第1楽章
第1話
朝の光が私の頬を射した。もう少しだけ――と自分に言い聞かせて、夢とうつつの間を行き来する。二度寝がもたらしたの、それは闇の中を飛ぶ夢だった。
[PlayList No.01 Dreaming](https://www.youtube.com/watch?v=Wgz2JGD-wyM&list=PLf_zekypDG5rmEze1PbqCh3dDwop0KTCo&index=1)
風をうまくつかみ高く飛ぶ。もう十分かなと思ったところで、何かの調子がおかしい。あたふたしているところに横風が吹き、くるんとひっくり返り、私はヒューンと落ちた。あぶない――と思ったところで、スマートフォンのアラームがけたたましく鳴った。
昨日買った食パンを電子レンジで加熱し、はちみつを塗り、グラスに注いだ牛乳と共に流し込む。ハンガーに掛かっている淡いミントグリーンのワンピースを頭から被り、洗面所で顔を洗った。ファンデーションを薄く塗ったところで、時計を見る。まだ時間があった。ちょっと迷ったけれど、ピンクベージュの口紅を手に取り、すぅっと引いた。
出かけに、電灯のスイッチに手をかけると、部屋の隅の電子ピアノに目がいった。茶色の蓋は貝のように閉じたままだった。
少しかかとの高いミュールを履いて大学に向かう。ほんの数分の道のりだ。朝が弱い私を心配して、両親は構内に近いアパートを選んでくれた。新しくはなかったが、住めば都――何も気にはならない。
朝が弱いのは昔からである。それでも高校時代は遅刻することもなかった。母親のおかげもあるが、毎日同じ時間に起きる必要があるからだ。それが大学では違う。専門科目は固定されているため、シラバスをじっと読み、その合間の時間枠に教養科目を選択した。前期に履修できる上限が決まっているため、どうしても一限から四限までで隙間ができる。そうなると朝の八時半から始まる一限はどうしても敬遠してしまう――が、本日は金曜日である。必修の専門科目が一限目に設定されていた。
あっという間に大学の門をくぐり、キャンパスを通り、教育学部棟に入る。
この建物は三つの棟からなっており、手前から共通棟、芸棟、音棟と呼ばれている。その名の通り、共通棟には教育学部の各学科があり、芸棟には芸術学科、音棟には音楽学科がある。厳密に区分できるわけではないが、おおよそ教授の居室や講義室に分けられていた。教育学部棟は海につながる斜面に建っているため、渡り廊下で奥に進むと、昇っているわけではないのに、フロアが高くなる。すなわち、共通棟の一階は芸棟の二階になり、音棟の三階になる――これがややこしい。これまで何度も迷子になった。
共通棟から芸棟を経由し、音棟へ向かう渡り廊下で、見覚えのある人とすれ違った。曖昧な笑顔でこちらを見てくれた。確か同じ講義を受講している人だ。これから授業を受けるはずの人が、音棟から戻ってくるのか――考えられる理由は一つしかない。
裏切られた――と言えば大げさだが、『臨時休講』と無機質に書かれている黒板の前で、途方にくれた。スマートフォンを取出すと、同じ学科の祥ちゃんから、親切にも休講を伝えるメッセージが入っていた。ベットの上でチェックしなかったことが悔やまれる。次の授業まで二時間近くあるが、帰ってまた眠る気にもならない。どうしようかな――と一通り考えを巡らせたあとに、ふと、ピアノを弾こうかと思い、音棟の階段を降りる。
音棟の一階と二階は個人練習をするためのスペースがある。それぞれ15程度の小さな部屋があり、そこにはグランドピアノが用意されている。二台ピアノのために、アップライトピアノが二つ置いてある部屋もある。
入学時に『予約して利用する』と聞いていたが、そこら辺のルールはかなり曖昧なようだ。空いている練習部屋を探して、廊下をウロウロする。使用中を示すためのカードが置いていない扉に手をかけた。その瞬間に中からピアノの音が聞こえたため、思わず手を止めた。
不思議なことが三つあった。一つ目は、利用中であることを示すカードがないこと。二つ目は弾いている曲が大バッハのインベンションだったこと。ピアノを専攻する学生であれば、インベンション程度はすでに弾きこなせるレベルになっているだろう。それもこんな早くから練習する人物ならなおさらだろう。副専攻としてピアノを学んでいるとしても、バッハの演奏は珍しい。レッスンの課題曲は『古典派』以降から選ぶのが通常だからだ。ここでの古典はモーツァルトやベートーヴェンを指し、バッハでは古すぎる。三つ目は、その演奏がが奇妙なのである。楽譜通りの音ではない。音の長さが均一では無く、伸び縮みしている。和声にも明らかな間違いが多い。にもかかわらず、その音楽には私の胸を高鳴らせる魅力があった。バッハが――あの気難しいそうな彼がにこやかに笑っているようだった。
「そこの貴女?ここで何をしているの?部外者は立ち入り禁止ですよ」
背後から棘のある質問を刺された。
「はい。あの……今年度入学の――」
「ああ、貴女。学校教育科の人ね。ここは音楽専科が利用できるスペースよ」
こちらが言い終える前に、ピシャリと言い放った。
そんな決まりはないはずだ。しかし、私が所属する学校教育科は、音楽的技巧を学ぶのではなく、教育としての音楽を学ぶところである。
そう私はもう音楽家ではないのだ。
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