第5話
その日の晩、セレナは自分の住む海域から北西方面に四時間ほど泳いだ隣の地区を訪れた。ちなみに人魚の遊泳速度は魚類最速と呼ばれるカジキマグロを余裕で煽れるくらいだ。
わざわざ夜になるのを待ったのは、昨晩の出来事からリーネに会うまでの間、悶々として一睡もできなかった身体を少し休める必要があった為と、『魔女』という存在がなんとなく昼間は活動をしていないのではないかと考えたからだ。
『北西の海区にある人魚の縄張りに、魔女と呼ばれる人魚がいるらしい』リーネが教えてくれた情報はたったそれだけ。
しかし、人魚を人間に変身させるなどという芸当は魔女にでも頼まないと無理だろうと考えていたセレナは駄目元と言いつつ期待をしながら魔女の元へと向かった。
北西の海といっても生態系に大きな変化が出るほどの遠さではなく、比較的見慣れた海藻や魚が目に付く海はセレナの不安を和らげた。人魚は泳ぎこそ特別速いが他の生物に一矢報いる毒も牙も持たない為、単独で行動することはまずあり得ない。基本的に30〜50ほどの群れを作って生活し、特別な事情が無い限りは生まれた海から引っ越すことは無く、日帰りで行ける場所に他の人魚の縄張りがあろうとも衝突したり協力したりする事はない。どちらにせよメリットがないからだ。
故に、初めて訪れる別の人魚の拠点に少しだけ緊張するセレナだった。同族に突然襲い掛かるような獰猛な種族ではないにしても、初めて出会う群れ以外の人魚には警戒心を持って然るべきだ。
「あ、あの人魚・・・リーネに少し似ています」
さっそく見かけたのはセレナより少し年上の青髪の女人魚だった。一重がクールな、大人っぽい顔立ちをしている。
「すみません、ちょっとよろしいですか?」
「あぁ?なんだい」
青髪の人魚は振り返ってセレナを見ると、驚いて目を丸くした。
「あんた、うちの群れの娘じゃないね」
思っていたより男勝りな青髪の人魚は、見知らぬ人魚に驚いているようだ。
「はい・・・突然すみません。あ、えっと。敵意はないです、とある人魚を探しに来ただけなのです」
「別の群れから来たあんたがかい?」
「その、魔女様と呼ばれる人魚はこの近くに住んでいますか?」
その言葉を聞くと、青髪の人魚はますます目を丸くした。
「あの変な女に何の用事だ?」
「変なのですか・・・」
「あぁ、とんだ変わり者だよ、異端者。あたしのひいばあさんよりも年上なのに見た目はあたしと同じくらい。歌声は不気味で聞いちゃいられないのに多くの人間を操れる。いつも笑いながら洞窟の奥で怪しげな事を呟く不気味な婆さんだ。しかも噂によると魔法とかいう歌声とは異なる謎の力を使うらしい」
「まぁ、それは素敵です」
イメージにぴったりの魔女に思わず喜んでしまう。
「はぁ?」
当然、青髪に変な顔をされる。
「なんでもいいや、魔女ならあっちのサンゴ礁の裏側の洞窟だよ。真っ黒い穴の開いた変な貝殻がびっしりこびりついた入口の狭い洞窟があるから、きっとその中にいるさ」
関わりたくない、と言った様子で手短に道案内を済ませると青髪の人魚はそそくさと消えてしまった。
「ありがとうございます。親切な方」
そんな態度を寧ろ喜ばしく思うセレナ。異端者とまでに言われる不気味な魔女の存在に期待しながら案内の通りに進む。薄紫色がメインのサンゴ礁をぐるりと迂回すると、一回り大きなフジツボのような貝がびっしりと張り付く洞窟が見えてきた。
「こんなに簡単で良いのでしょうか」
あまりに上手くいきすぎる展開にそわそわしてしまいながらも、洞窟の傍に降りる。呼びかけ用の穴は無く、外から大声を出すしかないようだ。
「すみませーん。魔女様のご自宅でしょうかー」
返事は無い。
「すみませーーん!!」
「うるさいねぇ!何を言ってるのか聞こえないよ!いいからさっさと入ってきな!!」
「ひゃっ」
中から怒鳴り声が返ってきた。
「入ってよいのでしょうか・・・」
