第64話 行こう。
「……ふぅ」
皿洗いを終えた俺はリビングのソファに腰掛け、小さく息を吐く。
今日は久しぶりに、綺麗に晴れた。あのうるさいだけの雨は鳴りを潜め、眩いくらいの太陽が部屋に差し込む。
「いい空だ」
そんな澄んだ青空を見ていると、不思議と心が軽くなる。
いよいよ今夜、『夜』が始まる。1週間もあった時間はあっという間に過ぎ去って、天底災禍との戦いが幕を開ける。
「神の弱点を知って、みんなの心をなんとか支えて、青波さんも目を覚ました。これなら絶対に、勝てる」
自分に言い聞かせるような言葉。けれどそんな暗示をしなくても、俺はもう揺らがない。
「……もう、そろそろかな」
ちらりと時計を確認してから、もう一度空を見上げる。暖かな日差しが、心地いい。
昨日俺は、青波さんに抱きしめられたまま昼頃まで眠ってしまった。眠った時間が遅かったというのもあるけど、それくらい青波さんの胸の中は温かくて心地よかった。
そして俺が呑気に眠っている間、青波さんとみんなは話をしていたようだ。内容は無論、天底災禍と神について。青波さんは長い間、眠っていた。無論、藍奈からある程度の話は聞いているのだろうけど、それでも一緒に戦うみんなとの情報共有は必須だ。
昼過ぎに目を覚ました俺がリビングに行くと、真剣に話をしているみんなの姿があった。とても空気が、ピリついていた。俺が青波さんと一緒に寝ていたことに誰もなにも言わず、しんとした空気が肌を刺す。
けれどそれは、雰囲気が悪いというわけではない。寧ろその逆だ。緑姉さんも紫恵美姉さんも橙華さんも、前みたいに取り乱すことなく、戦いの為に自身を研ぎ澄ませていた。
そんなみんなの姿を見て、俺は思った。俺の役目は、もう終わったのだと。
「できることはやった。100点満点とはいかないけど、それでもできることはやれた筈だ」
きっと天底災禍は、前の『夜』の時よりずっと力を増している。確証はないが、準備を進めていたのは自分たちだけだと思うのは、甘い考えだろう。
けれど俺たちも、負けてはいない。黄葉が闇に飲まれた直後よりみんなの心は安定しているし、神の弱点も思い出すことができた。
「青波さんはああいってくれたけど、たとえあいつを殺すことになったとしても、ここで絶対に終わらせる」
そう呟き、けれどその言葉とは反対のことを夢想する。黄葉と一緒に姉さんもこの家に帰って来て、みんなで幸せに暮らす。そんな眩い光景を、想像する。
……すると背後から、声が響いた。
「なずなくん。そろそろ、いいかな?」
振り返る。橙華さんが覚悟を決めたような目で、こちらを見つめていた。
「そうですね。じゃあ、行きましょうか」
ゆっくりと立ち上がり、自室に向かって歩き出す。
「……辛い役目を押しつけて、ごめんね」
背後を歩く橙華さんが、そう小さく呟く。
「構いませんよ。それで少しでも勝率が上がるなら、喜ぶことはあっても文句なんて1つもありません」
藍奈が俺を拒絶した以上、俺はみんなとは戦えない。だから前回までと同じように橙華さんに催眠をかけてもらい、悪夢を使ってみんなの援護をする。
それは前から、決めていたことだ。けれどそれでも橙華さんは申し訳なさそうに、頭を下げてくれる。
「……どうする? 眠る前に、みんなと話しておく? それくらいの余裕は、今のみんなにはある筈だよ?」
「いえ、辞めておきます。もう伝えられることは伝えたし、あとは黄葉を助けてからゆっくりと話すことにします」
「……そうだね。その方が、いいよ」
自室の扉を開ける。冷房が効いた、心地いい空気。俺はそれに安堵するように、息を吐く。……するとどうして柔らかな感触が、俺の身体に押しつけられる。
「…………」
