第69話 夜が覆う。



 月を背にして、少女が笑う。



「──はぁ」



 心底から不快げに。この世の全てに苛立ったように。黄葉の身体に詰まった神が、人の世の愚かしさと少女たちの儚い希望を笑う。



 この少女は、黄葉ではない。



 もうとっくに、姉妹たちの全員がそのことを理解していた。……けれどそれでも、身体が動かない。身を締め上げるような神威と、目の前の不可解な現実が少女たちの身体を凍らせる。



 でも1人、既に冷静さを取り戻していた少女がいる。



「…………」



 無論それは、青波だ。彼女は音も気配もなく、魔法を発動させる。視界に収めたものならなんであれ消滅させる、青波の魔法。それを大切な姉妹と同じ形をした存在に、躊躇いなくぶつける。


「貴様は相変わらず、容赦がないな。……しかし、それはもう何度も見た」


 夜の闇が溶ける。天底災禍が吐き出し続けた暗い闇が、青波と神の間に広がる。青波の視界から、神が消える。


「藍奈! 手加減なしで、お願い!」


「分かってるよ!!」


 藍色が、夜を照らす。青波の視線を遮るように広がった闇を、藍色の光が消し飛ばす。



「まずは、1人」



 けれどそこに、神の姿はない。闇で視界を遮った一瞬。瞬きする暇もない、1秒と1秒の隙間。そんな刹那に、神は青波の背後に移動し、重くて深い闇を解き放つ。


「か、はっ……!」


 青い星が、地に落ちる。誰より強く誰より眩い星が、誰より早く地面に落ちる。


「──! なにやってるのよ、あんたは!」


 赤音が魔法を発動する。夜を燃やす、真っ赤な炎。全てを燃やす赤音の炎が、神に迫る。


「……嫌な炎だ。しかし、この程度では──」


 そこで神に、影が差す。……人形だ。紫恵美の魔法で操った巨大なゾンビの人形が、赤音の炎を囮にして空に立った神をたたき落とす。


「なにがなんだが分かんないけど、お前が黄葉じゃないことは分かった。ならボクらのやるべきことは、黄葉からお前を追い出すことだ!」


 神が地に落ちる。神と言えども意識の外から圧倒的な質量を叩きつけられれば、地に落ちるしか術はない。


「今だ! 橙華ねぇ!」


「分かってるよ、しえちゃん!」


 橙華が操る蜘蛛の大群が、一斉に白い糸を吐き出す。


「この程度……!」


「させません!」


 それを緩慢な仕草で打ち払おうとした神を、緑の風が押さえつける。


 少女たちと神では、天と地ほどの力の差がある。……けれど弱い力も合わせれば、神をも穿つ槍になる。


「……ちっ」


 蜘蛛が吐き出す糸が、神を拘束する。糸の上から更に糸を絡みつけ、それを蜘蛛の大群が覆う。大切な姉妹である黄葉に、けれど少女たちは一切の加減をしない。



 ……だって、ダメだと思った。



 このままでは黄葉も自分たちも、全てまとめてダメになる。そんな強い予感が、少女たちの頭から手加減という言葉を消し去った。





 ……けれど神は、そんな少女たちの本気をたった一言で否定する。



「──煩わしい」



 闇が、広がる。



 天底災禍とは比べ物にならないくらい、少量の闇。先程までの闇が海なら、それは静かな湖だ。闇が静かに、夜に広がる。


「なん、で……」


 たったそれだけで、蜘蛛の大群も真っ白な糸も全てまとめて消える。何年も苦しみ続けたなずなの悪夢が、いとも簡単に消え去った。


「さて、これで2人目」


 そして、神の姿も消える。


「きゃっ!」


 いつの間にか背後に移動していた神に蹴られて、橙華が遠くに吹き飛ぶ。


「橙華ねぇ!」


 そう叫び、紫恵美が神に迫る。……けれど紫恵美の魔法は、接近戦に向いていない。普段の紫恵美なら、その程度のことを忘れたりしないだろう。けれど、立て続けに2人の姉妹がやられて冷静でいられるほど、紫恵美は大人ではなかった。


