幽霊狩り
参径
受肉
国籍を捨て、名前を捨て、過去をも失った工作員を「幽霊」という。存在しているのに、存在していない者。主として国家機関、あるいは大企業のスキームとして、彼等は文字通り、何も持たずに活動を行う。適当な偽名を与えられ、国家間の十重二十重に入り組んだ諜報戦に駆り出され、ひとりまたひとりと闇に消えていく。誰にも知られぬ場所で、最低規模の命のやり取りが行われている。
雪代もそのひとりだった。かつては英語とフランス語の才を買われ、外交の仕事に従事したこともあった。現地でテロに巻き込まれ、死線を渡り歩いた。日本政府は助けをよこさなかった。代わり、国内メディアでは「死んだ」ことになった彼女に、新しい名前と身分、そして任務毎に法外な額の報酬を与えた。それらは口止め料を兼ねており、雪代は米国のテロ対策及び日本政府の事後対応が
雪代の
館内は薄暗く、最低限の照明が灯っているほかは人の気配らしいものもなかった。正面玄関を入り、柱の陰を一つずつ見て回りながら、雪代は中央部の第一ホールへと近づいた。扉に手をかける。施錠はされていない。
ホールへ進入し、シグ・ザウエルを構えた。やはり敵の姿はないが、思ったよりも広い。迂闊に歩みを進めるのは自殺行為だ。索敵を行う必要がある――どのみち冬季は積雪の懸念から一般開放のされていない施設だ。1、2発撃ったところで聞き咎める者もいないだろう――と算用していたところで、雪代の背後から声が響いた。
「よう。あんたか?」
拳銃を構えたまま振り向く。柱の陰に、背の高い青年が
「俺と同じで『幽霊』のお客さんか?」
青年は20代後半ほどと見えた。ニット帽とよれたジャンパーを着け、覇気がなく、エラの張った頬と濁った眼がいかにもな風体だったが、少なくとも立ち方に隙はなかった。
雪代は問いには答えなかった。ただすぐに引き金を引くこともしなかった。少しの違和感があった。いわゆる間引きで、「使えなくなった」幽霊を同じ幽霊に処分させることはある。だが、少なくとも目の前にいる青年が、不良品としてのレッテルを貼られるほど落ちぶれた存在とは思えない。
「……まぁんなことはどうでもいっか。一応確認だけしとくけど、後腐れとかないよね? 化けて出られたら困るもんで」
幽霊だけに、と嘯いて青年は笑った。雪代はかぶりを振って、シグ・ザウエルの引き金に指をかけた。
「でも、一応違和感は潰しておきたい。あなたは接敵相手が『幽霊』だと知らされていたけど、わたしは何も知らなかった。情報に不平等がある」
「……」
あまり考えたくなかったが、逆に雪代のクライアントが雪代を用済みと判断、消すために同じ「幽霊」と引き合わせた……というケースが考えられる。その場合、落ちぶれた存在なのは雪代の方で、たとえばこの状況を生き延びたとしてもその後がうまく「回る」可能性は極めて低い。どうあがいても苦境、という状態に、雪代は立たされた可能性がある。
「……俺は『お客さんをもてなせ』ってこいつを渡されただけだけど」
青年はリボルバーを振った。正確なモデルまでは判らなかったが、
「しつこく訊いたら、お相手も幽霊さんだって教えてくれたよ。ああ、誰が下手人かってことは、お互い訊きっこなしで」
「……わかってる。始めよう」
彼から実のある情報は引き出せそうにない。雪代は一方的に開始宣言を打ち、ダブルアクションのままシグの引き金を絞った。P226よりも一回り小さな、M11A1のコンパクトなボディに、9ミリパラベラムの強烈な反動が食い込む。
「――っと!」
青年はすんでのところでそれを躱した。通路の床の絨毯に、黒々とした孔が複数、空いた。
青年は座席の列の最後部に飛び込んだ。銃だけをこちらに向けて応戦されるリスクがあったが、雪代は構わず青年が隠れた位置へ向かう。散発的に、牽制の引き金を引きながら動きは止めない。マグナムはめくら撃ちで当たるような代物ではない。動いていれば逆に被弾率を下げられる。1対1なら勝ち筋は掴めるテクニックだ。
「くっそお!」
背中を捉える。だが雪代も動きながら撃っているので、なかなか正確に着弾させることは難しい。それでいい。一射一殺などという、曲芸じみた戦闘は望まれていない。何より、マグナムを相手に棒立ちで正確な狙撃など愚の骨頂だ。
