第19話 僥倖11

 集中して問題を解いていると右肩に温もりと心地よい重みを感じ手を止めた。仄かに甘い香りも漂って来る。見るとアオイが僕の右肩に頭を預けスースーと寝息を立てて眠ってしまっている。背もたれも無い状態で眠れるなんて器用だな。先生が寝ちゃうなんてどうしたものか。それだけ僕の勉強が順調と言う事なんだろう。

 

 アオイを起こさない様に首だけ捻って時計を見ると午後4時になろうとしている。外はまだ全然明るいけれど、陽は明らかに西へ傾き夕方の始まりを教えてくれていた。

 

 相当集中していたようで時間の流れに気が付かなかった。少し休憩するのも良いかもしれないと思い可哀そうだとは思ったけれど彼女を揺すって起こした。


「アオイ? 風邪ひくよ? ほら、起きて」

「ん……ごめ、寝ちゃってた」

 むにゅむにゅ言いながら手で目を擦る。僕の肩に頭を預けていた事なんて何も気にしていない様だ。


「ちょっと休憩しようか。アオイも眠いなら毛布貸すから仮眠したら?」

「ん……大丈夫。コーヒー淹れようか?」

「僕がやるから」

「やだ、私がやるの」

 そう言うと立ち上がりおぼつかない足取りでキッチンへ向かと電子ポットに水を入れセットした。戸棚をゴゾゴゾしてインスタントコーヒーの瓶を取り出し、買ってきてやったアオイのマグカップと僕のマグカップにコーヒーの粉を入れている。全体がピンクで薄い緑と黄色の模様が描かれている自分のマグカップを眺め満更でもない表情で微笑んでいた。


「ねえ、シュークリーム食べたい」

 なんかそんな予感はしていた。駄目だと言っても食べるんだろうな。


「あれ、夜食べようと思って買ったんだけど」

「たーべーたーいー」

 そう言うと頬を膨らませた。そんな顔されたら従うしかないじゃないか。


「じゃあどっちか片方だけにしようよ。夜にも一つ残しておこうよ」

「うん、じゃあどっちにしようかな……」と言うと冷蔵庫の前にしゃがみ再び、「うーん……うーん……」と唸って迷っている。その小さな背中を見てじわじわと広がってくる温かい想い。染められていない黒いボブカットの襟足から覗く白いうなじを見て、色気とは違う感情がこみ上げてきた。


 後ろから抱きしめたい。胸が苦しいのは緊張しているから? 性的な欲求を感じているから? だけど、抱きしめたからと言ってすぐに体を求めたいとも思えない。色々可能性をさぐるのだけれど、そのどれとも違う事に気付く。だったらこの感情は何だろう。


 結局、その正体は分からないままテーブルにコーヒーとシュークリームが運ばれて来るので、結論を求める事は一旦保留にした。


「よいしょ」と言って相変わらず僕の右側にペタンと座ると、「半分こしよ?」と言って首を傾げる。あざとい。率直な感想はそれだ。僕はコーヒーを一口啜ってから「うん」と答えた。


 彼女はシュークリームの個包装を破ると丁寧に中身を引っ張り出し、一口分ちぎって僕の口元へ近付けてきた。

「はい、あー」

「あー」と言って口を開けると摘まんだそれを口の中に入れてくる。ゆっくり口を閉じると僕の唇に彼女の指が触れた。


「おいし?」

 そう言って彼女はシュークリーム本体にはむっとかぶりつく。クリームが飛び出し彼女の口元を汚した。またか。取ってやろうかと思ったけれど、どうせまたすぐ付くだろうし最後にまとめて取ってやればいいか。


「僕の食べたやつ、クリームが全然付いていなかったよ」

「クリーム食べたい?」

「そりゃ、皮だけなんていやだよ」

「じゃ、ちょっとまってね」

 そう言うと歯型の残るシュークリームの切り口から人差し指でクリームを掬うと「はい」と言って指を近付けてくる。舐めろと言う事なんだろう。僕は必要以上に深く彼女の人差し指を口の中に含み指に付いたクリームを舐めとった。クリームが無くなってもしつこく指を舐めていると彼女の呼吸が僅かに乱れ、キュロットから覗く彼女の白い脚の表面が粟立っている事に気付く。ゴクリと一つ息を飲み彼女が指を引っ込めた。紅潮した表情で視線をシュークリームに落とすと再びはむっとかぶりつく。


 そんな事を繰り返しシュークリームが無くなると最後に彼女の口元に付いているクリームを指で拭って取ってやった。それを見せながら、

「いっつも口の周りに何か付けるね」と言うと、

「口元がだらしないのかも?」と言って両手で僕の手を掴み僕の人差し指を口に含んだ。必要以上に指を舐めまわされて変な気分になってくる。いい大人の僕たちがいったい何をやっているんだろう。

 彼女は目を瞑り口をすぼめると愛撫するかのように僕の指を出し入れし始めた。ちょっとさすがにこれはやばい。これは絶対狙ってやっている。クリーム舐め取るだけでこんな卑猥な動きしないもん。


「ちょ、ちょっと待って」

「ん?」と言って僕の指を咥えたまま上目づかいで僕を見てくる。


「それ、狙ってやってるでしょ? もう、やばいって」

「ふふふ、なにが?」

 そう言ってとぼける様に訊く。あ、確信犯だ。


「そんな事されると……」

「されると?」

「ええと……」

「ふふ、変な気分になっちゃう?」

「うん、抑え切れなくなっちゃうから」

 もう隠さなかった。彼女だって大人だ。どういうつもりでやっているかくらい自分で解っているのだろう。僕がこうなる事も。絶対楽しんでやってるんだ。本当にあざとい。

 もしくはコレが彼女なりの気持ちの伝え方なんだろうか。言葉に出さずに行動で気持ちを伝える。幼さ故の方法なのかも知れないけれど。だとしたら非常に危ういやり方だ。相手によってはアオイ自身が傷付く事になるかも知れない。相手の気持ちを確かめる前に受け入れてしまうかも知れないからだ。これはいずれお説教をしないといけないだろう。


「ふふ、じゃあこのくらいにしておこう」

 そう言ってようやく僕の指を開放するとマグカップに手を伸ばしコーヒーを啜った。ほっとするような、がっかりするような微妙な気分。そんな事お構いなしに、

「ね、DVD観よ?」と言う。

「勉強はいいのかな?」

「晩ご飯食べてからまたやろうよ」

「うん、そうだね」

 

 DVDをセットし、僕たちはベッドを背もたれにして脚を延ばして並んで床に座った。僕の左腕に彼女の肩がぴったりとくっ付いている。もうこのくらいの距離感なんだ。あっという間に、だけれど自然に僕たちはお互いが触れ合う事を望んだ。初めて出会った時にお互い強く見つめ合ってからこうなる様な気がしていた。お互いが目指した到達点も同じだったんだろう。どんなルートで登っても終いには山頂という一点に到達する登山のように。それを僕たちはもっとも簡単で近道なルートを辿っただけだ。


 コテンと僕の肩に頭を預け映画を観ている。お互いどういう気持ちなのか、どう想っているのか。僕たちはお互いに何も伝えていない。だけれど今はそれでいいと思った。今は僕の試験勉強に協力してくれている。僕も彼女の期待に応えたい。気持ちはいつだって伝えられる。今はこの曖昧で心地よい関係を繋いで行ければ良い。


 僕の肩に預けている彼女の頭を撫でてやった。彼女は満足そうに微笑んだ。

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