第3話


 巨大な貿易船の名前は『トランス・リベルタ号』といった。船長のキャプテン・ロベルトは海賊でもないくせに自分の事をそう呼ばせる奇妙な男だ。そんな男には200人の部下がいて、船にはそれ以外の商売関係者やゲスト、期間労働者が百人近くいる。


 リベルタ号に乗っている船乗りは大体が豪快でガサツで陽気で、あまり上品ではない前時代的な船乗りだった。海賊か商売人かわからないほどに口が悪く、素行も酷い輩は当然客船のスタッフにはなれず、由緒正しき商船にも嫌われる。そんな荒くれたちを集めた腕っぷし自慢の大男がこの船の船長だ。


「おい、おっさん共。また見張りサボってるだろ」

 船長の手下の中では比較的素行の良い若い青年、名前はリュカと言った。

 くすんだ濃い赤色の髪がぴょこぴょこといつも跳ねていて、茶色の肌に薄灰色の大きな瞳がよく栄える十六歳。船乗りにしては体は小さく一見頼りない体格をしているが、十歳の頃からキャプテン・ロベルトの元で働いているため海の事にも多少は詳しい。


 リュカは何より真面目な青年だった。人並みに羽目を外すこともあれど、他の船員のように見張りをさぼって飲酒をしたり、どちらがより酒豪かなどの意味不明な理由で殴り合いの喧嘩に興じるようなことは一切ない。

「なんだぁ?クソガキ、起きてたのか」

「おうおう、お前もこっちに来て一緒に飲もうぜ」

「グラシ、自分が負けてるからってリュカを引き込むなんてずるいぞ」

 がははは、と陽気に笑いこけている男達の手には見張り用の双眼鏡ではなくトランプが握られている。リュカは想定通りの様子に深いため息をついた。

「そうやって明日キャプテンに百叩きにされるっていうのに、いつもいつも飽きないよな。お前らには学習能力はないのかよ」

「明日の事は明日考えればいいじゃねぇか!」

「そうそう、キャプテンの機嫌が良くてお咎めなしってなるかもしれねぇからな」

「リュカもビビってないでこっちに来いよ」

 嫌味も意に介さず男たちはご機嫌な様子だ。キャプテンが昨晩指のささくれが変な向け方をして不機嫌だったことを知っているリュカは三人の見張り役に心の中で十字を切る真似事をして、酒の席から放り投げられてしまった双眼鏡を持って見張り台に向かう。


「ったく、酔っぱらいにいくら言っても無駄だからな。だからこいつらと同じ当番は嫌なんだよ」

 そう言いながらも流されずにしっかりと役目を果たすリュカはこんな奴等だらけの船では割を食う性格だ。


 マストに取り付けられた見張り台は一人か二人が座れるほどのスペースで、ばたばたと頭上ではためく黒い布の音がうるさい。歴戦の船乗りのくせに世間知らずの子供のように海賊に憧れるキャプテンの趣味でデカい旗を掲げているのだ。マストは三本もあるのだから普段使わない方の見張り台側につけてくれればいいのに、とリュカは当番の度に思っていた。


 ランタンと双眼鏡、夜食と水筒を御伴に過ごす夜の海はとても静かで、臆病な人間だったら相当心細いことだろう。しかし、リュカは義務的に一定のタイミングで双眼鏡を覗いては座り、星空を見るまでの余裕がある。下から聞こえる馬鹿うるさいサボり魔共の笑い声は少々苛立つが、明日キャプテンにぼこぼこにされると考えるといくらか気分が良かった。


 慣れた見張り当番と、八方を見ても陸も船もないだだっ広い海はリュカをより退屈にさせた。

「せめて流れ星でも落ちてくれればいいのに」

 別に星を見るのが好きなわけではないが、海を見るよりは楽しいのでリュカはよく空を見た。海の無い故郷を思い出すのに、どこから見ても変わりのない夜空は丁度良いからという理由はあったのかもしれない。


「まだ夜明けまでだいぶ時間があるな」

 気が付くと、下のやつらは明かりをつけたまま眠っていた。

「呑気な奴等、船を降ろされちゃえばいいのに」

 半分冗談半分本気の恨み言を呟いて、再び海を見る。相変わらず真っ暗で静かだ。

 空は快晴だし、半分になった月がくっきりと見える。

「この分だと今夜の見張りは大したことが無さそうだ」


 平和な夜の海にぼんやりしていると、何処からか変な音が聞こえてきた。


「・・・ん?」

 変な音の正体が歌声のようだと認識する。しかし、その高い声は女性の声。今リベルタ号に乗っている女性はゲストの女富豪とその付き人だけ。とはいえ二人とも客室で眠っている筈だ。大体彼女達とは声質が違うと素人にもわかるほどに聞こえた歌声は透明で美しいものだ。

「まさか、人魚?」

 この付近の海域で人魚が出るという話は聞いたことがある。リベルタ号は今まで人魚の被害にあった事が無く、リュカ自身人魚の存在は半信半疑ではあるものの、先日同じルートを通った船が積荷の酒樽を海に捨ててしまうという奇妙な事件が起こった事は知っている。誰もいないはずの海で聞こえる歌声を人魚と結びつけるのは当然だった。

 人魚の歌に魅入られた者は意識を失い、操られて最悪の場合海へ身を投げる。昔キャプテンや他の船のベテラン船乗りから聞いた話を思い出し青ざめる。

「どうしよう、えっと、人魚に遭遇したら・・・」


 耳をふさぐ、こちらも歌う、寝たふりをする、全裸になる、など噂で聞いた眉唾だらけの人魚撃退法を思い出してはパニックになる。その結果、どれを実行するわけでも無く手に持った双眼鏡で海面を見渡した。


「~~~♪」


 その姿は、すぐに見つかった。それと同時にリュカは自分の心がぐっと引き込まれるのを感じた。


 双眼鏡のレンズ越しに見えたのは海面に顔を出した岩に寄りかかる女性の姿。闇に飲み込まれずにそこだけぼんやりと輝き、温かみのある薄桃色の長い髪が歌声にあわせて揺れていた。人間とほとんど変わりのない上半身、初めて見た女性の肌は陶器のように白くてつるりとしていて、自分の荒れたこげ茶色の肌とは大違いだった。そしてわずかに見える下半身はエメラルド色のうろこにびっしりと覆われていて今まで見たどの織物よりも輝いていた。水にぬれた髪が、肌が、鱗が、キラキラと月明かりを反射しているその女性は、伝承で教えられていた人魚よりもずっと神秘的で可憐な見た目をしていた。


「・・・・・・美しい」


 思わず漏れた本音に驚き、慌てて両手で口をふさぐ。歌声にか美女にかわからないが自分が魅了されている気がして恐怖を感じ、リュカは慌てて見張り台から降りていびきをかく男たちを叩き起こした。


「やばい、どうしよう、俺死ぬかもしれない!助けて!おい!助けてくれ!!」


 見張りをさぼった男たちが起きてもまだ大騒ぎするリュカのせいで船内で眠っていた殆どの船乗りが外に出てきた。その頃既に人魚の姿はなく、リュカが指さす方角に鋭く出っ張った岩礁を発見したのでゆるりと迂回し、リュカは船乗り達から騒ぎ過ぎだと怒られ、リュカにとって大変不名誉な夜となった。



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