どうにか態勢を整えた青年のマグナムが吠える。耳を聾する轟音がホールに反響する。弾は雪代の肩口から30センチばかりずれたところを裂いて飛んで行った。
「やるな、どうも用済みを始末させられるだけの汚れ仕事じゃなさそうだ」
「軽口を叩いてる隙があるの?」
「いいや!」
青年が座席の列を跳び越す。姿が見えなくなった。公会堂第一ホールはステージ側から見て1ブロックあたりに10から20ほどの座席が列になって並んでおり、場所によっては席が弓なりにカーブしている。その気になればどこにでも身を隠せる、だがそれは同時に、座席の列の左右、通路からの攻撃には弱く、またそこで迎撃するにも向いているということだ。
「……」
消極的な戦況の膠着。身を屈めながら座席と座席の間を移動すれば、少なくとも相手の弾には当たらないし、そもそも位置を気取られることもない……青年のアプローチは間違ってはいなかった。
(――わたしなら)
雪代なら、マグナムを持っている限り、多少の防御や逃避を捨ててでも勝負をかけに行くだろう。攻撃力で優位にあるのなら、わざわざ戦法を考える必要はない。防御を捨てるとはつまり、棒立ちになって隙を見せてもいい、ということだ。正確に狙い撃つ。当たれば絶大な威力を発揮するマグナムにとって、そして装弾数では
要は当てることだ。どのみち撃ち合いでは、彼我の距離に違いが生じる筈もない。弾をばら撒くようにして動いた雪代とは違い、向こうは一撃にすべてを託す必要がある。そして相手が身を隠した以上、自分の位置を知らせるだけの無闇な発砲は避けるべきだ。青年がどこから姿を現すのか、雪代は読む必要があった。
K列の椅子のそばにしゃがみ込む。息を殺し、シグ・ザウエルの銃口を素早く左右に振った。
いない。
どこに? という疑問を抱くより先に、マグナムの轟音が空気を裂いた。オーバーコートの裾が散る。身体に当たらなかったのが奇跡だ。理性より先に、銃声の方向にシグを向けて発砲する。上だった。座席の上に立ち上がり、こちらに狙いをつけていた。
「チッ!」
雪代は薬室は空の状態で携行していて、8発を撃ったので残弾7発。対する向こうは、おそらく今の間に弾を入れ替えて6発、フルに装填していると考えていい。残弾的には雪代が有利だったが、当たった時のことを勘案すれば、事実上互角か、相手が有利ですらある。
外したと悟るや、青年は再び椅子の上を駆けた。幅があるうえに足元が不安定だが、雪代を牽制するために少しでも「上」に陣取るのは正道といえた。
「ぐっ……‼」
迂闊に引き金を引くことはできない。弾の数がほぼイーブンだとすると、ここで功を焦ることは死に直結する。
1発たりとも外せない。雪代は距離を詰めた。瞬間、またもマグナムが空気を裂く。雪代の肩を掠めた。当たらなかったのが奇跡だ。危険だが賭けに出るしかない。一瞬だけ足を止め、逃げる青年に狙いをつける。2発目が来るより先にこちらが引き金を絞ればいい。
ダブルタップ、胸と腹を狙う。青年のリボルバーが火を噴いた。だが9ミリ弾はそれにわずかに先んじた。着弾の衝撃に逸れた銃口は、雪代の直下の床元に向けてマグナム弾を吐き出した。
青年の体が落ちる。頭からいった、と確信する。死なずとも、もはや反撃はできまい。
青年のジャンパーには黒々とした孔が二つばかり空いていた。生地が紺色で分かりづらかったが、銃創の周囲は水でも溢したみたいに濡れていた。
青年は仰向けに転がったまま、生気のない目でホールの天井を睨んでいた。口の端からは赤黒い血を垂れ流している。
「はは」
雪代に気づいて、青年は力なく笑った。
「……あぁ、クソ……雑魚を狩るだけだ……って、そういう口ぶりだったのに……」
目を閉じて独りごちる。雪代は傍らに放り出されたリボルバーを拾い上げた。フルレングスのアンダーラグ、バレルには「ROSSI」の刻印。ブラジル製だ。
「……あんたも……気を付けた方がいい……俺と、同じなんだろ……」
雑魚狩り。直属の上司・
もし嵌められたのだとすれば、あまり猶予はない。雪代か青年か、どちらかがこの鉄火場を生き延びたのであれば、それは「勝ち残った側」に死の影が迫ったことを意味する。戦わせて数を減らし、生き残った方をより強い戦力として継続起用する、たちの悪い抜き打ちテストみたいなケースも考えられなくはないが、実力が拮抗する幽霊同士を戦わせたところで、双方が無傷で済む可能性は極めて低い。雪代のような立ち回りが効くことはごく稀だ。
