マッチングアプリには魔術師が潜んでいる
青い絆創膏
第1話 チン道中
画面に現れる女性の顔を次々と右にスワイプしていく。何を考えるでもなく、ひたすら右へ「いいね」。股間に来ない女性は左へ。たまに軽くタップしてその女性の他の写真やプロフィールの文言を眺める。このアプリを始めてから100文字以上の文章を読めなくなったような気がする。右、右、タップ、タップ、右、左、右。まるでリズムゲームのようにテンポ良く軽快に僕の指は動いていく。
3ヶ月前、僕はあまりにも暇を持て余していた。ようやく始まった念願の大学生活、諸々のイベントや出会いはコロナウイルスという感染症によってすべて失われた。無念がすぎる。入学を機に染めた髪はほとんど誰かに見せることなく生え際が黒くなり始めている。今頃本当だったら、彼女とデートとか、サークルで飲んだりとか、友達と旅行とか、してたはずなのに。奮発して買ったFRUIT OF THE ROOMのシャツは、ハンガーにぶら下がって心なしかしょぼくれているように見えた。ごめんな、お前のこと表舞台に立たせてあげられなくて。虚しさ、寂しさ、というか、彼女が欲しいし、いや、本当のこというとセックスがしたい。実をいえば僕は童貞だ。来年には20になる。にも関わらず性交渉をまだ経験していない。これは由々しき事態なのだ。このコロナ禍に甘んじていたら僕はほぼ確実に童貞のまま成人を迎える。大学に入ればセックスをするチャンスがポンポンと巡ってくると思っていたがそんなことはなかった。セックスは選ばれたものの特権だった。高校の頃につるんでいたいつメンの半分はすでにもうセックスを終えていた。奴らは口をそろえて「そんな大したもんじゃねえよ」「焦ることないって、別に」などと言いやがるが、卒業したら奴らには分かるまいよ、この焦燥は。俺のイチモツはまだ使命を果たしていないのだ。一回でもやったやつと、一回もやってないやつじゃ全然違うんだよ。なーにが「お前は余裕がないから童貞なんだよ」だ。余裕がないから童貞なんじゃなくて、童貞だから余裕がないんだよ。そんなにお前には余裕があるっていうなら俺のこの童貞をもらい受けろよ!!なあ!もう一回童貞になれよ!……いや、何はともあれ、このままじゃ俺のチンコが本当に可哀想だ。あぁ、なんたる。この心を慰められるのはセックスしかないような気がする。冷静に考えれば全くそんなことはないし、セックスは何も根本的な問題を解決はしてくれないのだが、とにかく飢えていたその当時の僕は、気がついたら世界で一番ダウンロードされているというマッチングアプリを始めていた。これだ、これさえあればセックスができる。
そう思ったのも束の間。僕はマッチングアプリに金を出すだけ出して何の成果も得られていなかった。親が送ってくれたお金でマッチングアプリに課金し誰とも出会えていない僕、情けない。しかもプロフィール写真がなさすぎて、こっちに引っ越してきた時に親が神社の前で撮ってくれた写真を使ってしまった。本当に、情けないがすぎる。天国でおばあちゃんが泣いているかもしれない。このマッチングアプリは自分が「いいね」をした相手からも「いいね」をされるとマッチングが成立してメッセージがやりとりできる仕組みで、辛抱強く続けて僕はなんだかんだ20人ほどとマッチングした。マッチングしたら「いいねありがとうございます!」と送るようにしていたが、それだとほとんど返信が来なかった。相手のプロフィールに反応して何か話題を振ると返信が来る確率が上がる、と気づいたのは12人ほどとマッチングした時だったろうか。
「サークルとか何やってるんですか?僕まだ何もやってないんですよ〜」
「プロフィールに書いてある芸人さん僕もめっちゃ好きです...!」
少し角度を変えたメッセージを送り試行錯誤していたものの、一向に会う約束はとりつけられない。
「飽きた!!」
似たようなやりとりを散々繰り返し、何人も何人も女性をスワイプし、もはや女性のことを、自分と同じように「各々が個性を持つ知的生命体」だとは認識できなくなっていた。カフェ巡り、読書、お笑い、お酒が好き、散歩が好き、写真を撮るのが好き、音楽が好き、美味しいものを食べたい、友達作りしてます、エトセトラエトセトラ……わかったよ!もういいよ!はいはいはいはい。うるせえよ、お前の好きなカフェも音楽も興味ねえし、上にセックスが可能か不可能か、それだけ記載してくれよ。似たようなプロフィールと似たような写真で目がチカチカし始めていたが、ああ悲しきかな、それでも僕の指はスワイプをやめてくれない。畜生、畜生。そんな時だった。一つのプロフィールが目に留まった。
