震え泣いていた。ごめんなさい……ごめんなさい……と。


 どの位、寒さに耐えたのか。何度も微睡み覚醒を繰り返し、気が付くと周りが薄明るくなっていた。止まったトラックの荷台からこっそり降りてみればそこは見た事もない場所だった。大きな建物。沢山いる大人達。威勢のいい掛け声。その景色を最後に、僕の記憶は無い。次にあるのは児童養護施設で生活する僕だ。


「――くん?」


 辛く、忘れてしまいたい経験を忘れてしまう事があると聞いた事がある。


「――くん!」


 なんて言ったっけ? 解離性健忘? そんな名前だった気がする。トラウマやストレスによって引き起こされる記憶喪失みたいな物で、自分にとって不都合な情報や辛い記憶などが思い出せなくなると言ったものだ。 だからずっと忘れていたんだ。


「真也君!!」


 辛い過去だった。消してしまい記憶だった。都合よく忘れられていた。さっきまでは。


 突然肩を揺すられ我に返る。アオイが心配そうな顔で僕を覗き込んでいた。


「真也君? 大丈夫?」

 辛い過去が蘇り寒気がする。


「アオイ、暑いかも知れないけれど、エアコンを止めてくれないか?」

「どうしたの?」

「寒いんだ」

「え? 風邪?」

 怪訝そうな顔しながらもエアコンのリモコンに手を伸ばし止めてくれた。


「ごめんなさい……」

「え? どうしたの?」

 震える僕をアオイが抱きしめてくれた。温もりが伝わってきて少し安堵した。


「ずっと謝っていた。ごめんなさいって」

 彼女は僕を見つめたまま固まっていたけれど、さらに強く抱きしめてくれる。


「なにか……思い出したの?」


「その場所で、間違いない」


 ストリートビューで住所を調べると、山形県東村山郡山辺町という地名らしい。


「山辺町? わたしの住んでいた寒河江から少し南に行ったところにある町だとおもう。この辺りに住んでいたのかな?」

 そういうとアオイはその周辺の民家がある辺りにストリートビューを持って行き、

「見覚えある?」と訊いてきた。それを見るも心当たりはない。


 だけれど、正直今は自分の生まれ育った家を探す事よりもアオイに伝えたい事があった。忘れていた記憶だ。辛くて思い出したくなかった記憶。だけれど、もう一度忘れてしまう前にアオイに伝えておきたかった。


「アオイ、僕の話を聞いて。ずっと忘れてたけど今思い出した事がある」

 まだ震えている僕を彼女は再び抱きしめてくれた。


「辛い事?」

「……うん」

 彼女は膝立ちになり僕の頭を抱える様に胸に抱きしめてくれた。


「辛いなら話さなくてもいいよ?」

 大きいとも言えない彼女の胸に抱かれ不思議な優しさに包まれ心の平安を得た。


「聞いてもらった方が良いんだ、また忘れてしまう前に」

「うん……じゃあ、聞く。話して?」


 僕は一呼吸おいて語り出す。


「父から虐待を受けていんた。日常的にふるわれる暴力。満足に与えてもらえない食事。いつもお腹を空かせていたと思う。僕が泣いたりすると真冬でも外に出された」


「そんなっ……お母さんは?」


「わからない。いたのかいなかったのか、記憶には出てこない。きっとそれほど父の存在が大きかったんだと思う。ある日、いよいよ耐えられなくなって、外に出されたついでに逃げ出したんだ。夕方だったと思う。寒かった。どの位走ったのか分からないけれど、あの場所まで走ったんだ」


「あの、記憶の場所?」


「うん、そこに一台のトラックがたまたま止まっていたんだよ。何故止まっていたのかは分からないけど、荷台にシートが被せられていて、そこへ無我夢中で潜り込んだんだ。いつ父が僕を追って来るか分からなかったし、ただ隠れたくて潜り込んだんだと思う。怖くてずっと震えていた。どの位そうしていたのかは判らないけれど、そのままトラックは動き出して、その時やっと安心したんだ、やっと逃げ切れたって。やっと父から開放されたって」


 アオイは僕を抱きしめたまま背中を擦ってくれる。


「とにかく寒かった。トラックの荷台で凍えそうになりながら寒さに耐えた。父から逃げたい一心だったんだ。何度も眠ったかも知れない。一晩中走っていたのかも知れない。気が付くと外が薄っすらと明るくなっていて、そのうちにトラックは止まった。シートから顔を出すと他にも沢山トラックが停まっていて、今思うと、そこが築地だったんだろうね。沢山の大人達が大きな声で話していた。僕は隙をついてトラックから抜け出すと辺りを彷徨った。それで……それから……そこまでだ。もう思い出せない」


「そこで保護されたのかな?」


「きっと、そう」

「でも、迷子なら名前を……あ、そっか――」

 何かに気付いたのか、アオイは言葉を飲み込んで僕の方を見た。


「うん、きっと名前を聞かれたんだろうけど、答えなかったんじゃないかな。答えたらまた家へ、父の元へ返されちゃうから」


「でも、息子が急にいなくなったら捜索願とか出すんじゃないの?」

「さあ、それは分からない。出したけどまさか東京にいると思わなくて、山形だけ捜索したのかも知れないし」


「じゃあ、まだ行方不明者として登録されているのかな?」

「どうだろう」

「ちょっと調べてみていい?」

「うん」


 彼女は一旦僕から離れるとパソコンを操作して「行方不明者 山形県」で検索をした。しかしすぐに肩を落とす。


「おじいさんやおばあさんばっかり。子供はいないよ」

「そっか」


 それがどういうことなのか分からなかった。捜索願を出さなかったのか、もう打ち切ったのか。アオイは再び僕を抱きしめると、


「怖かったね、辛かったね、頑張ったね」と言った。


「でも、本当にアオイの言う通り、僕は山形で生まれたんだね。アオイがいなかったらずっと謎のままだったね」

「わたしがくすぐったからだね」

「それに、まさか本当に『ライオン作戦』が上手く行くとは思わなかったね」

「そうだね、自分で言うのもなんだけど、きっと見つからないと思ってた」

「山形からどうやって東京に来たのかも判ったし」

「辛い記憶だったけどね」

 僕は頭を左右に振った。


「辛い記憶だけど、思い出せて良かったよ。アオイがいるから、もう怖くない」


 そう言って僕はアオイを抱き寄せた。


 

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