3章 みんなの夏
第83話 お願い。
「──わたし、師匠が好きだ。だから、わたしと結婚してくれ」
そんな言葉が響いた。風の音しか聴こえない、静かな早朝。蒸し暑くなってきた空気が絡みつくような街角で、黄葉は俺に好きだと言った。
「…………」
けれどそれに、俺はなにも言えない。は? と無様に口を開くだけで、続く言葉を口にできない。
「……なあ、黄葉。それ、本気だよな?」
しかし、いつまでも呆けているわけにはいかない。だから俺は小さく息を吐いて、そう尋ねる。
「バカ師匠。嘘なわけないだろ? わたしはいつだって本気だ」
「……だよな。じゃあ俺も、本気で答えないとな」
覚悟を決めて、黄葉を見る。いくら唐突で脈絡がなかったとはいえ、ここで誤魔化すわけにはいかない。……たとえ、自分の心が定まっていないのだとしても、黙って逃げるのは卑怯だ。
だから、俺は──。
「あ、師匠。師匠の答えは、まだいらないからな」
しかし、黄葉のそんな言葉が出鼻を挫く。
「……いや、なんだよそれ。お前が気持ちを伝えてくれたんだから、俺もちゃんと答えないと……ダメだろ?」
「そうだけど、でもいいの。師匠の気持ちは分かってるから、師匠はなにも答えなくていいの」
「いや、意味が分からないんだけど……」
「師匠はバカだから、分からなくていいの!」
黄葉は赤くなった頬を隠すように、ぷいっと明後日の方に視線を向ける。
「……わたしはさ、ずっと人を好きになるってことが分からなかったんだ。自分だけ子供のままだって、ずっとそう思ってた」
「でもお前は、答えを出せた。そうだろ?」
「うん。師匠のお陰で、わたしもようやくみんなに追いつけた。……でも、師匠は違うだろ? 師匠は多分、わたしよりずっと人の気持ちが……ううん。自分の気持ちが分からない」
「それは……って、いや。もしかしてお前、俺の過去を見たのか?」
「うん。あの神さま……師匠のお姉さんの悪夢を通して、少しだけ見たんだ。だから、師匠。わたしは、知ってる。師匠がどうやって産まれてきて、今までどんな生活を送ってきたのか」
だから俺は、人を愛するってことを知らない。ずっと誰からも愛されてこなかった俺は。ずっと河原で石を投げていただけの俺は。黄葉以上に、愛や恋を知らない。
……いや、知っていた筈なんだ。俺も昔は、いろんな人から愛されていた。けど長いあいだ1人ぼっちだったせいで、そんな簡単なことも忘れてしまった。
「でも、なめんなよ黄葉。俺だっていつまでもガキじゃないんだ。自分の心くらい、ちゃんと分かってる。好きだって言われて惚けるほど、俺は腰抜けじゃないぜ?」
「ならさ、師匠。師匠はわたしたち姉妹の中で、誰が1番好き? もしみんなに告白されたら、師匠はいったい誰を選ぶんだ?」
「それは……」
思わず、言葉に詰まる。……偉そうなことを言っておきながら、そんな簡単なことにも答えが出せない。
「……いや。今は分からないっていうのが、俺の答えか」
それは苦し紛れな言葉かもしれないけど、紛れもなく今の俺の本心だった。
「それはずるいぞ、師匠。そうやって先延ばしにしてたら、いつの間にかハーレム展開になるんだ。わたし、知ってるからな。この前アニメで見たんだ」
「いや、そんなことには──」
「問答無用! 覚えておけ、師匠! わたしはこう見えて嫉妬深いんだ!」
「はい、ごめんなさい」
思わず、頭を下げる。……なんの話をしてるのか、分からなくなってきた。
「……いや、でもさ黄葉。俺の答えが分かってるなら、どうして今……告白したりしたんだ?」
さっき黄葉が言葉を遮らなければ、俺は首を……横に振っていただろう。そして黄葉は、それが分かっていながら告白した。
その理由は、なんだ?
