融けない雪(2)
『エルラ。わたしは剣なの、もうあなたの妹じゃない』
突き放すようなその言葉に、エルラの中で、何かがじわじわと溶けていく。
リリの声が妹のものではなく、人心を惑わす悪魔か、それに近しいものの声に思えた。
『だから、使いたいように使って。あなたの敵、あなたを害するものすべてを打ち砕く力を、否定する力をあげる。あなたの敵はわたしの敵。わたしが傷つくことを躊躇わないで』
心地のよい声。酩酊に似た感覚が広がる。
エルラの口から乾いた笑いが零れた。
『あなたに、感じたことのない悦楽と――刹那をあげる』
リリの甘い声が全身を支配する。
『――お姉ちゃん』
酔いが引き、五感が晴れ、澄み渡る。
柄を強く握りしめる。
「ごめんリリ。いつか戻してあげるから」
『いいんだよ、お姉ちゃん』
スゥ、とエルラの顔から感情が消える。研ぎ澄まされた刃のような気を纏う。
自分を沈めてしまうのは、エルラの得意分野。そういう〝仕事〟だと思ってしまえば、自分のこなすべき役割だとわかってしまえば、簡単なこと。
「いくよ、リリ」
俄かに、剣身が光を湛える。仄黒い刃が一層強く、深く、煌めく。
「ほう」
それを見て、遠巻きに観察していたアルフレートとマルレーナが感嘆の声をあげた。
「やればできるじゃないですか。ですが、ちょっと……」
追い込み過ぎたか――、想像以上の思い切りのよさと殺気に、少しばかり気圧されるサリクス。これはこれで悪くはないが、求めていた結果ではない。
『お姉ちゃん、いじわるなサリクスさんに仕返ししよう。一回殺されたんだから、同じことやり返しても、許してくれる』
「ええ、斬るわ」
無感情に告げ、エルラは地を蹴った。
風の如き速さで、サリクスに迫る。
縦振りの初撃が地面を抉る。サリクスはそれを躱すが、すぐさまエルラは追撃。跳ね上げられた剣がシャベルのように土を飛ばす。
さきまでとは一転し、サリクスが押され気味。
黒い靄の防御も、刃を一瞬鈍らせるしかできず、煙を払うように簡単に散らされてしまっている。
〈リリ〉の力――魔的なものを退け、破る力。エルラは妹の特殊能力にはまだ気付いていないが、サリクスは察していた。
サリクスは、〈リリ〉の能力を確かめるため、袖口から木剣を抜き放ち、打ち込まれた刃を受けた。さきの木剣と同様に剣の腹には文字が刻まれている。術も同じ、閃光と音。
衝突の瞬間、文字列が光るが何も起こらず、木剣は折り砕かれた。
破砕した木剣の欠片を即席の目くらましに、サリクスはエルラの腕を取り、足を払い、思い切り振り投げた。エルラとの距離をあけるには、自分が逃げるよりも彼女を遠くへやってしまったほうが安全だと判断した。
投げ飛ばされたエルラは、即座に体勢を立て直し、獣を思わせる唸り声をあげ、サリクスへと突き進む。
その隙にサリクスは小銃を取り出し、弾を込める。金属薬莢弾薬を使うリアヒンジドフォーリングブロックアクションの単発ライフル。
狙いもそこそこに発砲。まっすぐ向かってくるエルラを躊躇いなく撃った。
エルラは、銃弾を剣腹で受けた。雷鳴にも似た銃声と衝突音が響く。
着弾の衝撃を受け流しながら、〈リリ〉を肩に担ぐように構える。
止まらぬエルラに、わずかに焦りを見せるサリクス。とっさに左手で新たな銃を取り出す。装飾の施されたホイールロックピストル。
抜きざま、引き金を引いた。
エルラの目と鼻の先で、火と煙が噴き出る。
しかし、放たれた弾丸は、エルラの横を素通りし、背の向こうへ消えていった。
好機――、とエルラは踏み込む。
サリクスは、右手の銃も、左手の銃も、その両方が発砲済み。再装填するにしろ、新しい武器を取り出すにしろ、手持ちの物を手放さなければならない。
そのわずかな時間でさえ、致命的な間合い。
(もらった――)
振りかぶった剣を振り降ろそうとした、その瞬間――
エルラの右手首が弾け飛んだ。
痛みを感じるよりも前に、直感的にエルラは把握した。一度背後へ流れた弾丸が戻ってきたのだ、と。なんらかの術を施された弾丸で撃たれた、そう思った。
エルラの考えは、ある意味では正解で、ある意味では大間違いだった。
正しくは、弾丸は戻ってきたのではなく、〝いま〟撃ち出され、エルラの手首を撃ち砕いた。特殊な製法で作られた.64口径の固形水銀弾は、ホイールロックアクションの引き金を引いた瞬間から遅れたタイミングで発射される特徴と同様に、独特な間で、着弾した。
過程を〝見なかった〟ことにして結果を〝見せる〟――そのような術が付与されていた。
その事実はエルラには思いつきもしないし、理解も及ばないことだった。しかし、まずい状況であることは、瞬間的に察知できた。右手を失ったことは、握っていた〈リリ〉を手放し、攻撃手段を失ったことを意味した。それでも。
ここで退くわけにはいかない、この女に一矢報いたい、エルラはこのチャンスを捨てるわけにはいかなかった。
千切れた腕の痛みを振り切り、勢いのまま、噛みつかんと首を伸ばす。
しかし、その歯がサリクスの肉を裂くことはない。
大きく開けたエルラの口へ何かが挿し込まれ、エルラは地面に押し倒された。
