第2話


 リーネが人間を操り大量の酒樽で海を汚してから三日ほど経ったが、セレナは自分の家で変わらずに退屈な一日を過ごしていた。セレナの家は人魚の居住層である深海にある横長の洞窟の中だ。入口は身体をひねらせないと入る事が出来ない程に長細い為、海藻や小魚の食べ過ぎには注意が必要だ。入口は狭くとも中は広々と充実しており、白にぼつぼつとした濃灰の斑点がついた丁度良いサイズの岩に並べた綺麗な貝殻を眺めているだけで楽しく過ごすことが出来る。藻で隠された上窓をごっそりと開ければ、遠く見える海面の色で今が朝なのか夜なのか判断することも可能だ。


 セレナが入口の狭い洞窟を好むのはサメ等に襲われないからだけではなく、誰にも聞かれずに歌の練習をする為だった。今まで人間の前はおろか家族やリーネ以外の人魚の前ですら歌った事が無いセレナだが、別に歌が嫌いなわけでも苦手なわけでも無い。寧ろ人魚らしく歌う事が好きだし、儚げで美しい声も持っている。


 そんな彼女が人前で歌を歌いたがらない理由は、今は亡き祖母が原因だ。


『セレナに良いモノをあげようか。これは人間が作った楽譜という、歌を模様に記したものだよ』


 セレナが幼く、まだ空を見たことが無い年齢の頃、大好きな祖母から宝物を受け取った。


『ここにはね、セ・レ・ナと書いてあるんだよ。セレナの名前と同じだねぇ』


 滲んだインクで布に描かれた楽譜の一番上には半分は読めないくらいに滲んだ文字でそう書かれていた。その下には文字とはまた別の黒い点々が並んでいる。その模様が曲を表現しているのだろうというところまでは推理出来たが、セレナ達には楽譜を読むこともタイトルを正確に知ることも出来なかった。


 セレナの祖母は他の人魚よりも人間の文化に詳しく、文字も少しだけ読めた。その世代では伝説と呼ばれるほどに迫力がある歌声を持ち、気まぐれに人間の私物を貰っては自分の家に集めていたのだ。


 大昔、海のど真ん中でセレナの祖母が通りかかった船に歌声を聞かせようとすると、逆に魅了されてしまいそうなほどに美しい音色が聞こえた。それは客船で腕を披露する旅の吟遊詩人の歌声で、その曲を気に入った彼女は自分の歌でかき消すのではなく吟遊詩人のメロディーを一緒に口ずさむことにした。お互いの歌声が混じり合い調和する心地よさに気を良くした吟遊詩人が姿の見えない人魚にお礼として布に描かれた楽譜を一枚海に投げ入れた。その時の楽譜がセレナとタイトルに書かれた楽譜だ。


 曲を気に入った祖母は自分の娘に何度もその歌を聞かせ、孫が出来ると曲とおなじ名前を付けた。人間の言葉を少しだけ知っている祖母は楽譜に書かれた歌詞の中に何度も「愛している」「愛おしい」といった意味の言葉が登場するので、これはきっと家族か恋人に向けた愛に溢れる歌だと思うとセレナに何度も教えてきた。


 セレナは自分のルーツとなったこの歌が好きで、祖母から少しだけ意味を教えてもらった歌詞の内容も気に入っていた。いつか人間に歌を聞かせる時があったら最初に歌うのはこの曲にしたいと子供の頃から決めている。


 しかし、長い間「セレナ」を一人で歌い続けた為に曲への情が深くなり、自分なりに曲の意味を考察するまでとなった。祖母から教えてもらった「広い海」「あなたを一番愛している」「逢いに来て」「荒れ狂う波のような」という歯抜けの歌詞から曲の全体を予想し、どんな歌なのか、誰に向けて歌ったものなのかに思いをはせる。


 その結果、セレナがこの楽譜に導き出した結論は「船乗りの恋人に向けた愛の歌」だった。若くて貧困ながらも互いを尊重し合う恋人同士が長旅に出る船乗りの彼の無事を祈り、恋心を歌った曲だとセレナは解釈した。当然ながらこれはただの妄想で、実際に答えを知る機会はそうそう訪れる事は無いのだが、セレナは答えのない問題の結論を出してしまうくらいにこの曲を特別に思っていた。


