第4楽章
第22話
その日は、紫苑から喫茶クレッシェンドに集合がかかっていた。部屋の電気を消そうとスイッチに手をかける。そのときに、楽譜が散らかっている電子ピアノが目に入った。少し、整理をしなきゃと思った。
[PlayList No.22 Smile](https://www.youtube.com/watch?v=tL61H4m97l4&list=PLf_zekypDG5rmEze1PbqCh3dDwop0KTCo&index=22)
外に出ると日は高く、青い空と沿道の緑と、心地よい風が気持ちよかった。あのライブでの胸の高鳴りをまた思い出す。ステージの片付けをしていると、ご年配の方から声をかけられた。白髪を短く揃えた上品な方だった。
「貴女のピアノをもっと聞いていたかった」
そう告げられた。私のピアノを喜んでくれる人がいる――こんなにうれしいことはない。
弾むような足取りで、喫茶クレッシェンドに向かう。庭園の緑が眩しい。
「こんにちは」
「いらっしゃい」と、前川さんが迎えてくれた。
いつもと同じバロックの音楽が迎えてくれた――今日はヴィヴァルディかしら。奥まった半個室の席に紫苑と渡辺さんを見つける。手前の扉を額縁にし、クラシカルな調度品と装飾窓から差し込む朝日によって宗教画のように見えた。タイトルは『音楽をもたらす二人の聖者』とでもしようか。
席に座ると、前川さんがお水をもってきてくれた。
「ライブはうまくいったと聞いたよ」
「そうです。ありがとうございました」丁重に頭を下げながら答えた。
「あら、お礼を言われることはしていないけど。注文は?コーヒーでいい?朝だからトーストでもつける?」
「ええ、お願いします」
「二人はおかわりは?」紫苑と渡辺さんに聞いた。
「お願い。あ、俺もトーストつけて」
「僕も」
「わかりました。スリー・トースト、ウィズ・コーヒー」いつもどおりのアルトだった。
「それで――今日はどうしたの?」軽く椅子に座り直してから尋ねた。
まず話してくれたのは、渡辺さんだった。
「碧井さん。なんとうちのサークルに3人も新入生が入ったんだ。あのゲリラライブのおかげだよ」
「本当ですか!良かったです」
「『あのピアノの人はいないんですか?』ってみんなに聞かれたよ」
困ったふうに首をかしげた。
「あの――よかったら、私もサークルに顔を出しても良いですか?」
「本当に?いつでも歓迎だよ!」
「ちょっとまって」と紫苑が止めに入る。「我が『紫苑トリオ』のピアニストを勝手に引っこ抜いてもらっては困るんだけど」
「それは碧井さんの自由だろうが――それに、問題なのはそれだよ。なんだい『紫苑トリオ』ってダサい名前は?」
前者も後者もそのとおりだと思う。
「そう。集合してもらったのはそのバンド名の話」
どういうことだろう?紫苑にその先を促す。
「大した話じゃないんだけど、『マカロニ・キャビン』のオーナーが、僕たちの演奏をSNSにあげていいか?って聞いてきたんだ。まあ、店の宣伝が目的だね」
ふむふむ。
「それでバンド名を教えろって言うから、『紫苑トリオ』って言おうとしたら……」
渡辺さんに止められたってわけね。
紫苑いわく『ジャズのバンド名はリーダーの名前プラス演奏形態で十分』だということだ。それに対して渡辺さんは『安易なネーミングはいかがなものか、もっと工夫しろ』と主張していた。
「そうだな――」と渡辺さん。「やっぱり『The なになに s』がいいんじゃない。偉大なるミュージたちは、すべからく"The"と"s"がつく」
はてなの表情を見せてみる。
「そうだな。まずアート・ブレイキーの"The Jazz Messagers"だろ。リンゴスターが率いる"The Beatles"もある。それに加藤茶の"The ドリフターズ"だ」
「まずリンゴスターは率いていないし。多分、ドリフターズも違いますよ」
バンド名――か。私はピアノ独奏だったので発表会では本名だった。グループレッスンを受けていた人たちは、アンサンブルで、思い思いのグループ名をつけていた。名前で悩むという経験は初めてだった。
「おまたせしました。コーヒーと自家製ジャムのトーストです」
目の前に置かれたトーストの上には、ピカピカと光る濃紺のジャムがたっぷりと乗っていた。
「わあ、美味しそう」思わず歓声がでた。「これブルーベリーですか?」
「庭で採れたいろいろなベリーが入ってるよ。今年はハックルベリーの栽培にもチャレンジしたから、それも混ぜてジャムにしてみたの。ハックルベリーって珍しいと思うから、ぜひご賞味あれ」
口の中に甘酸っぱい風味が広がる。少し苦味もあるが、それがまたくせになる。トム・ソーヤの冒険にでけてくる少年のことを思い出す。
もぐもぐと口を動かしていると「碧井さんはどう思う?」と聞かれた――どうやらバンド名の議論はまだ続いていたようだ。
ふと口を止め、考えてみる。
「じゃあ『ザ・ハックルベリーズ』は?」
軽い気持ちで答えてみた――さすがに安直すぎたか。
「いいじゃない」
「それでいこう」
――意外にも好評だった。
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