口腔に捻じ込まれた温い鉄塊は銃身だった。サリクスが右手に握っていたものだ。乱暴に突っ込まれた銃身が前歯を割り、舌を潰し、照星が口蓋を抉っている。
サリクスは、エルラが動かないよう腹を思い切り踏みつけ、見下ろしている。
エルラには、その様子が血も涙もない冷徹そのものに思えた。
一方でサリクスは焦りをエルラに悟られないように努めて平静を装っていた。焚きつけたのは自分だが、獣の如く向かってくるのは予想外だった。
せいぜい手足を折ってやれば、大人しくなると考えていた。ただの田舎娘というには、エルラはどこかおかしい、そうサリクスは思った。ただの一日、劇的な経験をしただけでは、こういう気風は醸成されない。
とはいえ、すでに勝敗は決しているし、試験の評価も出ている。ここで手を引いてもいいが、それはそれでエルラには屈辱的なことだろうと考える。エルラが不死能力を獲得していることを教え込むにはもっと刺激が必要、とも。
エルラは、もがきながら腕を振り回し、サリクスに掴みかかろうと抵抗した。すでに右手の出血は止まり、肉がボコボコと蠢いている。
必死なエルラを見て、サリクスの心に暗い波がさざめきだす。サリクスから見ても、美人といえるエルラが無様な姿で自分の足下にいる。その状況に、ふつふつと感じたこともない感情が湧き上がってくる。
それに導かれるように、
サリクスは、エルラを見下ろしながら、手にした銃の前部トリガーを押した。ブリーチが開放、空薬莢が弾き出され地面を転がる。実包を薬室へ押し込み、ハンマーを起こす。ブリーチブロックが閉鎖され、発砲の準備が整う。
銃に明るくないエルラにも、次に何が起こるかは容易に想像できた。手首と同じことが、口・頭の中で起こるのか。寒気が全身に走る。
ひどく現実的な死の光景が、エルラに恐怖を思い知らせ、彼女から戦意を急速に失わせた。
エルラは、顔を涙で濡らしながら、銃身を掴み、引き離そうとした。
もごもごと、発声もままならぬまま助けを請う。そうすれば、サリクスは銃を収めてくれるだろう、そう思った。
「本当に、あなたは弱いですね」
サリクスは薄く笑みを浮かべ、引き金を引いた。
わずかな風を口の中に感じたのを最後に、エルラの意識は途絶えた。
――
木陰の下で、エルラは目を開いた。
首周りの布が冷たく張りついている。それが血だろうことは、想像に難くない。
気分はあまりよくない。今日だけで少なくとも二回は死んだ。それを自覚できてしまうのが堪らなく気持ち悪かった。
話し声が聞こえ、エルラはその方向を見る。地面に突き立った〈リリ〉と、彼女を囲んでアルフレートとマルレーナがなにやら話していた。
「あ、起きましたか」
起き上がろうとしたとき、横から声をかけられた。その声に、エルラの身体が強張る。
サリクスが、何歩か離れた場所で木に寄りかかっている。エルラが蘇生したとみるや、歩み寄ろうと木から背を離した。
「や……近寄らないで。殺さないで――」
エルラは怯え、後退る。
「殺しませんよ」
殺せない、とは言わなかった。不死者を殺す手段や方法は、ありふれてこそいないが、存在している。
頭を振るエルラ。
「合格です」
サリクスは微笑み、告げた。
その言葉を聞いて、まごまごした様子でエルラは口を開く。
「だって、わたし勝ててな――」
「〝師匠〟この子は合格でいいですよね」
エルラの言葉を遮り、サリクスは、離れたところにいるアルフレートに呼びかけた。
アルフレートは頷く。
「え?」
驚きと喜びと悔しさが入り混じったように目を見開き、エルラはそのまま全身の力が抜け、意識を失った。
◆ ◆ ◆
「起きましたか。寝るのがお好きな人ですね」
目を開いたエルラに、サリクスが声を投げた。
顔をしかめるエルラ。冗談です、と言い添えるサリクス。
陽は傾き、薄暗くなり始めている。
「リリさんはお部屋に戻ってもらいました。勝手に触ってしまうのもどうかと思いましたが、本人から許可は取ったので、そのことでわたしを責めないでくださいね」
「うん……」
「さて、疲れたでしょう。お風呂で疲れと汚れを流してしまいましょうね。それからお夕食です」
サリクスは、エルラに手を差し出した。
エルラは一瞬戸惑うも、サリクスの手を取った。彼女の手は冷たかった。あまりの冷たさにエルラの心臓が跳ねる。
サリクスはエルラを引っ張り起こすと、振り払うように手を離した。エルラは驚きサリクスを見た。
「あ、ごめんなさい。わたしの手、冷たかったですよね」
エルラに触れるのに抵抗があるわけではない、嫌っているのではない、と釈明した。
腑に落ちない部分もあるが、エルラはなんとなくで頷いた。
自分の手が冷たい、というのは自分の手を相手に取らせたうえで振りほどく理由にはならない。
全体的にサリクスの自分に対する態度は妙だ、とエルラは思った。
エルラの中で、サリクスに感じる違和感が大きくなりつつあった。この違和感の正体を探り出せば、彼女に対して優位に立てるかもしれない、そう思った。この女にやられっぱなしになるのは、気分がよくない。
そんなことを考えながら、エルラはサリクスに促されるままに、本日二度目の浴室へ向かった。
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