第26話 探し物2

 その週の日曜日。午前の引き下げを終えてバックヤードに戻って来ると三宅さんから声がかかる。なんとなく要件に想像はついたけれど何食わぬ顔でマネージャー室へ入る。タバコの煙が混ざった空気が僕を包み思わず息を止めた。三宅さんは毎日こんな狭い室内でタバコを吸って仕事をしていて体を悪くしないのだろうかと少し心配になる。


 僕に背を向けるようにデスクに向かっていた三宅さんが僕の入室に気が付くと、「ほれ」と言って一枚のA4サイズの用紙を手渡してきた。『人事発令』と銘打った用紙には僕と名古屋の武田さんの処遇について書かれていた。どうやら2人とも受かったらしい。僕は武田さんも合格した事に自分以上の喜びを感じていた。よかった。


「21日付けでそこに書いてある店にサブマネとして勤務してもらう」

 僕はもう一度用紙に目を落とし僕の処遇についての箇所を確認した。



 『人事発令』


 大崎真也

 新配属先:ホテル『ときめき空間』 鶯谷店 サブマネージャー

 現配属先:ホテル『タイムカプセル』 

 6月21日付けで上記配属先への移動を発令する



 仰々しい辞令に苦笑いを浮かべる。堅苦しい文言の中にあるホテルの名前があまりに不釣り合いに思えた。それより、新しい勤務先のときめき空間とはどこだろう。真っ先に気になった事を三宅さんに訊ねた。


「この、ときめき空間とは近くですか?」

「ああ、すぐそこだ」

 すぐそこ。このエリア内にあるのだろうか。内心ほっとする。


「梶原って奴がそこのマネージャーをやってるから、まずはそいつに付いてマネージャーの仕事を学べ」

「はい」

 新しい上司か。三宅さんは口は悪いけど良い人だっただけに新しい出会いに不安が広がる。

 そんな僕を見て三宅さんは、


「梶原の事が気になってるだろ? お前はすぐ顔に出るな」と言ってはははと笑う。確かにその通りだっただけにぐうの音も出ない。


「心配するな、まだ若いけど面倒見のいい奴だ」

「はあ……」

 その言葉を聞いて少し安心した。



「おめでとう!」

 夕食を作りながら僕の報告を受けたアオイがお祝いの言葉を述べる。

「ありがとう……」

「なに? なんか嬉しそうじゃないね?」

「社員になれたのは嬉しいけど、アオイと別のホテルになっちゃったのが……」

「そうだね、それは少し寂しいけど、わたし毎日ここにいるじゃん」

「勤務時間が合わなくなるんだよ」

「うーん……確かにそれは少し寂しいけど、全く時間が合わないって訳じゃないんでしょ?」

「まあね……」

 実際はまだ勤務体系の事は聞いていないから良く判らないのだけれど。

 

「アオイ、帰らないで」

 僕がそう伝えると彼女は料理の手を止めた。そして僕の傍にやって来ると僕の首に手を回し僕を見つめる。

「ずっとここにいてもい?」と言っていつもの様に小首を傾げた。

 僕は返事の代わりに彼女を抱きしめ唇を押し当てた。彼女の汗が甘い香りを放ち僕を刺激する。そのまま僕は彼女の首筋に舌を這わせる。


「ちょっと……まだ、ご飯作ってるから……」

 そう言いつつも熱い吐息を漏らす。彼女は諦めコンロの火を止めた。僕はそのまま彼女をベッドへ引っ張って行った。




 6月21日。新しい勤務先へ指定された時間にスーツ姿で出勤する。社員は基本スーツで出勤し、スタッフの状況に応じて作業を手伝う時にはユニフォームに着替える。アオイと買いに行った黒のスーツはズボンが細身で本当に窮屈だ。彼女は、「似合ってるよ。カッコいい」と言ってくれたけど自分自身では似合っていると思えない。人生初めてのスーツの着心地の悪さにうんざりしながら従業員用の出入口から入る。

 フロントの女性に名を名乗ると、内線で、「大崎さんがおみえになりました」と、どこかへ通話をする。「はい、かしこまりました」と言って受話器を置いた女性が、

「2階のマネージャー室へ向かってください。マネージャーの梶原さんがお待ちです」と言った。


 僕はお礼を言って2階へ向かうとバックヤードで作業をしていた従業員たちが僕を見て、

「おはようございます」と言って皆一様に頭を下げる。僕は恐縮してしまい、「おはようございます」と深々と頭を下げた。やはりバイトと社員とではどこか線引きがあるのか皆よそよそしい。


 そのままマネージャー室へ向かいノックすると、「どうぞ」と女性の声がした。


「失礼します」と言って緊張して入室すると、一人の女性が椅子に座り机の上のパソコンを操作していた。30歳前後だろうか、黒いパンツスーツの彼女は黒い肩まである髪を後ろで束ね、黒縁の眼鏡をかけている。化粧も薄く地味な人だ。


「少しお待ちください」となおもパソコンの手を止めない。この人はタバコを吸わないんだろう。室内は、目の前の女性の物であろうか化粧の匂いに満ちていた。正直ほっとした。三宅さんと会話する時はいつも息苦しかったのだ。


「お待たせしました」と言ってようやく僕に向き直ると椅子を勧められるので言われるまま腰掛けた。彼女は座ったまま僕に名刺を手渡しながら、「梶原麻衣です。よろしくお願いしますね、大崎さん」と自己紹介した。


「大崎真也です。よろしくお願いします」


 てっきりマネージャーとは男性ばかりだと思っていたので少々面食らった。第一印象は優しそうな梶原さんに少しほっとした。


「ちょっと、色々と書類を書いて貰わないといけないから場所を移動しましょう」

 そう言われ、僕たちは席を立った。


 その後、空いている客室へ移動し、契約書を書いたり、就業規則や業務内容の説明を受けたりした。

 勤務時間は基本的には朝番と夜番の2交代制らしい。しばらくは梶原さんと同じ時間帯に勤務する事になる。

 休日は決まった曜日ではなく、月7~8日の休みを自分で申請して取得するらしい。「何曜日でもいいんですか?」と訊ねれば、「どうしても欠勤などがあった場合は無理をお願いするかも知れないですけど、基本的には尊重します」との事だった。三宅さんと違って随分と礼儀正しい人だ。その分、怒ると怖いのかも。


 サブマネージャーの仕事は今までやって来た仕事と180度変わった。スタッフのシフト管理や備品の発注、スタッフの勤務態度やホテル内のチェック等、管理する仕事がメインになる。その他、シーズンによってイベントやキャンペーンなどの企画や店舗独自のプランやコースなども企画したりする。勿論、欠勤が出ればそこに入ってフォローもするし、スタッフの手が回らない時も当然助っ人として入る。

 以前、野田さんが言っていたけれど、本当に忙しいと家に帰らずホテルに寝泊まりする事もあるらしいという話を思い出していた。その旨を梶原さんに訊ねると、


「そういう事もあるけど、三宅さんの場合はただ面倒くさくて家に帰らなかっただけじゃないかな」との事だった。


 その日はずっと梶原さんに付いて仕事を教わった。

  

 休憩室では従業員の皆が僕に敬語で話しかけてくる。普段敬語で話される事なんてあまり無いので何となくむず痒かったけれど、なんだか自分が少し偉くなったような気がした。

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