「これでは、船乗りの方に告白をしているみたいではありませんか・・・」

 自分の好きな曲が船乗りへのラブソングだと決めつけてしまった事はまだ思春期のセレナには大きな問題だった。自分はこの先船乗りの男に向けてこの曲を多くの人に聞こえるように歌わなくてはならない、そう考えると頬が熱くなる。まるで公開告白をするような気分になり、意識してからは気軽に歌うことが出来なくなった。最初に歌うのは祖母から貰ったこの曲にしたいという気持ちと、これが船乗りへの愛の歌だと認識したうえで歌う恥ずかしさが鬩ぎ合い、未だにセレナは人魚の女性としてのデビューを果たせていない。


「そもそも、人魚の私が曲の歌詞を意識することが失敗でした」


 好きな曲の事はたくさん知りたいし考えたいという気持ちから長い時間をかけて歌詞を推理したセレナだが、このようなことをする人魚はまずいない。人魚はメロディーを重視し、曲に意味を求めないし歌詞という概念を気にしない事がほとんどだ。その為人魚の歌声はハミングとして聞こえることが多く、はっきりと歌詞を唄う人魚はセレナの祖母のように人間の文化にあかるい者だけだ。


「同世代の中で人前で歌った事がないのなんて私だけです・・・小さなことを気にせ

ずに他の曲を選ぶか、歌詞の意味など忘れて歌ってしまった方がよいのでしょうか」

 薄暗い洞窟の中でセレナは何度目かわからない自問自答を楽譜に向けていた。もう海上に出て良い年になったにも関わらず人前で歌わない人魚は非常に稀で、セレナの両親もそれを心配している。現状を打破する必要性を感じつつも、明日、明後日とつい先延ばしにしてしまう。


「よ、よし。今日こそは頑張りましょう。頑張るのです私」

 ぺし、と両頬を叩いて楽譜を岩と岩の隙間に片づける。変わり者である自分を変えたい、両親をこれ以上心配させたくないという強い意志だけを持ち狭い玄関を通り抜け、暗くなった空へと上がっていく。




 真夜中でも海面付近の水はまだ温かく、上半身の肌に触れる風は生暖かい。心地よい波に身を任せてゆったりと泳ぎながら船を待って、もう二時間程が経っていた。セレナ達の住む海域は陸から遠い海のど真ん中でありながら、気候が比較的安定しやすい為に大きな都市を結ぶ商船がよく利用するルートになっている。つまり人魚にとっての絶好の狩場だ。そんな場所でも船が通るかどうかはその日の運次第になるのが人魚女子の辛いところである。


 人間にとって、人魚の姿を目撃した者は少なくともその噂は広まっている。元々古くからある人魚の伝承に加えてリーネのようなイタズラを働く人魚が多い事で、船乗り達は海で不思議な出来事が起こると人魚の仕業だと考える。


 しかし、人魚の歌声と怪異現象に遭遇できても人魚の姿を見る事は難しく、万が一見えたとしても証拠が無いため陸の人間はあまり人魚の存在を信じず、船乗りが不始末を伝承にかこつけて誤魔化しているとばかり思っている。先日リーネが積荷の半分程を捨てさせたガレオン船の船乗り達は依頼主に相当酷い目にあわされたことだろう。船乗りにとって人魚はとにかく迷惑な存在でしかない。


 船乗り達の間でよく言われる人魚対策として、吟遊詩人を船に乗せれば人魚に魅入られないというものがある。人間にとって全く科学的根拠は無いが、そんなおまじないにでも頼らないといけない程に姿の見えない海の悪魔は脅威だった。


 ちなみに、この対策はあながち間違いではない。人魚達の歌は元々人間が歌っている曲を真似したもので、基本的に親から教えてもらう事でしか曲を知ることが出来ない。その為、吟遊詩人や歌手が船上で歌っていると知らないメロディーに思わず聞き入ってしまい、船を惑わすのを諦める事が度々ある。


「今日は・・・船は来ないのでしょうか」

 そのような人間の事情を知らないセレナは、自分の勇気が萎まないうちになるべく小さな船が通って欲しいと思いながら揺蕩っていた。既に明日にしようかなという気持ちに傾きつつも、半分に割れた月を見て気持ちを鼓舞する。


「大きな船は人がたくさんいて怖いから、なるべく小さな船がいいです。今日は波も静かだから眠っているでしょうし、見張りで起きている数人に聞こえるくらいだとさらに良いです」


 誰に注文しているのかわからない希望を独り言で呟く。考え事をしながら流されているのでだいぶ住処の海域から離れてしまった事に気付き、引き返そうとしたと同時。半月の方角に小さな影が現れた。