「……待てよ」
踵を返した雪代の背中に、青年が掠れた声をかける。
「どこ行く気だよ。放ってくのかよ……」
「……運が良ければ、助かるかもしれないね」
「この傷でか……? はっ!」
青年はせせら笑い、そしてそれが良くなかったのか、ごぼりと血の塊を吐いた。
「……とどめ、頼むよ……失血死なんてダサすぎるぜ……」
「……」
青年のリボルバーを持っていこうかとも考えたが、単純に二挺も下げるのは重量的に辛い。ホルスターもひとつしか持ち合わせがない。
少し迷ったが、雪代は青年の銃を置いていくことにした。そして、その前に青年の遺言を守ってやることにもした。
「……へへ……」
青年は自らを見下ろす愛銃に一瞬驚愕の表情を見せ、それからまた力なく笑った。
「しっかり……やってくれよ……苦しいのは、ごめんだ……」
「……そうだね」
雪代にも死にかけた記憶がある。ちょうど今日みたいな吹雪の日だった。銃口をこめかみに向けるところまでいって、そのあとはあまりはっきりとは覚えていない。死の淵から脱して敵を斃したことより、死の淵に立ったことのほうが印象強く残っている。
弔いの銃声が二度響いた。ロッシのリボルバーは、その持ち主とともに役目を終えた。
吹雪は一層強くなっていた。大下によれば、近くに逃走用の車を用意してある、という話だった。事実公民館の裏手に、それらしい黒のセダンが停まっていたが、これには乗らない方がいいだろう。ここは山奥だ。来るときはかろうじて在来線が動いていたが、あまり雪がひどいと運行本数を減らされる恐れがある。
「……」
終わったら連絡を、と大下には言われている。大下を警戒してその報告を寄越さないというのはかえってまずい。不信感を煽る。かといって正直に青年を倒した、と報告すれば、やはり雪代が「狩られる側」に回るリスクが高まる。
どうすればいい? ひとまず、連絡は入れる。ただし青年の死は偽装する。直前で取り逃がしたことにする……もし大下と青年のクライアントが通じていれば、その時点でこの偽装は露見する。これもまた賭けだった。
見たところ負傷らしい負傷は体のどこにもない。雪代は己が悪運に感謝を覚えつつ、スマートフォンを起動した。銃撃戦で壊れていなくて助かった。
「――大下さん」
『首尾は』
電話口の向こうの大下は短く問うた。
「申し訳ありません。取り逃がしました」
『取り逃がした……?』
大下は怪訝そうに言った。雪代の腕前を信頼しているからこそ、と言った口ぶりだ。雪代を騙そうとしたわけではないのか?
「標的は山に逃げ込みました。現在追跡中ですが、予断を許さない状況です」
『……わかった。引き続き追跡し、進展があったら連絡を』
一方的に言って、大下は電話を切った。
吹雪は止む気配がない。雪代はここまで来るのに利用した在来線の駅の改札を
市街中心部にも降雪はあったが、山間部のそれよりいくらかマシだった。人口数万の地方小都市だが、県政も警察も自治体も機能している……雑踏に紛れてしまえば、どうしても人目に付く。そういう場所で殺しを行うハードルは上がるだろう。雪代はそう踏んだ。
青年との対峙が気にかかっている。彼は手練れだった。少しでも歯車が狂えば、向こうが容易く雪代を屠ることもできただろう。どうしてもそれが引っ掛かった。単純な情報の行き違いによるミスか? それならそれで、青年もまた雪代を「雑魚」だと教えられていた事実が不自然に際立つ。相対する相手を「弱い」と認識させることは、つまり油断を誘い、挙動を狂わせてしまう。あの戦闘では両者が落命に終わってもなんら不思議ではなかったのだ。とすればやはり、何者かが雪代を、そして青年を亡き者にすべく、わざと誤情報を渡した可能性が高い。
スマホを手放さなかったのは故意だ。逆探知なり発信なり……その手のことに雪代は詳しくなかったが、少なくともこれは大下から支給されたものだ。これを持っている限り、大下はその気になれば雪代の居場所を特定できる。雪代の反駁もバレるが、同時に大下ないしクライアントの仕掛けた罠もわかる……これで大下が、折り返しの連絡を入れてくるのなら、少なくとも彼はシロと見做せる。だがもし連絡がなく、脈絡もなく雪代が襲撃されるようなことがあれば……そのときは、大下、ひいては国家そのものが、雪代を切り捨てたのだと判断することができる。
