第54話 またしようね?



 激しい雨音が、ただ響く。



「────」


 夜の闇が溶け出したような憂鬱な雨が、小さな池を叩きつける。雨に濡れた身体から、徐々に体温が抜けていく。激しい2つの心音と、柔らかで温かい唇の感触だけが俺の心を支配する。



 橙華さんが俺に、キスをした。



 雨に濡れた冷たい身体を押しつけて。ドキドキと心臓を高鳴らせ。逃がさないというように俺の身体を抱きしめながら、俺の頬にキスをした。


「…………」


 ……そう。橙華さんは俺のキスをした。そしてどうしてか、キスをしたまま離れない。まるで自分の体温を焼きつけるように、熱い唇が俺の頬に触れ続ける。


「…………」


 振り払うことなんてできないし、かといって自分から橙華さんを求めることもできない。だから蕩けるくらい柔らかな唇が、ずっとずっと俺の頬に押し当てられる。



 雨に濡れた、艶やかな髪。柔らかで冷たい、胸の感触。ほのかに漂う、柑橘系の香り。薄らと透けて見える、オレンジ色の下着。



 今までにないくらい、橙華さんを意識してしまう。


 

 ただ唇が頬に触れているだけなのに、指先1つ動かすことができない。……言わなきゃならないことがある筈なのに、なにも言えない。それくらい橙華さんの唇は柔らかくて、なにより……気持ちいい。


「……ふぅ」


 そしてようやく、橙華さんの唇が離れる。もう橙華さんのことしか考えられなくなるくらい長い時間が流れて、柔らかな感触が頬から消える。


「……頬なんですね」


 ほとんど無意識に、そんな言葉が溢れる。


「ふふっ。唇にして欲しかった?」


「別に、そういうわけじゃないです」


「そんな可愛い顔しても、唇にはしてあげないよ? だってあたし、ファーストキスはするんじゃなくてして欲しいって思ってるから」


 橙華さんは、笑う。過去の話をしていた時とは別人のように、とても晴れやかに彼女は笑う。


「だからこれからね、毎日なずなくんの頬にキスするの」


「……毎日、ですか?」


「うん」


 橙華さんは頷いて、さっきまで自分の唇が触れていたところに指を這わせる。


「ここにね、あたしの唇の感触を刻むの。寝ても覚めても、あたしのことしか考えられなくなるくらい。何度も何度も、キスをする」


 橙華さんは熱い吐息を吐いて、言葉を続ける。


「それで我慢できなくなったなずなくんは、突然あたしの部屋にやって来て言うの。『橙華さんが、悪いんですよ』って。そしてそのまま強引にあたしを抱きしめて、あたしの唇に……キスするの。それがあたしの、理想」


 橙華さんは、真っ直ぐに俺を見る。その瞳はまるで夢でも見ているかのように、ふわふわしていて現実感がない。


「…………」


 そんな橙華さんの瞳を見て、俺はようやく気がつく。橙華さんがどんな催眠を、自分にかけていたのか。橙華さんが一体、なにから逃げ出していたのか。


「黙り込んじゃって、どうかしたの? なずなくん。……もしかして、もうこの唇が欲しくなっちゃった?」


「はい」


 冗談めかして笑う橙華さんに、俺は真剣な瞳で言葉を返す。


「……ちょっ、え? ……冗談だよね? なずなくん……」


「橙華さんが悪いんですよ」


 橙華さんの華奢ない身体を、強引に引き寄せる。橙華さんはそれに対抗することなく、顔を真っ赤にしてぎゅっと強く目を瞑る。



 だから俺はそのまま、橙華さんにキスをした。



「────」



 ……いや、違う。



 俺はそのまま、橙華さんのキスをした。



「……なずなくん。場所、違うよ?」


「いえ、これであってます」


「…………もしかして、あたしのことからかってる?」


「かもしれませんね」


「乙女の純情を弄んだなー! このこの!」


 橙華さんはまた顔を真っ赤にして、俺の胸を叩く。


「……でもいいや、頬でも。なずなくんからキスしてくれて、嬉しかったし。……やっぱり、自分でするのとは全然違うね? なずなくんの唇の感触が、まだ頬に残ってる」


「……俺の頬にも、橙華さんの唇の感触が残ってますよ」


「お揃いだね」


 橙華さんが俺を見る。柔らかな雰囲気を打ち払って、真剣な表情で俺を見る。


「ねぇ、なずなくん。なずなくんは、こんなわがままなあたしでも認めてくれるよね? 他の誰がどれだけあたしを嫌っても、なずなくんだけは……ずっとあたしの側にいてくれるよね?」