「・・・船!」


 現れたのはセレナの希望に反し、三百人は乗っていそうな程に巨大な古いキャラック船で、三本の太いマストから垂れ下がる黄ばんだ帆の重みが遠洋航海で幾度となく嵐を乗り越えてきたことを感じさせる。一部だけ注文が通ったのか、船内で起きているのは数人の見張りだけで、殆どは船室で眠っているところだ。


「な、なんですかあの船は・・・この間の船よりも大きいです」

 驚きのあまり口を開けて船が進んでいくのを眺めてしまう。

「神様、ごめんなさい。私にこんな大きな船を操るなんて無理です。いくらなんでもハードルが高すぎます・・・」

 船の大きさにすっかり怖気づいて、自分の運の無さにガッカリするセレナだった。


「リーネはいつか、このような大きな船もまとめて誘惑してしまうのでしょうね」

 もし、この船に乗る全員が身を投げるような事態になれば人間からすればトラウマ事件に、人魚からすれば伝説になるだろう。自分には関係のない将来起こりえるかもしれない妄想を辞めると、セレナは今日のデビューを諦め海に潜り、自分の拠点に帰ろうとする。


 しかし、直ぐに泳ぐのを辞めた。


「あんなところに、岩礁が」


 人魚の目は夜の海中でも十分にシルエットが把握できるほどに優れている。水に潜ったセレナが見たのは船の進行方向丁度の位置に張り出す尖った岩礁だった。海面から顔を出した岩は非常に鋭く、このままでは竜骨を傷つけるかもしれない。気付けば間違いなく避けて通ろうとするだろうが、深夜の見通しの悪さと長旅の疲労で集中力が切れた船員は行動する様子がない。


「だ、大丈夫なのでしょうか、皆さん気が付いていないようですけど・・・人間の技術は素晴らしいと聞きます、きっとこの程度の障害は無視できるのでしょう。でも、もしもあの岩が原因で船が沈んでしまったら・・・どうしましょう。はやく、はやく気付いてください」


 一瞬にしてぐるぐると考え込んでしまうセレナ。そんなことをしているうちに船は徐々に突き上がった岩礁に寄っていく。


「ああぁ、危ない、危ないです」

 慌てて船の周りを泳ぐが背の高い巨船からは近くの海面は見えない。

「お願い、気付いて、気付いてください!」

 水中を生きる人魚の声は空気を振動させることに向いていない。心に直接訴えかける歌声以外の方法で遠くにいる人間に声を届かせることは不可能に近かった。

 セレナは決意した。

「あぁ、これは神様がうじうじと悩む私に無理やりに機会を与えてくださったのですね」


 精一杯のポジティブを絞り出す。人間の命を軽視できない変わり者の人魚だからこそ、目の前の数百人の船人を見殺しにしかねない状況は耐えかねる。セレナの持つ使命感は愛の歌への恥じらいや大人数の乗船への怯えを乗り越えさせた。


「・・・・・・おばあ様。私に勇気をください、どうか私の歌声が船の方々に届きますように」


 ギュッと拳に力を入れ、尖った岩礁に身体を預ける。水中で浮かびながら声を出すよりも安定感のある岩に捕まったほうが張りのある歌声が出しやすい。位置も丁度船の正面で歌声を聴かせるのに適していると判断した。初めて歌うという状況にもかかわらず最適な場所を判断できたのは歌を披露できなかった長期間に何度も何度もイメージしたからだろう。


 大きな岩礁に上半身を寄せる。すぅ、と大きく空気を吸い込んだ。丁度良い温かさの澄んだ空気を肺いっぱいに入れると、まるで自分の身体が人間の世界の混じり合うような感覚に陥る。海の世界に生きる人魚が陸の世界を生きる人間と繋がることが出来る唯一の手段である人魚の歌。


 セレナはこの瞬間、生まれて初めて人間の世界と繋がった。歌ったのは、祖母から貰った「セレナ」だった。


 その旋律は海の中で練習したものと大きく違った音色を奏でたが、セレナ自身でも驚くほどに澄んだ音だった。遠慮気に始まる歌いだしから、段々とのびやかに広がっていくメロディーにありったけの想いを乗せた。


 歌い続ける内に、体中が海から離れて、空気に溶けていくような感覚に襲われた。

 心細く、孤独で、自然と涙があふれてくる。船乗りへの熱い愛情を乗せた歌の筈なのに、セレナはその歌を想えば想うほど何故か切ない気持ちになった。

 初めての体験に興奮で身体が、喉が徐々に熱くなってくるのを感じながら、心は逆に少しずつ冷えていく。アンバランスな体の変化に戸惑いも見せず、さらに高らかに歌い続けた。


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