「バカめ師匠。そんなの好きだからに決まってだろ! この好きだって気持ちを、師匠にも知っておいて欲しかったんだ! 今すぐに結婚はできないけど、気持ちを伝えることはいつだってできるからな!」
「…………」
そう言われると、なにも言えない。……いやまあ不意打ちみたいに想いを伝えるのは、ちょっと卑怯だとは思う。
でも、そんなことが気にならないくらい、さっきの言葉は嬉しかった。心臓が壊れるくらい、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
「よし。そろそろ帰ろうぜ? 師匠! わたし、もうお腹ぺこぺこだ!」
黄葉は当たり前のようにそう言って、俺の腕を引いて歩き出す。
「ちょっ、引っ張んなよ。危ないだろ?」
「やだね。これからはわたしが師匠の腕を引いて歩くって、もう決めた。この細い腕は、わたしが守ってやるんだ」
「……細くて悪かったな」
なんて笑い合って、歩く。……黄葉の言葉には驚かされたが、ここから急に関係が変わるなんてことにならなくて、俺は少し安心していた。
「でもさ、黄葉。どうしていきなり、結婚なんだ? 普通は、付き合うところから始めるもんじゃないのか?」
「ん? でも付き合ったあとは、どうせ結婚するだろ? なら先に結婚しておいた方が、手間が省けていいじゃん」
「いや、それは……」
なんていうか、真っ直ぐ過ぎてなにも言えない。黄葉のこういうところは、素直にすごいと思う。
「それより師匠、覚悟しとけよ? わたしこれからガンガンアピールしていくから、悩殺されないように気をつけろよ!」
「お前に悩殺なんかされるかよ」
「む! わたしだって出るとこ出てるんだからな! なめんなよ! ほらここ、見てみろ!」
「バカ! こんな所で、服をまくるな!」
なんて風に騒ぎながら、家へと向かう。……色々と言いたいことはあったが、今はこうやって黄葉とはしゃげることがなにより嬉しかった。
◇
とあるホテルの一室で、その少女はふと目を覚ました。
「ここは……」
灰色の少女は、ボヤけた瞳で辺りを見渡す。身体が重くて、意識がはっきりとしない。まるでつい先ほどまであった翼がなくなったかのように、身体に力が入らない。
「や、おはよ」
そこで隣から、そんな声が響く。
「貴様は……ああ、そうか。妾はこちらの肉体に戻ってきたのか」
そう言って灰色の少女は立ち上がり、そのまま部屋から出て行こうとする。……けれどその背中を、真っ白な女性……姉妹たちの母親である真白が、引き止める。
「待ちなよ。そう急ぐこともないだろ? 当面の問題は解決したんだから、ゆっくり話そうよ? 神さま」
「貴様のことなぞ、知らん。妾は一刻も早く、なずなに会いに行かなければならんのだ。貴様のような女に構っている暇なぞ、1秒たりともありはせん」
「そう? ならいいか。せっかく白白夜の死神ついて教えてあげようと思ってたんだけど、忙しいなら仕方ない」
真白のその言葉を聞いて、灰色の少女は足を止める。
「目的はなんだ? 人間。……いや。貴様、人間か? 貴様の気配はまるで……」
「あはは。流石に神さまは鋭いね。でも、残念。私はただの人間だよ。……ゆりさんやなずなくんよりずっと、強い呪いを受けてるだけでね」
真白が笑う。神は笑わない。今、この状況で戦闘になれば、神はなす術なく敗北するだろう。今の少女の依代は力を使うには脆すぎるし、なにより……。
「大丈夫だよ。今ここで戦うつもりなんてないから」
「そんな目をしてよく言うな、小娘」
「あはは。この歳になって小娘なんて言われるのは、ちょっとむず痒いね。……でもま、戦う気がないのは本当だよ」
真白はゆっくりと立ち上がり、カーテンを開ける。澄んだ朝日が、真白の真っ白な髪を照らす。
「私の愛しい娘たちとなずなくんは、よく頑張ってくれた。貴女の悪夢……天底災禍を壊してくれたし、なによりあの黒い剣を世界の外側に追いやった。これで白を止められるものは、もうどこにもない」
「……貴様。それが目的で、妾となずなを利用したのか?」
少女の瞳に殺意が込める。……けれど真白は、ただ笑う。
「どうかな。でもま、私はあの白白夜の死神の味方じゃないよ? 私だってあれのせいで、人生を滅茶苦茶にされた。それに前回の天底災禍で、私の夫は貴女の悪夢に殺された」
真白が振り返る。その瞳にはなんの色もなく、怒りも悲しみも全く感じられない。
「……貴様の目的はなんだ?」
「それはいくつもあるから、簡単には答えられないな。……でも、今ここで貴女に頼みたいのは1つだけ」
真白は笑う。色のない顔でカラカラと笑って、真白はゆっくりとその言葉を口にした。
「私の娘たちから、なずなくんの童貞を守ってあげて欲しいんだ。あの子たちは恋愛なんてしたことないから、きっと歯止めが効かないと思うからさ」
「…………………………は?」
灰色の少女はポカンと口を開けたまま、しばらく動くことができなかった。
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