その判断をつけるためには、せっかく得た雑踏という鎧を脱ぎ捨てる必要がある。雪代が狙われやすい状況を作るのだ。暫定、組織が切り捨てたいと考えている、そこそこの実力と実績を持つ相手を消す場合、自分ならどうするか。どう立ち回れば、最小のリスクで事を片付けられるか。
雪代は大通りを外れる。といっても、地上五階建てを超えるような建物すら見つけるのに難儀するほどの、活気の少ない町中だ。人の目を浴びない場所を探すのに、さほど苦労もしないだろう。
歩き回る。商店街のアーケードを潜ったり、踏切を渡ったりして、ある程度、道を走る車にも見えるような位置を通った。成果はあった。50代くらいの、がっしりした体格の男が一人、雪代の30メートルくらい後ろをつけてくる。車の方も、一台、実在企業のロゴを貼り付けた同じナンバーのプロボックスを何度も見た。こいつらが連携を取り合って、雪代の動きを把握している、と考えていい。
駅は複合施設、いわゆる小規模な駅ビルになっていて、地上四階まで空きも含めていくつかのテナントが詰まっている。雪代は無作為に歩き回るのを止め、横断歩道の向こう側にあるそこを目指した。信号から5メートルほど向こうに、尻をこちらに向けたプロボックスがハザードを焚いて停まっていた。尾行男の姿はない。雪代は駅ビルの地上二階部分から正面玄関を入った。学生、サラリーマン、主婦、駅員に警備員……駅のコンコースはまだ人の目がある。襲うとしてもここではない……だが、雪代が独りになった隙を逃す手はない筈だ。
エレベーターで最上階へ向かう。駅が地上二階、一階には商業施設、三階はレストラン街で、四階が一番、人の出入りが少ない。小規模のオフィスや事務所が軒を連ねる区画だ。エレベーターと階段は併設、右手にはオフィス群、左手には女子トイレと自販機しかない。仕掛けるならここだ。
エレベーターを降りる。雪代は銃を抜いて女子トイレに飛び込んだ。不意が打ちやすい、奥の個室を選んだ。
ややあって、トイレの入り口に気配がした。歩幅からいって男だ。追っ手が確認するならまずここだろう、という雪代の判断は当たった。個室から飛び出す。相手を確認することもなく、滅法に引き金を絞った。
果たして先程から雪代を尾行していた男だった。柄のシャツに血の華を咲かせ、サイレンサー付きの拳銃を片手に
シグをコートの内側に仕舞い込んでトイレを飛び出す。撃った男が発見される前に、雪代はビルから脱出する必要があった。
階段を一気に四階分駆け降りる。その途中でスマホを放り捨てた。尾行があった、このスマホも大下もクロだ。じきに警察が来る。そしてその前に、尾行男の仲間も片付けなければならない。早足に外へと飛び出す。雪は変わらず降り続いている。
ビル前の道路に、さっきとは逆の向きにプロボックスが停まっていた。見たところ中に人間は乗っていないが、エンジンは動いている。チャンスだ。公共交通機関で移動を続けるのは色々と面倒なので、足の確保が急務だった。
プロボックスに飛びつく。サイドブレーキを解除、ギアをドライブに叩き込んでアクセルを噴かした。数十メートルも離れる頃には、ドアミラー越しにこちらを追いかけてくる人影が複数見えたが、もう間に合わなかった。
雪代の組織の本拠は東京にある。途中、サービスエリアに寄って、公衆電話から大下に連絡を入れた。
『遅いじゃないか! どこで何をしていた?』
雪代が名乗るとすぐに、大下は詰問口調で吠えた。スマホを捨てて以降、雪代を追う者はない。だから大下はクロだと踏んだのだが、どうにも彼からは一芝居を打っているという感じを受けない。
「申し訳ありません、スマートフォンを紛失したもので……手間取りましたが標的の無力化は確認しました。帰投します」
『……わかった、ご苦労だった……現地に掃除屋を向かわせる、できればでいい、あとで正確な位置を教えてくれ』
「……了解しました」
電話は切れた。青年のことを問い質すべきだったかもしれないが、それよりも大下には、雪代を嵌めるつもりがなかった……という読み方のほうが、どうやら正しい。つまり、大下以外の誰かが、意図的に情報を錯綜させている。でも誰が何のために?
