紅黄草の塔(2)
「ああ、ヘルマンはやられてしまったのね」
マルレーナは小さく漏らした。
少し時間が掛かりすぎだと思ったら、そうまでして頑なに手を明かさないとは。
「こちらはちゃんと手を見せてあげてるのに」
ふう、と溜息。
(エルラちゃんももうそろそろかしら。今回のところはダメそうね)
素質や異常な才能があろうと、せいぜい二年程度ではこのくらいだろう。あの人たちの娘だからと期待してはいたが、つまらない少女だ。
マルレーナはエルラの現状を見て、少しばかり気持ちが冷めていた。
エルラの術の素質はそこらの一般人にも劣るかもしれないほど乏しいもので、本来であれば自分に教えを請える水準になかった。それでも、師となったのは、旧友の娘だったからだ。エルラには明かしていないが、サリクスの父親からの要請でもあった。
義務感で面倒を見続けてきたものの、戦闘術を教えるアルフレートと違って、こちらは全くの無才相手の教育で、教える側としても張り合いがない。それでもまだ完全には見捨てていないのは、多少なりとも期待しているからだ。少なくとも、今日の相手は術の才能の有無に関係なく、いまのエルラなら倒せるはずのものだった。
マルレーナは、傍らで落ち着かない様子のアルフレートへ、手出ししないようにやんわりと念押しする。
「合格にするには難しいけれど、騎士様が助けに来るまでは頑張ってもらいましょう」
わざわざ復讐の相手を素材に使った怪物を用意したが、それが裏目に出たのだろうか。
「お許しください、我が主様。彼女には必要なことなのです」
マルレーナは、誰にともなく呼びかけるように告げた。
――
エルラは、ハッと目を覚ました。
わずかな間、意識を失っていた。
寒気を感じ、身を震わせるが、どこか違和感があった。浮遊感、断絶感。
胸のほうを見ると、怪物がエルラの腹に頭を突っ込み、内臓を喰らっていた。〈リリ〉も手放してしまっていることに気付き、首と目を動かして辺りを探る。両手剣は少し離れた所に落ちていた。
『汚らわしい獣の分際で、よくもお姉ちゃんを。許さない――』
許さない、許さない、とリリは叫んでいる。もし自分が自由に動けたら、お前を細切れにしてやると言わんばかりの剣幕を見せる。
「リリ……」
〈リリ〉を掴もうと、腕と身体を伸ばす。感覚が麻痺して痛みを感じにくくなっているとはいえ、動けば激痛が走り、視界は暗くなり、耳鳴りが酷くなる。
ズルズルといくらか身を裂くも、エルラは再び剣を手にした。
食事に夢中だった怪物も、さすがに気がつき、顔を上げた。
それと同じ瞬間、エルラは剣を振った。刃が獣の鼻先を掠める。継ぎ接ぎの怪物は飛び退り、唸り声をあげた。
『よかった起きたのね、お姉ちゃん。大丈夫?』
「ええ――」
エルラは剣を支えにして立った。上半身と下半身が分かれてしまわない程度には再生したが、回復速度が遅く、まだ完全ではない。
魔力とその素である流体の貯蔵庫たる内臓を喪失したエルラは著しく消耗してしまっていた。復活しても何もかもが元通りになるわけではない。エネルギーが足りなければ、餓死し続けることもありうる。
「ごめ、ん、リリ。ちょっと貰うわ……」
『うん、いいよ、使って。でも、そのかわり――』
〈リリ〉から魔力が流れ込んでくる。失った分を補うために〈リリ〉が溜め込んでいた分を、自分のリソースとして吸い潰す。
『はやくアイツを殺してよ。あなたに酷いことしたアイツをわたしに殺させて!』
殺せ、殺せと頭の中でリリの声が反響する。妹の発したとは思いたくもない、決して綺麗ではない言葉が痺れのようにじわりと頭の奥に染みる。
エルラの中で、自身の闘志とリリの義務感のような殺意とが混ざり絡まる。窒息にも酩酊にも似た感覚。しかし、それに反し、意識は冴えていく。
修行の中でエルラは、元々は自分は無感情だったことを思い出した。父親があまりにも自分のことを普通の女の子であることを求めたために、そういう振る舞いが当たり前のこととして染みついていた。それがこの二年あまりで剥がれてきた。
自分は死んでも元に戻る化け物、そのことを新しいエルラの常識として嫌でも理解できた。化け物であるなら化け物らしい振る舞いをするべきだと考えた。いまの自分は、魔族に媚びを売って怪物になった卑しい狂人なのだ、と。
そう思うと、楽しく、面白くなってくる。
糸は切られたのでも絡まったわけでもない、はじめから切れていた。そのことを認めるのは何度目か。
笑いが零れる。
「あはははっ、いいじゃない!」
『いいよ、お姉ちゃん。それでこそ、わたしの――』
「ふふふ、あはは!!」
笑い声をあげながら、マルレーナの怪物へ斬りかかる。跳び上がり、首を狙い、剣を振り降ろした。
遠心力と重心移動を使った重く鋭い一撃。
骨肉を断った手応え。
しかし、エルラの思い描いた結果にはならなかった。想定では、首を刎ね、今頃は地面に足を着け、怪物の死体を見下ろしていたはずだった。
