第73話 始まり。
闇に意識が消えていく。
灰宮 なずなという人間を構成する全てが、長い長い眠りにつく。
「…………」
俺はそれを、ただ黙って受け入れる。……もう、受け入れることしかできない。身体の感覚は既にない。なんの音も聞こえず、曇った瞳はただ暗い闇を映すだけ。
……ああ、俺は負けたのか。
他人事のようにそう思う。悔しさや怒りなんて感情は、もうとっくに眠りについた。あの神……彼女は最後にとても大切なことを言っていた気がするけど、それももう思い出せない。
俺は、負けた。
この意識も、もうすぐしたら消えるだろう。灰宮 なずなという人間は、あの真っ黒な剣に斬られた瞬間……死んだ。灰宮 なずなを生かしていた全てを、あの剣は断ち切った。
だから後は、眠るだけ。
冷たい冷たい夜に包まれて。死と生の境界を彷徨いながら。俺はただ、眠りにつく。
「…………」
けれどその刹那。その一瞬。遠い過去の夢を見た。灰宮 なずなが決して知る筈のない、全ての始まり。……静かな眠りにつくその前に、見たくもない記憶が脳を過る。
──明けない冬が、お前の魔法だ。
そんな言葉を最後に聞いて、俺の意識は遠い夜に沈んだ。
◇
灰宮 ゆりという、女がいた。
彼女はなずなの母親であり、誰より純粋な女性だった。綺麗な長い黒髪に、冬の夜空のように澄んだ瞳。いつまでも子供のような顔で笑う彼女は、なにかが少し違うだけで幸せになれていたのだろう。
灰宮の家系は、古くから神に仕える一族だった。この土地に住まう、夜を守るとされる神。その神に仕え、その神の眠りを守るのが、何百年も続く灰宮の一族の役目とされていた。
……いや、彼らはそう信じていた。
灰宮の役目は、『夜』を戦う姉妹たちの役目のように本物ではない。彼ら一族のことなんて、神は知らない。彼らに一族に、特別な力などない。彼らはただ、自分たちがそうであると信じていただけ。そして彼らがあまりに自信満々にそう言い張るから、周りの人間もそれを信じてしまっただけ。
……だから。彼らに特別なものがあったとするなら、それは灰色。
彼ら一族は自身に神の血が流れていると信じており、近しい人間と子を残すことでその血を濃く未来へと残した。そしてごく稀に、そんな濃い血から灰色の髪を持った子供が産まれてくることがあった。
彼らはそれを、神の祝福だと信じた。意味のない祈りをし。価値のない供物を捧げ。理由のない灰色を残すことだけが、灰宮という小さく狭い一族の役目だった。
そして、そんな狂った一族に生を受けたのが、灰宮 ゆり。彼女は両親が彼女を産んですぐ死んでしまったこともあり、産まれた時から結婚する相手を決められていた。子を産むことだけを、存在意義として育てられた。
けれどそのゆりも幼い頃から病気がちで、子を産めないかもしれないと言われるほど病弱だった。だから彼女の幼少期は、差別と叱責と暗い期待に染まった、地獄のような時間だった。
しかし彼女は、そんな自分を不幸だとは思わなかった。
だって彼女は、特別だったから。ありとあらゆる意味で、彼女は他人とは違った。身体は弱く運動はできず、勉強も得意な方ではない。けれどどうしてか彼女はいつもテストで100点を取り、体育の成績も良好だった。
どうして? と周りが思っても、彼女が笑えばそういうものだと納得する。魔法なんて使っていない。彼女はなにもしていない。ただ世界の方が、彼女に都合のいい結果を与える。
それこそまるで、神に愛されているかのように。
その眩さに、狂った一族の方が耐えられなかった。彼女の夫となる人間は、彼女が小学生のうちに失踪してしまった。彼女を叱責していた人間は、自ら命を断った。大きくも広くもない灰宮の一族は、そうして勝手に消えていった。
けれど唯一、彼女の祖母だけはそんな彼女に飲まれなかった。
『子を産め。子を残せ。でなければお前に、価値はない』
その言葉は呪いだった。何百年も積み重なった、灰宮という捩れた呪い。灰宮という小さな鳥籠の中で、その言葉だけが彼女の胸に残った。
そして彼女が高校に入学した時。1つの絵に、恋をした。血のような赤で書かれた、風に揺れる一輪の花。おどろおどろしい血と清廉な花が交わったそれは、一瞬でゆりの心を揺さぶった。
こんな絵を描けるヒトは、きっと人間じゃない。
そんな訳の分からない情熱に焦がされ、彼女はその画家の居場所を突き止めた。自分より4つ年上の大学生。吹けば飛ぶほど弱々しい癖に、神のような目で世界を睥睨する冷たい男。
彼女はその男に、恋をした。
理由なんてない。意味なんてない。彼女はその年になって、ようやく理解した。自分はただ、運命という真っ白なレールに乗っているだけ。特別なのは自分ではなく、自分が歩いている道。だから抗っても、意味はないと。
彼女はその男が好きだったから、その男に恋をした。灰宮の人間に、それを止める者はもういない。寧ろ許嫁が消えた今、彼女が誰かと付き合うことは彼らにとっても喜ばしいことだった。
けれどその男……なずなの父親である
そして、数日後。
欠慈とゆりは、付き合うことになった。
無論それに、理由なんてない。白い運命に、そんな瑣末は必要ない。そして事実、時間が経つ度に彼はゆりに惹かれていった。彼女なしでは生きられないと思うほど、彼は彼女を愛していた。……そして、彼女は言った。
子供が欲しいと。
欠慈はそれに、首を横に振った。ゆりは子供を産むにはまだ若く、なにより彼女の身体がそれに耐えられない。……けれど、それでもと彼女は迫った。そうしなければ、自分の人生に意味はないと。……しかし欠慈は、それを拒み続けた。君が元気になってからだと。
そこで初めて、運命が歪んだ。
白い神が用意した運命から、初めて抜け出ることができた。だって欠慈は、ゆりを愛していた。子供より、彼女の身体を優先してしまった。
それから4年後、ゆりが身籠った。
その頃にはゆりの体調も、よくなっていた。……わけではない。寧ろその逆。ゆりの体調は、4年前よりずっと悪化していた。けれどそれでも、ゆりは子供が欲しいと言った。欠慈はそんなゆりに抗えず、彼女の想いを受け入れた。
そして産まれた子供は、彼女たちがなずな名付けた子供は……。
死産だった。
欠慈は己の軽率な行動を後悔し、ゆりを避けるようになった。そしてゆりもまた、存在しない筈の子供を探して深夜の街を徘徊するようになった。
なにもかもが、狂いだした。
血筋とは関係なく特別だったゆりと、また同じように特別だった欠慈。その2人の子供は、白い死神の依代になる筈だった。……けれどそれはもう、叶わない。彼女の計画は失敗した。
……けれどそんな時、ゆりはなにかと出会った。
『明けない冬が、お前の魔法だ』
深夜の徘徊を終えた、静かな朝。彼女は1人の子供を抱いて、家に帰って来た。そして驚愕と恐怖に目を見開く欠慈に向かって、彼女は花のような笑顔でこう言った。
「私たちの子供……なずなを、見つけたよ」
灰色の髪をした赤子は、痛みを叫ぶように大声で泣いた。
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