「このプロフィールが表示されているあなたは選ばれた人間です!願いをなんでもひとつ、叶えてさしあげます」
なんだこの、怪しさしかないプロフィールは。黒髪ショートの美少女がにっこりとこちらに向かってほほ笑んでいる。可愛い。どう考えてもサクラか詐欺か馬鹿にされているかのどれかだろうな。頭では分かっていたものの、僕はもう冷静さを欠いていた。藁にも縋る思いで右スワイプで「いいね」を示す。マッチングしてしまった。僕はもうダメです。
「なんでも願いを叶えてくれるんですか?」
本当になんでも叶えてくれるのだろうか。なんでも叶えてくれるならセックスをさせてほしい。僕はどうしてしまったんだ。こんな怪しさ満載のアカウントに反応するなんて。メッセージは驚くほど早く返ってきて、それで僕は尚更うさん臭さを感じた。
「もちろんです!一度会ってお話しませんか?」
……美人局かなんかだろ、これ。いくらチンコに頭を支配されているからと言ってそんなことまで分からなくなったわけではない。流石の僕でも。いくらセックスしたいからと言ってリスクを冒す必要はない。だったら風俗にでも行ったほうがいい。こんなんで騙される人間がいると思うなよ。
「是非!いつがいいですかー?」
男は時としてチンコに抗えないものである。
三日後、僕はおっさんと駅前の喫茶店で対面していた。「谷田」と名乗る彼は、ニコニコと人のよさそうな笑顔でこちらを見つめている。頭はちょっと剥げている。額はつやつやと光っている。彼はタータンチェックのシャツを着ていて、不思議なくらい良く似合っていた。張り切って一張羅のFRUIT OF THE ROOMのシャツを着てきた僕がバカみたいじゃないか。頼むから時間を戻してくれ。
「よろしくお願いします……」
「こちらこそ!あの……ごめんなさい、いきなり願いを叶えるなんて怪しすぎですよね」
照れたように笑う谷田さん。これがあのプロフィール通りの女の子だったらどれだけ良かったことか。
「いや~……そうですね、ははは」
なんか、もう「なんでプロフィールと違うんですか?」とか聞けない。というか聞くタイミングを完全に逃してしまった。知らんおっさんが来たのに大人しく話を聞いてる僕、どうしちゃったんだろう。帰る勇気がない自分が恨めしい。谷田さんはアイスコーヒーに少し口をつけ、迷うような表情で口を開いた。
「あのですね。信じてもらえないかもしれないんですけど」
「はい」
「私、実は魔術師なんです」
「はい?」
魔術師?僕は思わず谷田さんのことを不躾にジロジロと見つめた。彼の服装、出で立ち、どれをとってもどこにでもいる普通のおじさんだ。それともあれか?童貞拗らせて魔法使いになったとか、そういうのをガチで体現した人?
「魔術師って、本当にいるんですね~……」
アホか僕は。そうじゃないだろ。いねえだろ現代日本で。なんだよ魔術師って。今から僕は何を売りつけられるんだよ。しかし、谷田さんは僕の言葉を聞くととっても嬉しそうな顔をした。
「そうなんです!!信じてもらえますか!」
やっぱりあなたにして良かった~と谷田さんは顔をほころばせる。いやそうですよね、多分僕じゃなかったらすぐ帰ってますよ。
「魔術師といっても私はまだ見習いでして、思うようにまだ魔法を使えないんです。あっ、あのプロフィール写真もね、僕が自分の魔法で変身したやつなんですよ」
あの姿で来ても良かったんですけど、それだと騙すみたいで申し訳ないなって……。と照れくさそうに頭をかく谷田さん。もう既に一度騙してるんだから貫いてほしかった。どこで良心発揮してるんだこの人は。
「それで、すごく失礼な言い方にはなってしまうんですけれど、どなたかに練習台……になってもらえないかな、って」
「え、僕、練習台にされるんですか?」
本当に魔術師かどうかは一旦さておくとして、普通に失礼だなと思った。
「あ!いや、あの、練習台といってもですね、全然危険とかはないですし……」
「はあ……」
全くピンと来ず、思わず曖昧な返事をしてしまう。
「でも、絶対損はさせないです!とりあえず何か叶えたいこととか、ないんですか?」
マジで頭のおかしいおっさんなのかとも思ったのだが、あまりにも必死だし、物腰は柔らかく、話していた印象ではだいぶまともだ。少しは信じてもいいのかもしれない。とはいうものの、目下のところ特に願いらしい願いというのは僕には無い。強いて言うなら今この世界に蔓延するコロナウイルスを撲滅してほしい、くらいのものだろうか。僕がそう伝えると、谷田さんは「ごめんなさい」と謝った。やはり流石に無理難題だったようだ。