実際には、刃は途中で止まり、エルラは怪物の首筋に突き刺さった〈リリ〉にしがみつく形で宙に浮いている。断頭を意図した一撃は、防御のために挙げられた怪物の腕を斬り落とし、複数ある頭の一つを潰すに留まった。
まずい、と〈リリ〉を引き抜こうとするも、すでに遅く、エルラは身体を掴まれ、地面に叩きつけられた。
回避するには〈リリ〉を手放してしまえばよかったが、その判断を下せなかったし、初めから選択肢として用意していなかった。
(ああ、またか)
リリが何度もエルラの名を叫んでいる。
死なないというのは便利だが、あくまで傷害から復帰できるだけでしかない。慣れこそすれ、絶命するまでの感覚をすべて消してしまえるわけでもなかった。
頭に圧力がかけられる。頭の中で嫌な音が跳ねまわる。エルラは、やるなら一思いにやってくれと思った。
怪物はわざと恐怖と痛みを与えている。傷を受けたことへの怒りもあるだろうが、それだけでなくエルラを格下の弱者、どれだけ痛めつけても〝直る〟玩具や食料と見做していた。
死んでいる間、自分はこの怪物に何をされるのか。
(いやだ――)
怪物に自分を玩具にされたとして、怪物は自分に何をしてくれるか。何もしてくれない。対価が貰えるのなら、慰みものでもなんでも喜んでなるが、そうでなければただ損をするのと変わらない。
怪物を倒せば、復讐の達成感をわずかに得られるだけだ。それも、すでに死んだ仇が素材になっているゆえの拡大解釈でしかなく、どこまでも寂しいものだ。得られないほうがマシまである。
しかし、それでもやらなければならない。
エルラは〈リリ〉を握る手に力を込めた。まずは頭を押さえる足を斬って抜け出そうと考えた。
剣を振ろうとした瞬間、
雷鳴にも似た轟音とともに、重圧が消えた。
それが銃撃によるものだとエルラが気付くには、少しの間が必要だった。そして、それをできる人物は、
「サリュ……」
擦れた声で名前を呼んだ。
サリクスは横たわるエルラには一目もくれず、継ぎ接ぎの怪物を見据えている。サリクスの足元には霜が張り、影がさざめいている。漏れ出した殺気と魔力が至近のエルラにも齧りつく。
「手……出さないで」
エルラは震えながら絞り出すように言った。リリも追ってサリクスへ呼びかけた。
「無傷で倒せないようでは、どのみち不合格ですよ」
◆ ◆ ◆
サリクスの介入で問答無用で試験は中止された。どのみち一度致命傷を負ったことから不合格には違いなかったが、それでも他人の手出しで終わりになるのはエルラにとって気分のよいものではなかった。
それに加えてアルフレートとマルレーナから、教えることはもうないと突き放されたのも、エルラに衝撃を与えた。
部屋に戻ったあと、一晩中エルラはサリクスに当たり散らした。
大声で喚き、物を投げ、泣いた。リリに醜態を見せてしまうことを構いもせず。
室内は嵐のあとのようにごちゃごちゃにかき回された。サリクスは怒りもせず、ただエルラがするに任せ、疲れ果てた彼女を宥めた。
サリクスにしてみれば、ようやくエルラが心を開いてくれたように思えたと同時に、彼女の弱みを握ることができたという優越感も得ることができた。部屋を滅茶苦茶にし、サリクスの私物を破壊したことを赦すのは「貸し」にできる。少なくともエルラは今回の件を「借り」にするだろうと考えられた。
「サリュ、ごめん。昨日のわたしはどうかしてた」
「ええ、本当に」
逆光の中、サリクスは嫌味ったらしく言った。サリクスの影の下にエルラは入っている。その様子にエルラは顔を青くし、怯えたような態度でサリクスの顔色を窺いだした。
「何をそんなに怖がっているんですか? 別にわたしはいつもと変わりませんよ」
「だって、昨日サ――サリクスさん怒ってた」
エルラは剥き出しの殺気に当てられ、サリクスの脅威を思い出していた。サリクスにとって利用価値があるから、自分は生かされているにすぎない。
所詮は都合のいい女でしかない、今も昔も。
「わたしなんかもう要らない、でしょ。飽きたんでしょ……」
ぶつぶつと卑下する言葉を呟くエルラ。
「はぁ……、わたしはキミを見捨てませんよ。前も言いましたが、わたしの目的を達成するにはキミの力が必要なんです。こんなところで挫折されては困ります。だから――」
サリクスは膝を突き、エルラと目線を合わせる。まっすぐ目を見て告げる。
いつになく真面目な声音。
「エルラ、キミがどう思おうが、わたしはキミを一人前の狩人にしてみせます。今日からはわたしが戦い方、いや、あの化け物の殺し方を教えましょう」
本当はそちらから切り出させたかった、と言い添え、微笑んだ。
「……それがあなたの筋書きなの?」
エルラは口を尖らせ、いじけたように言った。
「違いますよ。でも……」遠くを見て、ふと何か思いついたかのように一人頷く。「そうですね、そうかもしれない……。キミは、これから起こること全部わたしのせいにしてもいいんです。道具は主人を選べませんから」
そういう気の持ち方でいい、と告げた。
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