3:引っ越し
「ふう……姉崎さん、この荷物ここで良い?」
「……」
その真新しいマンションの一室で、俺は汗を拭いながら段ボールを運んでいた。動きやすい格好をしているせいか、生足が眩しい姉崎さんはしかし、俺の言葉を聞いて脹れっ面になっていた。
「むう……学校ではともかく、それ以外では〝お姉ちゃん〟もしくはそれに類する呼び方にしてって言ってるのに」
「いや、そんなに器用に切り替えられるかよ。それに理屈は分かるがクラスメイトをお姉ちゃん呼ばわりはちと気恥ずかしい」
「……ふふふ……恥ずかしがる賢兎君も可愛いなあ……ふふふ……」
ぐふふ……とまるでエロ漫画を読んでいる
「……その怪しい笑いやめい」
「ま、今は良いや。でもせめてアリスって呼んでほしいなあ」
「じゃあ……あ、アリス」
俺がどもり気味にそう言うと、姉崎さん……もといアリスが嬉しそうな表情を浮かべた。
「なあに?」
そういって、ちょこんと首を傾げたのだった。
ああ、くそ。可愛いな……なんだこの生物。というかもう全然考えないようにしていたが、冷静になるとこの状況、どういうことだ?
「荷物……ここで良いか?」
「うん。ありがとう。そろそろお昼だし、お蕎麦にしよっか」
「そうだな。でももうちょいで全部運び終わるから、それだけやるよ」
「えらい! 賢兎君は優しいし真面目だし可愛いし最高の弟だよ。じゃあ私お昼用にちょっと買い物いってくる」
「へいへい」
そう言って俺はそそくさとそこを離れた。
段ボールを、その表面にマジックで書かれた各場所に運びながら、しばらくの間ここにアリスと二人で住むことになるという事実に対する現実感が増していっていることに眩暈がしてきた。
そもそも、全ては適当で無計画な親父が悪いのだ。
〝家族なんだから一緒に住むのは当然、新居も用意した!〟
までは百歩譲って良いとして、
〝あ、そういえば新婚旅行でシルヴィアのご両親に挨拶がてらイギリスに一ヶ月ほど行くから引っ越しとかアレコレ全部任せた、それじゃあ行ってくるぜ! 姉弟仲良くな!〟
はどう考えてもおかしい。引っ越しは新婚旅行後でも良かっただろ!
と愚痴ったところで、事実は何も変わらない。
俺とアリスは――二人っきりでここで生活することになるのだ。
「つまり……同棲だよな……。いや義理の姉弟だから同棲ではなく同居?」
ちなみにクラスの担任には既に両親から話が伝わっているらしいが、これまた適当な担任なせいで、〝間違いは起こすなよ~〟とかいう雑なアドバイスを言われただけだった。間違いなんか起きるか。
だが、一つだけ真剣な表情で言われたのだった。
あまり、一緒に住んでいることを言いふらさない方が良いと。
それは俺もアリスも同意できるところだった。彼女はどこまでも自分の容姿やそれに伴うアレコレを自覚しており、だから俺も、学年どころかうちの高校で一番の美少女と義理の姉弟だからとはいえ、一緒に暮らしていると喧伝した際にやっかみや嫉妬が起こることは分かっていた。
ゆえに、俺とアリスはこれから共に生活することは出来る限り秘密にしようと約束しあったのだった。
「賢兎くーん。お蕎麦できたよー」
「ういー」
キッチンからそんな声が掛かったので向かうと、出汁の良い匂いが漂っていた。
テーブルの上で、蕎麦が美味しそうなに湯気を立てており、その上にはエビ天が二尾並んで乗っていた。
「はい、天ぷら蕎麦」
「おお……! やった!」
「エビ天好きなんでしょ? 賢治さんから聞いといたんだ。今日は道具も材料も揃えてないからスーパーの惣菜のやつだけど。出汁だけはちゃんと自分で引いたよ?」
見ればキッチンの上には、鰹節やら昆布やら醤油やらが散乱していて、その脇に、随分と読み込まれた料理本が置いてあった。
「いやいや十分だよ。アリス、料理も出来るのか」
「ま、まあね! まだ勉強中だけど!」
照れくさそうに笑うアリスを見て、俺は胸の中で湧き起こる多幸感を噛み締めていた。
なんだこれ。こんな可愛い子が俺の為にご飯作ってくれるとか最高じゃないか。
「冷めないうちに食べよ! 引っ越しの日は蕎麦を食べるのが慣わしなんでしょ」
「らしいな。俺も詳しくは知らないけど」
「変な文化よね。まあでも蕎麦は湯がくだけでいいし楽で助かる」
「だからかもな。引っ越しの時は材料も道具も出せないから」
「確かに……じゃ、いただきます」
そう言って、その金色の綺麗な髪を耳にかけながら、ふうふうと息をかけて蕎麦を冷ますアリスの姿に俺はくぎ付けになってしまった。なにやっても様になるのって、ほんと可愛い子の特権だよな。
「ん? 食べないの?」
「あ、いや! いただきます!」
見ていたのがバレてしまって俺は思わず赤面しながら、出汁が沁みこんだエビ天を頬張った。ちょっとだけ出汁がしょっぱい気がするけど、美味しいのは確かだ。
そんな俺の姿を、今度はアリスが不安そうにジッと見つめてきた。
「ど、どう? ちょ、ちょっと醤油入れすぎかな!? 関東風が良いかと思ってその!」
「美味しいよ。凄く美味しい。確かに醤油はもう少し控えめにしたらもっと美味しくなるかも」
俺がそう言うと、まるでひまわりが一面に咲いたかのようなラブリーなスマイルがアリスの顔に咲き誇った。うわ、眩しっ。
「良かった! 大丈夫、次は上手くやれるから!」
「うん、でも、料理任せっぱなしで悪いから交替してやろう」
「大丈夫だよ? 料理もお姉ちゃんの仕事だから!」
そう。アリスは何かにつけて、全部やりたがり、それに全て〝お姉ちゃんだから〟という言葉が付いて回ってくる。それは確かに、俺にとってありがたい話ではあるけれど……何となく良くない気がした。
「ダメだよ。家事は分担して交替制にしよう。甘えるばっかりじゃ俺も気まずい」
「うー。いくらでも甘えてくれて良いのに」
「そういうわけにはいかないよ。一応、家族なんだし。助け合えって親父も言ってた」
「むー」
納得いかないという表情を浮かべていて大変可愛いのだが、ダメなものはダメと言わないと、彼女はどこまでも俺を甘やかす気でいる。
勿論、内心では、全部任せて楽したいという気持ちもある。だけど……それはやっぱり人としてダメだし、元々親父と二人暮らしのせいで、家事は自分でやるという生活に慣れてしまっている。だから何もしていないとそわそわするのだ。
「ごちそうさまでした。じゃあ片付けは一緒にやろう」
「うん!」
俺がそう言うと、アリスはぱーっと目を輝かせた。しかし、ほんとそんな表情、学校では見たことないな。まあもしやってたら、おそらく告白してくる男子が長蛇の列を形成してしまうだろうが。
俺とアリスは仲良く並んで、食器を洗うのとそれを拭き上げて仕舞うのを、分担しながら片付けを行った。
こうして俺とアリスの、クラスメイトには秘密の同棲生活が始まったのだった。
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