第250話 13章:コンプリートブルー(17) SIDE 冷泉

SIDE 冷泉



「こないだの件、考えてくれた?」


 安西が私の肩に手を置き、それを二の腕に滑らせた。


「お断りしたはずです」

「ええ~? 悪い話じゃないと思うんだけどなあ。詩織ちゃんと差をつけられたくないでしょ? おっと、これはオレがひいきするってことじゃなくて、世間の人気的な意味ね」


 安西がにやりと笑う。

 もちろんこちらのマイクは切られているが、それでも後々問題になるようなワードは出さない。


「私はそんなこと気にしませんよ」

「ほんとに~? 人気があると色んな役をもらえるのに?」

「オーディションで実力さえ見てもらえれば、勝ち取れます」

「見てもらえればね。そんな甘い世界じゃないことはわかってるでしょ?」


 当たり前だ。

 今でこそ事務所からオーディションの枠は優先してもらえているし、作品側から指名も来る。

 だがそれがいつまでも続くわけじゃない。

 悔しいことに、アイドル扱いされていることで、ブーストがかかっていることも事実なのだ。


 この男の誘いを断ったからと言って、直接的に仕事が減ることはない。

 だが、他の声優にチャンスがまわってしまえば、結果として私の仕事は減ることになる。

 この仕事は、少ない席を奪い合うゲームなのだ。


 だからと言って、一線を越える気はない。


 私は手段を選ぶつもりはないが、それは単に仕事を得るためではない。

 未来の自分が恥じない自分になるためだ。

 だから、この一線を越えることは、全力を出さないことと同じように、やってはいけないことなのだ。


「わかっています」

「一度の人生なんだから、賢く生きた方が良いと思うけどなあ」

「あなたの言うそれが、賢い選択だとは思えません」

「お堅いねえ。気が向いたらまた声をかけてよ」

「そんな日は来ません」


 睨み付けてやったつもりだが、安西はへらへらと笑ったまま、私の体をなめ回すように見た。

 あまりの不快感に、全身に怖気が走る。


「あー! 安西さんってば、またアイちゃんにちょっかい出してる-! だめですよ、アイちゃんがいくらかわいいからって~」


 そこに、トイレから陽山さんが戻ってきた。

 彼女の明るさに、場のイヤな雰囲気が吹き飛ぶ。

 腰に手を当て、ぷくっと頬を膨らませる仕草が実に愛らしい。

 この輝きこそ、彼女に多くのファンが惹かれる理由だろう。



「手を出すなんてそんな。人聞きが悪いなあ。ちょっとアドバイスをしていただけだよ」

「ほんとにぃ~?」

「ほんとほんと。さて、そろそろ収録再開しようか」

「はーい」


 収録はなんとかその日のうちに終えることができた。

 ただ、この曲をイベントで披露する日がくると思うと、実に気が重い。


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