「ウイルスとかは、魔法ではちょっと難しいです……」
「…じゃあお金とかは……」
「出来ないことはないですけど、あんまりたくさんお金を発生させると日本の経済が狂うのでちょっと……」
「……じゃあ身長伸ばすとか」
「一時的になら変えられるんですけど、それを恒久的に維持することは出来ないんです……」
何なら出来るんだよ。そんな僕の想いが顔に出ていたのか、谷田さんはバツの悪そうな顔をしている。僕は一体何をしにきたのだろう。こんなおままごとに付き合っている場合じゃないんだけれども。
「あの、なんというかこう、魔法で出来そうなこと言ってもらえたら嬉しいです...例えば透明にしたりとか、時間をちょっと止めたりとか、できますよ」
なんだよそのエロい同人誌みたいな能力。いらんわ。僕はセックスをしたいと言ってはいるものの、あくまで合法的にしたいのであって、抵抗できない状態の人を犯すようなことはしたくないのだ。そんな無慈悲なことできるか。谷田さんはこちらを窺うように見つめている。ええい、ままよ。
「……僕、童貞なんですけど」
「はい?」
今度は谷田さんの方が驚く番だった。元々丸い瞳を更にまん丸にして、谷田さんは僕をマジマジと見つめた。
「童貞なんですよ、僕」
「は、はぁ……」
さらに僕が語気を強めても、やはり谷田さんはよく分からないと言った表情をしている。
「僕はセックスしたいんです。できるだけ合法的に」
「合法的に、というと……?」
「透明になったり時間を止めたりせずに、ちゃんと順を追ってセックスしたいんです」
「えぇ!?私そんなつもりで透明にできるとか言ったんじゃないです!」
「えぇ!違うんですか!?」
谷田さんはブンブンと大きく首を横に振った。本当に違ったらしい。
「いや、すみません……。失礼しました。そういうわけなので、僕の願いは童貞を卒業することなんです」
驚きで口をパクパクさせる谷田さんを無視して、なんとか僕は最後まで言い切った。彼はしばらく放心していたが、やがてスッと微笑んで、
「そうなんですね、分かりました……女の子をちょっとムラムラさせるとか、そういうことはできるので……。全然大丈夫ですよ」
と言った。なんだこの人。もしかして同人誌の世界から出てきた?対性行為特化型の魔術師なの?ていうか、いいんだ。倫理観とか、あんまりない人なんだろうか。
「なんか相手の感情を操作するとか、そういう相手の意思にそぐわないのは、嫌なんですけど……」
「はぁ、そうなんですか」
谷田さんはちょっと困ったような表情を作っているが、「そんなんだから童貞なんだよ」と明らかに顔に書いてあるようだ。さっきまで前のめりだった身体は心なしか後ろの方へ倒れている。
「じゃあお兄さんは、自分から望んで積極的になってくれる女の子と、合法的に性行為がしたいってことですか?」
心なしか言葉の節々に棘を感じる。
「はぁ、まぁ、はい。そうですね」
「無茶言わないでください……」
「無茶ってなんだよ!!」
思わず声を荒げてしまうと、谷田さんはさらに顔を曇らせた。明らかに心の距離は遠のいている。
「じゃあ聞きますけど、お兄さんのどこに女の子をムラムラさせる要素があるんですか?」
遠のいた心の距離のせいなのか、聞き方に遠慮がなくなってきた。
「いや、ムラムラとかは分からないけど……清潔感とかは、ある方だと思う……」
尻すぼみになる僕を見てやれやれ、と言ったような顔をする谷田さん。いちいち癪に触る人だな、ほんと。
「お兄さんはなんというか……うーん、僕が言うのも気が引けるんですけど、ムラッとくるタイプじゃないんですよね」
「言ってくれるじゃん……」
どうしてこんなおっさんにムラッとこないとか言われなくちゃいけないんだ。
「でも、そこで、魔術師の私がお兄さんのことプロデュースします!一緒に華やかな卒業を目指しましょ!」
やたらキラキラした瞳で言っているが、こいつ、恐らく他人事だと思って楽しんでいる。
「私は魔術師ですから、お兄さんのことだって簡単にプロデュースできますよ!」
「なんか面倒くさそうだしいいです……」
「新しいことを始める勇気が無いと卒業できるもんもできませんよ!」
本当にやかましいなこいつ。最初あんなにしおらしかった癖に。僕はそれから何度か断ったのだが、このおっさんは全く折れようとしなかった。仕方なしに承諾したのだが、本当にこれでよかったのだろうか。これが、僕とこの奇妙な魔術師の、まさにチン道中の始まりであった。
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