考えても仕方のないことだった。どこから水漏れが起きているかわからない。戻って直接、大下に全てを話した方が結局は早いだろう。雪代はプロボックスの運転席に戻った。
雪こそ降っていなかったが、東京もまた凍えるような寒さだった。アジトのビルに車を近づけるか迷ったが、巡回中の
「――っ」
様子がおかしい。複数台の車が、道を塞ぐように停まっていて――妙な胸騒ぎがあった。この際、警官に見られても構わない。雪代はM11A1を手に、プロボックスを飛び出した。
裏口からビルに入る。嫌な予感は当たった。私服の守衛は既に事切れていた。銃創の具合を見ると、小口径の高速弾が使われている。敵は――その実体は何一つ判然としないが――殺しに特化している、と考えていい。進むうち、死体が増えた。その多くは敵か味方かが判然としなかったが、損傷が激しくない亡骸の中には、何度か共に鉄火場に立ったことのある、見知った顔もいた。
(襲撃――)
やはりスマホを手放すべきではなかった。だが、数時間前の雪代に今の状況が読めた筈もない。大下が雪代を罠に嵌めた程度のことなら、どんなに良かっただろうか。
大下が普段、使用しているオフィスの階層へ向かう。階段にも廊下にも、どす黒い血の跡といくつかの死体が転がっていた。AK小銃で武装している死体もあった……襲撃者は十中八九、こいつらだろう。
「――大下さん!」
ドアをこじ開ける。もう手遅れだとは分かっていたし、大下に情など寄せていては生き残れぬ世界であることも承知している。しかしそれでも、物言わぬ屍となった彼と対面するよりは、小言の一つでも喰らう方が余程いいに決まっている。
「……」
壁に背を凭れるようにして、しかし大下は死んでいた。苦悶の表情を浮かべ、口と胸元に夥しい量の血糊を貼り付けて事切れていた。片手には、彼が愛用していたコルト.45オートが握られていたが、発砲された形跡はなかった。
雪代は大下の手から銃をもぎ取った。深い考えはなかった。瞬間、背後で気配がゆらめき、甲高い銃声が
肩口をやられたが動くには問題がなかった。雪代はシグとコルトを両手に構え、鬨の声を上げて敵に突っ込んでいった。AKを撃ち終えた直後の敵には、9ミリと.45口径の波状攻撃に対応する余裕は存在しなかった。
敵はバラクラバを被り、上半身に防弾アーマーを着込んでいた。防弾といっても、構造上、撃たれる度に防弾能力は落ちる。そのうえ、着弾の衝撃まで吸収してくれるというわけではない……全身をハンマーで絶え間なく殴られたような衝撃が、この男を襲った筈だ。
肋骨をはじめ、腹側の骨という骨にダメージが入っているだろう。呼吸は浅く、有益な情報を聞き出せそうにはなかった――最早、そうする必要性があるかどうかすらも怪しかったが。
右手にシグを、左手に大下のコルトを携え、雪代は単身、敵の殲滅を試みた。中途、敵の死体を検める。傍らにはアサルトライフルが落ちていた。
「……」
怒りの情はない。幽霊という存在の性質上、こうなる可能性は常に孕んでいた。審判の日がたまたま早く訪れただけだ。正直、敵の意図も目的も、その他一切が判然としないままだったが、雪代は死の誘惑に身を委ねることはしなかった。
肩の傷が痛むが、それ以上に生存本能が、分泌されるアドレナリンがそれを上回った。現れる敵を、羅刹の如き形相で打ち斃し、屠り、殺す。コルトの残弾が尽き、投げ捨てた。脇腹を熱い
集団とやり合う。全てを退け、息があることに安堵する。少しの休憩を挟み、雪代は立ち上がった。だが同時に眩暈を覚える……見ると、オーバーコートは擦り切れてボロ布同然になり、インナーやパンツにも銃創と綻びが目立った。皮下出血の量も多い。
階下から、さらに上層からも、断続的に銃声が鳴り響いていた。生き延びられる保証はないし、生き延びたところでその先の展望はない。ただ、雪代は未だにこの状況に至るまでの経緯を知らず、その背後にある事実を知り得ず、そしてそうである限り、満足に死ねる気もしなかった。
国籍を捨て、名前を捨て、過去をも失った工作員を「幽霊」といった。彼らは国や大企業のスキームとして雇われ、国家間の諍いごとに駆り出されては、ひとりまたひとりと闇に消えていく。誰にも知られぬ場所で、最低規模の命のやり取りが行われていた。
雪代は既に人の顔をしていなかった。そして、幽霊と呼ぶにはあまりにも、生への執着に満ちた顔だった。
払える犠牲は全て払った。あとは、雪代を――幽霊を陥れたものが何なのかを、洗いざらい教えてもらうだけだ。
幽霊狩り 参径 @1070_j3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます