#78 物語と人生を、愛と別離を

 消灯した部屋で横になってから、私は先ほどの花織かおりさんの言葉について訊ねた。

「あの。お二人が別れるかも、というのは?」

「う~んとね……」

 躊躇いつつ、灯恵ともえさんは答える。

「私は心から花織を愛しているよ。ただ、親になりたいって夢を捨てきれないの」


 同性カップルならでは――いや、今時は男女でもすれ違いの元になりそうな葛藤だった。

「その願望は分かるんですが……いいんですか、彼女の前で明言してしまって」

 くすり、二人分の笑い声。

「花織に隠し事はしないって決めてるから」

「灯恵をお母さんと呼ぶ子供がいたら良いって、私も思うんです」


 二人とも、十分に話し合って納得しているようだった。私は納得できていないが、ひとまず灯恵さんの話を聞くことにする。

「今までに出会った人の……いや、この世界で生きている人の中で。一生一緒にいたいって思えるのは、花織だけだよ。どんなに優れた人にも、花織は負けない。

 けどね。それとは全く別の軸でね。我が子っていう存在にはどうしても惹かれるし、子供を持たない人生をきっと後悔しちゃうんだ。出産のタイミングとか考えると、その答えをあんまり先延ばしにもできないし」


 あくまで穏やかに、淡々と、灯恵さんは語る。親切で出来た人だと前から思っていたが、その本質は。

「灯恵さんは……冷静ですよね。ちょっと、怖いくらいに」

「器用すぎるのは自覚してるよ、やりたい事よりもやるべき事を優先できるって言うのかな。そして私にとってやるべきだと感じられることは、誰かに必要とされることで……この子には私が必要だって思えたから、私はこんなに花織のそばにいる。

 けどさ。必要とされること、自分の意味が感じられること、その究極は。子供にとっての親かなって」


 必要とされたい、頼られたい。そうした感情なら、私も人並み以上に持っている。高校まではもっと強く抱いていた、けれど。

「……灯恵さん、男性を好きになったことは」

「恋したことはないし、これからも無いんじゃないかな。ただ、子供を育てるバディとして信頼しあうことはできると思うし、その積み重ねを愛情と呼んでもいいと思ってるよ」


 灯恵が語る在り方は、かつて希和が夢見ていたであろう道とも重なる。その希和に夢を託していた私の気持ちも、思い出してしまう。

「そういう絆も素敵だとは思いますよ、けど……良いんですか? 一番大事な人が、一番そばに居ないのが」

「良くないよ、今は。今は花織のことが何より大事、花織が自分を愛せるように私の愛を注ぎたい」

 灯恵さんの言葉を受けて、花織さんも語る。

「今は生きていくためにお互いが必要で、けどそれは……ある種の共依存って言うかな、ずっと続けるべき関係じゃない、いつかは卒業するべき関係だとも思うんです。灯恵は親になって、私は一人でもちゃんと生きられる大人になって、けど心の底でずっと大切に想い合っている……そういう親友になるのが、良い形なのかなと」


 心はざわついたままだけど、私は考えをまとめて問いかける。

「そうやって別々の道を生きていく未来にとって、和くんの小説が希望になる、と?」

 花織さんは肯定した。

「はい。一緒はいられなくなった後にも、一緒にいた意味はつながるんだ……という物語だと受け取ったので」


 二人の描く人生の形は、確かに二人の信条に合致している。お互いに納得しているなら、外から口出しするのも野暮だろう。それは理解できている、けれど。 

「……心から愛せる人と出会えたなら、お互いに生きているなら。手を放したらダメだって、私は思いますよ」

 その先は失礼すぎるだろうと分かりつつ、私は続ける。

「そうやって余裕を持って冷静に判断できるのは、お互いが生きているからじゃないですか。もし会えなくなったら、ずっと後悔しませんか」


「うん、そうだね」

 灯恵さんが答えた。

「花織が死んじゃったら、物凄く後悔するかもしれない……それでもね。最愛の人と死別して、何度も後悔して寂しがった先で、また大事なモノに出会う道を。私はもう、知っているから」

 灯恵さんの初恋の人である親友、ナオちゃん。死別からの十年間、灯恵さんが抱え続けた喪失。

「……そうでした、ごめんなさい」

「良いの、心の痛いところをつついているのは私たちだから」


 息を吸って、流れの整理。

「つまり灯恵さんは。自分が歩んできた道を、私のこれからに重ねているんですね?」

「うん。私たちの気持ちが同じだなんて言うつもりはないけど、どうしても紬実ちゃんには重ねたくなるの。少しだけでも心を未来に向かせることも、私にできることだと思うから」