「3人目」


 故に容易く吹き飛ばされた紫恵美は、夜の街へと落ちる。


「あとは……」


 そして神はそのまま、残った2人を睨む。


 赤音と緑。あれだけ勇敢に『夜』を戦っていた少女たちは、あっという間に2人になった。青波も、橙華も、紫恵美も。たった一撃で、立ち上がれない程のダメージを負った。


「よくもみんなを……!」


 緑は怒りに任せて、腕を振り上げる。……けれど赤音は、それを止める。


「待って、緑」


「どうして止めるんですか! 赤音姉さん!」


「……このままじゃ勝てないからよ。緑だって分かってるでしょ? あの青波姉さんですら、たった一撃でやられたのよ?」


「でもじゃあ、どうすればいいんですか……。あんな化け物に、どうすれば勝てるって言うんですか!」


「…………」


 赤音はその問いに答えず、なにかを覚悟するように小さく息を吐く。そして真っ直ぐに神を見つめたまま、言う。


「私に合わせて。今から私の全てを使って、あの神を燃やす。あの子が黄葉だってことも忘れて、全ての力であいつを燃やす。だから緑も……お願い」


「それで……いや、分かりました。なら私も、加減はしません」


 赤音の真っ直ぐな瞳を信じて、緑はもう一度手を前に突き出す。赤音は変わらず、赤い眼光で神を睨む。


 時が止まったような、集中力。肌を刺すような、真っ直ぐな視線。なにより重い、ひたむきな心。


「…………」


 それになにかを感じとったのか。神の少女は足を止め、待ち構えるように2人を見上げる。


 冷たい夜風が、神と人の合間を駆ける。濡れたような月光が、少女たちの頬を白く染める。そして一瞬の間を置いて、風が止んだ。



「燃えろ!!!」



 赤音の魔法が、発動する。月夜を染める深紅の業火が、神に迫る。


「私だって……!」


 そしてその炎に燃料を加えるように、緑の風が赤い炎の背中を押す。



『夜』には血が、流れない。



 けれど痛みは、存在する。一切の外傷を負わずとも、心は痛む。心を魔法に変える少女たちは、一定以上のダメージを負うと魔法を使えなくなってしまう。



 そしてそれは、神とて例外ではない。



 迫る炎は、今までの魔法とは違い神をも燃やす熱がある。赤音と繋がっている夜が、神に向かって牙を向く。そこには確かに、神の痛みがあった。


「────」


 赤緑の業火が、神を燃やす。纏った闇もろとも、月より眩い炎が夜を燃やし尽くす。






 ……けれど、ああ。声が、響いた。



「……やはりそこの小娘だけ、力の質が違うな。嫌な夜が混じっている。妾の悪夢から抜け出せたのも、その力のお陰か」



 炎の中から、神が姿を現す。神の神威は、微塵も衰えてはいない。……どんな力を使って、どうやって身を守ったのか。2人にはもう、それすら分からない。


「そんな……」


「……うそ。こんな、のって……」


 力を使い果たした緑と赤音は、そんな言葉をこぼすことしかできない。


「恐ろ、小娘ども。頭を垂れろ、人間ども。妾は神だ。貴様ら愚鈍の上に立つ、天を統べる夜だ」


 そんな言葉が、響いた。響いたと思った瞬間、視界から神が消える。


「4人目」


 緑が、夜の闇へと消える。


「くっそぉ!」


 赤音はそれでも諦めず拳を振るうが、それが神に当たることはない。


「どうやら貴様は、特別のようだな。力の本質が、他の小娘どもとは違う。……けれど神の前では、意味がない。……5人目」


 夜が静寂に包まれる。風も、人々の喧騒も、なにも聴こえない。なにもかもがなくなってしまったように、夜から音が消える。


「……本当に貴様らは、愚かだ。妾に勝てないことなど、初めから分かっていたであろうに」


 蜘蛛の悪夢。鯨の夜。山羊の残滓。そして、落ちた神の闇。それら全てを、柊 黄葉という肉体に押し込んだ。故にここに、真に超常なる存在が誕生した。



 そんな存在に勝てる道理など、どこにもありはしない。



「…………」


 神はゆっくりと、空を登る。その姿は月すら頭を垂れるような、圧倒的な力に満ちている。



 ──そして月が、陰る。



「安心しろ、小娘ども。妾は貴様ら人間を、滅ぼすつもりなどない。妾はもう知っている。そんなことをしても、意味はないと。……それではあの白白夜と、同じだと」


 故に神は、宣言する。


「妾が貴様らを救ってやる。血を流すしか能のない貴様らに、静かな眠りを与えてやる。目を離すとすぐに死んでしまう愚かな貴様らを、妾の夜で抱きしめてやる」


 月がゆっくりと、黒く染まる。逃げ場も救いも、どこにもない。


「あと数刻で、妾の『夜』が世界を覆う。そうなれば、もう誰も傷つくことはない。もう誰も血を流さずに済む。……故に愚かな貴様らは、ただ眠れ。永劫の夜を、静かに眠り続けろ。それが神が課す、この世の理と知れ」


 その一方的な宣言を、もう誰も止められない。少女たちは辛うじて意識を保てているが、立ち上がる力は残っていない。戦う力なんて、もう欠けらもありはしない。



 だからこの世は、『夜』に飲まれる。



 永劫の夢が、人々を苦しみから解放する。万年の時を血と苦しみで嘆き続けてきた人々の歴史が、神の手によって終わりを告げる。



 それを遮る者は、もうどこにもいない。


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