ひとまず言われた通りに洞窟の中に入る。魔女の住処はセレナの住処によく似た狭い入口で、身体をゆっくりとひねらせないと中には入ることが出来ないようになっている。閉鎖的な入口はセレナ同様、人魚付き合いが苦手な人魚の特徴ともいえる。
「あのぉ」
狭い入口を抜けると縦に高い洞窟が広がっていた。天井の窓穴の方まで並べられた石棚には怪しげな色の液体が入ったボトルが並び、部屋の中をふわふわした綿のような生き物が色とりどりに発光しながら浮かんでいる。
そして、部屋の真ん中でこちらに背を向けている紫色の尾びれまで届く長い髪の人魚が一人。
「・・・あの!」
「なんだいレイシア、飯は一昨日食べたばかりだろう・・・って、誰だあんた」
振り返った人魚は、眠たそうにもったりとした黒の瞳を見開いた。青髪の人魚が言う通り、魔女と呼ばれるには非常に若い見た目の、少しやせ細った人魚だ。その代わり濃い紫色に染まった爪は伸びて先は尖り、鱗は人魚によく見る青系ではなくギラギラと光を乱反射させる濃い灰色をしていた。手に持っているのは人間の文字が書かれた分厚い本で、本は濡れないように大きな水泡で守られている。セレナには見たことがない技術だ。
「それはもしかして、魔法ですか?」
「質問してるのはこっちだ、誰だあんたは。何故無断であたしの家に上がり込んだ」
魔女と呼ばれる人魚は怒っているというより混乱している様子だ。
「名前はセレナです。別の群れから貴女の噂を聞いてやってきました。先ほどお家のお外から声を掛けたら聞こえないから入ってこいと言われたので・・・」
「知り合いだと思ったんだよ。それに、別の群れの人魚?そんなやつがあたしに何の用事さね」
少し気まずそうに本を手放すと水泡はふわふわと上へと上がっていき、同じように水泡に包まれた書物が並ぶ棚にしまわれた。
「まさか人間になりたいとでも言いだすんじゃないだろうね?」
魔女は皮肉めいた笑みでそう言った。
「はい!」
しかし、セレナの元気いっぱいの返事に、直ぐ呆気にとられた顔になる。
「私、会いたい人間の方がいるのです。魔女様なら人間になる方法を知っているのではないかと思い会いに来ました。私人間になりたいです、童話の人魚姫のように」
「・・・・・・」
「あ、あの?」
「あんたのような馬鹿娘が来たのは110年ぶり。馬鹿な男は70年前にも来たがね」
魔女はゆっくりと落ち着きを取り戻すと、今度は面白い玩具を見つけたかのような笑みを浮かべた。
「想像通りさ、あたしは魔女。不思議な力を操る事のできる特別な人魚だ。人間になる方法だって思いつかないわけじゃない」
ニヤニヤと、段々嬉しそうな表情に変わる。
「セレナと言ったね、いいさ。人間にしてやろう」
「えぇっ!?いいんですか?」
「なんだ、嫌なのかい?」
「いえ、その、あまりにもあっさり承諾していただけたので驚いてしまって」
「人魚を人間にしたのは初めてじゃないからね。二百年程前はあんたみたいな人魚もそれなりにいたもんだ」
魔女は縦長の空間上部に上がるといくつも開いた横穴から小瓶を一つ取り出し、その場で手を離した。
「さぁ受け取りな」
「は、はいっ」
ゆっくりと落ちてきた小瓶を両手でキャッチする。瓶の中には濃い緑色の液体がぼんやりと光っていた。
「さぁセレナ、それを飲んでみな」
「わ、わかりました」
言われるがままに液体を一気に飲み干す。
「・・・・・・ゔっ!?」
緑色の液体が喉を通り、胸のあたりを通り抜ける。その瞬間。
どくん。体中が締め付けられる感覚に襲われた。体の中、肺が、心臓が、胃が、押しつぶされるような無理やり広げられるような痛み。体内をぐちゃぐちゃに犯されているような酷い不快感に頭が段々と締め付けられ、指の先にすら力が入らなくなる。
「ま、まじょさ・・・これは」
「馬鹿な人魚だね」
魔女はにたり、と魔女らしく笑った。
「ここは深海さ。人間の身体が圧力に耐えられるわけがないだろう?」
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