 私を助けたいと、灯恵さんはいつも語っている。喪った過去を相対化することが心の前向きさにつながる、という方向性も間違ってはいない――むしろ正しいのだろう。

 そこまで納得したうえで、私は正直に答える。

「けどやっぱり……和くんよりも大事なモノなんて、生きるよすがなんて、見つかると思えないですよ。彼と分け合った時間の延長線だけが、私の歩ける道です」


「うん、今はそうだよね」

 灯恵さんの返答、半分だけの肯定。

「私もね。ナオちゃんが亡くなってすぐの頃は、本気で何かに夢中になれることなんて一生無いと思ってた。これからずっと、何をやっても不幸から逃げられない人生になるんだと思ってた。

 けど。確かに『その先』はあったよ。誰より愛しい人と別れた、その後に。紬実ちゃんにも、いつかやってくるから……何かは見つかるし、誰かは見つけてくれる」

 灯恵さんの言葉に、花織さんも同調。

「それに……マグペジオのブレノンも、和枝さんも。恋や夢が叶わなかった『その先』に希望を見いだしていたと、私は受け取りました」


「ええ、灯恵さんの経験は心強いですし、花織さんの解釈も同意です。けど、」

 心をなぞる、言葉を探す。希和への想いが薄れることを、自分はどうしてこんなにも嫌がるのか。

「……和くんはずっと、恋という軸で、自分よりも他者を優先してきた人だから。その軸で彼を最優先にできる人が、いなくなったら嫌なんです。せめて私は、誰のことよりも彼を愛していたい……そうじゃないと納得がいかないから、彼を忘れていくことが許せないんです」


「そっか、」

 しばらく間を置いてから、灯恵さんは言う。

「ねえ、紬実ちゃん。希和さんのことを覚えていたいって気持ちは、私に否定できないよ。けどね、希和さんを忘れていく自分のことは、許してあげて。君が自分を責めることは、誰のためにもならないから……私も、忘れる自分を受け容れて、ここに居るから」

「……分かりました。義務感とか使命感とか、そういう感情とは距離を置くようにします」


 宣言しつつも。彼を愛し続けるという使命に私は縋りたがっているのだ、という実感は一層深まった。脳機能の都合で彼を忘れてしまうことはあり得るけど、今の私にはそれすらも怖かった。

「それにきっと和くんだって、友達には前を向いてほしいって思うでしょうから……ずっと過去に囚われているのは、彼に悪いです」

 自分の口が語った正論とは裏腹に。君のいない方向を「前」だなんて呼びたくないんだ、という本音は喉の奥で暴れている。


 どんな大事な人に何を言われても、私の希和への執着は揺るぎそうになかった。どれだけ私に心を寄せてくれる人でも、この執着の深さは理解できないのだろう。理解してほしい、と願うことが危ういほどだ。

 それでも。理解はされ得ないとしても、大事であることには変わりはないのだ。共に過ごす時間は幸せだし、幸せなものにしたい。そうして幸せを集めていけば、希和への執着に釣り合うくらいの財産になるかもしれない。

 詩葉たちが私に寄せてくれる「幸せになってほしい」という願いの叶え方が、少しだけ見えてきた気がした。


 浮かんだ思考をまとめつつ、声に出していく。

「きっと私にとって、人ひとりを愛するという軸では、和くん以上の人は見つからないと思います。けど和くん以外にも、大事な人はたくさん居ます。その人たちと嬉しいことをたくさん分け合えたら……今よりもっと幸せな人生には、なれそうじゃないですか」

 だから、この人たちと過ごすこの時間に、眩しい温もりを。

「なので、とりあえず今は……明日何して遊ぶか話していいですか?」


 強引な話題転換、暗闇の中から明るい笑い声。


「雑学クイズ大会とかどうですか、紬実さん好きでしょう」

「大好きですよ、花織さんとは良い勝負ができそう」

「活字中毒コンビに私は太刀打ちできないってば!」



 翌日。昨夜のヒリヒリとした空気は嘘のように、三人でめいっぱい遊んで過ごした。この人たちと過ごす時間が好きだ、その幸せを噛みしめられた。

 けど、どうしても、その度に。ならばこの人たちにも希和は出会って欲しかった、と思えてならない。歓喜と寂寥は、呼吸のように繰り返される。

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