橙華さんが俺に、抱きついた。縋るように……ではなく、慈しむように俺を抱きしめて、けれどそのままなにも言わない。
「…………」
だから俺も黙ったまま、橙華さんの背中を抱きしめる。
思えばこの1週間で1番そばにいたのは、橙華さんだ。橙華さんは唐突に自分に催眠をかけていたと言って、それから一緒にデートをして色んなことを話した。
橙華さんは俺が思っていたような、ふわふわとした人ではなかった。誰だってそうなのかもしれないけど、橙華さんの胸の内は冷たい棘で覆われていた。
だから──。
そこで、柔らかな唇が俺の頬に押しつけられる。
「────」
あの雨の時と同じような、長いキス。唇の形や柔らかさを刻み込むように、優しく強く唇が触れる。
「……ふぅ。なずなくん。全部終わったらさ、また一緒にデートしようよ。それで今度は唇に、キスしたい」
「……初めては、相手の方からして欲しいって言ってませんでした?」
「理想よりも現実の方がいい場合もあるの。……だから、頑張ろうね?」
えへへ、と照れたように笑う橙華さん。……きっとその胸の内は、今も冷たい棘で覆われているのだろう。
それでも彼女は、笑った。だから俺も、笑う。
「じゃあ、いってらっしゃい。橙華さん」
「うん。おやすみ、なずなくん」
俺はベッドに横になり、目を瞑る。橙華さんはそんな俺の額に手を置いて、魔法を発動する。
「…………」
意識が、溶ける。聴こえない筈の雨音が響き出し、辛いだけの悪夢が俺に向かって手を伸ばす。
そんな中、声を聞いた。
──待っていたよ、なずな。
その声を聞いて、俺はようやく思い至る。この1週間が、誰の為にあったのか。真白さんが俺に、なにを求めていたのか。
けれど今さら気づいても、もう遅い。……いや、いつ気がついていたとしても、できることなんてなにもなかった。
だから俺は、悪夢に落ちる。
……みんなの勝利を、心から願いながら。
◇
白い満月が照らす、澄んだ夜。少女たちは各々の勝負服……といっても、動きやすく気に入った服に着替えて、家を出る。
時刻は夜の9時過ぎ。まだ『夜』は始まっていないが辺りに人影はなく、街は死んだように静かだ。
「雨、止んでよかったね」
普段となにも変わらない様子で、青波が笑う。
「そうね。紫恵美姉さんの魔法なら雨を止めることくらいできるけど、そんな無駄したくないものね」
そんな青波に、赤音が言葉を返す。
「それより紫恵美姉さんも、一緒に来るんですね。紫恵美姉さんの魔法なら、家の中からでも戦えるのに」
緑は不安そうに、紫恵美の方に視線を向ける。
「そりゃね。出来ればボクも家で戦いたいけど、いざって時に駆けつけられないと困るしね」
「でも誰かがなずなくんのそばにいてあげた方が、いいと思うんだけど……」
そんな橙華の言葉を、赤音が笑う。
「大丈夫よ。あいつはそんなに柔じゃない。寧ろ、自分のせいで私たちの足を引っ張る方が、嫌な筈よ」
「……そっか。そうだよね。なずなくんは、そういう子だもんね」
橙華も笑う。その瞳にはもう、一切の迷いがない。
「帰ったらなずなを、褒めてあげましょう。いっぱい美味しいものをご馳走して、みんなでよしよししてあげましょう」
「ふふっ。それは凄く、楽しそうだ。……さて、みんな準備はいい?」
その青波の言葉に応えるように、白い月が暗い影に覆われる。街を包み込む夜の闇が、その深みを増す。
そして空からガラスが割れるような音が響いて、闇色の夜空にヒビが入る。
「今度こそ、絶対に勝つ!」
赤音のその言葉を合図に、皆が夜を駆ける。
そうして、少女たちの戦いが始まった。
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