 真っ直ぐで、でもどこか縋るような橙華さんの瞳。その瞳を見ていると、ここで頷いてしまいたくなってしまう。……でも、それだと意味がない。それだとただ、繰り返すだけだ。


「橙華さん。橙華さんはさっき、言いましたよね? 橙華さんと俺は、同じだって」


「……うん」


「違いますよ。貴女と俺は、全く違う人間だ」


 雨がまた、激しさを増す。俺は淡々と、言葉を続ける。


「橙華さんは催眠という魔法を使って、辛い現実から逃げ出した。……でも俺は、逃げ出すことすらしなかった」


 父親が死んだ時。俺を殴って笑うあの悪魔が死んだと聞いた時。やっと終わったと、俺は思った。もう誰も、俺を傷つけない。長い冬は、ようやく終わったのだと。



 でも、そうではなかった。



 次の家でも、また殴られた。次も次も、その次も。どこに行っても理不尽は続いて、どこにも俺の居場所なんてなかった。逃げる場所なんて、どこにもありはしなかった。


「……なずなくんは、逃げ出したあたしと一緒にしないでって言いたいの?」


「違いますよ。俺はただ、当たり前のことを言ってるだけです。俺と橙華さんは違う人間だし、もちろん姉妹のみんなとも違う人間だ。だから生きてれば喧嘩することもあるし、ムカついて嫌いになることもある。


「……なずなくんは、強いね。でもあたしは、そんな風にはなれないよ」


「じゃあ、黄葉のことも忘れるんですか?」


「…………」


 橙華さんは、答えない。雨音が、ただ響く。


「橙華さん。俺は貴女と一緒に堕ちることはできないし、貴女の言い訳になるつもりもない。俺は催眠なんてなくても、もう助けてもらってるから」


 俺の明けない筈の冬は、赤音ちゃんが終わらせてくれた。また新しい冬がやってきたのだとしても、その事実は変わらない。



 だから



「だから今度は俺が、橙華さんのヒーローになります。ずっとそばにはいられないし、一緒に催眠にかかることもできない。でも貴女が本気で困っているなら、絶対に俺が助けてみせます。……それじゃ、ダメですか?」


「……うん、ダメ。だってあたしは、みんなと違うから。なずなくんとも、違うから。きっといつか、あたしは1人になる。本当のあたしは──」



「たとえ本当の橙華さんがどんな橙華さんでも、こうやって胸を押しつけながらキスしてくれたら、俺はなんでも許しますよ」



 俺はただ、笑う。戯言のような言葉を口にしながら、胸を張ってただ笑う。


「……この、女ったらし」


 怒ったように笑って、橙華さんの腕に力がこもる。心臓が、高鳴る。


「なずなくん、ドキドキしてる。……そんなに、あたしの胸が気になるの?」


「……まあ、ほどほどに」


「ふふっ、男の子だね。……あたしはね、なずなくんの鎖骨が気になる。ゴツゴツして白くて綺麗で、思わずキスしたくなっちゃう」


「それは流石に、辞めてください」


「……じゃあ代わりに、頬を出して。そしてたらあたし、頑張れるから。嫌なことを抱えたままでも、ちゃんと頑張るから。……だから、お願い」


「…………」


 雨は止まない。見上げる空は、どこまで行っても厚い雲に覆われている。きっと明日も明後日も、激しい雨が降り続けるだろう。



 そしてきっと俺は、雨を見る度に思い出す。



 ──この温かな唇を。



 雨は止まない。だから俺たちはただずっと、抱きしめ合う。夜になって雨に濡れながら家に帰るまで。俺たちはただ、幸せなデートを続けた。


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