第241話 13章:コンプリートブルー(8)

 冷泉さんは、目深にかぶったキャップにサングラス、さらにマスクという怪しい格好だ。

 一般客にまぎれて講演会を見学していたらしい。

 オレに話があるというのは冷泉さんだった。


「あそこで話しましょうか」


 風間さんが指さしたのは中庭のベンチだった。

 左から、風間さん、陽山さん、冷泉さん、オレの順で座っている。

 陽山さんがナチュラルに冷泉さんに腕を絡めている。

 プライベートでも仲良いのかな、この二人。


 学校で声優三人と並んでベンチで会話……。

 どんな状況だコレ。


 由依には教室で待っていてもらうよう言ってきたのだが、柱の陰からじっとこちらを睨んでいる。

 ついでにその近くでは、佐藤がハンカチを噛みしめながらこちらの様子をうかがっている。


「こないだ私を助けてくれたのって、あなたよね。難波さん」


 駐車場で会った時とは違い、凜とした綺麗な声だ。

 グラサンとマスクを外し、帽子を脱いだ冷泉さんがじっとオレを見つめてくる。

 帽子に隠れていた、シャギーのかかったさらさらの長い髪が解放され、風に揺れる。


 陽山さんがかわいさ全開だとするなら、こちらはクールビューティーだ。

 油断するとくらっときそうなほどの美形である。


 もうここではぐらかすのはおかしいか。


「ええ、まあ……」

「やっぱり。ちゃんとお礼したかったのに逃げてしまうんだもの。今日、見学にきてよかったわ。改めてありがとうございました。冷泉アイと申します。もしかすると気付いているかもしれませんが、声優をしています」


 冷泉さんは深く頭を下げた。


「お礼なんて別に……」

「これは私の気が済むかどうかの問題なんです。最近、声優業界も後をつけ回してくるファンが問題になっててね。実はけっこう怖かったんです。外では顔を隠してるし、声バレしないように小声で話すようにしてるんだけど、たまに見つかっちゃうのよね」

「それは大変ですね」


 オレはオタクの殆どが基本的には無害な人種だと知っている。

 だが、母数が増えればおかしなヤツというのは現れるものだ。


「さあ、何が良いんですか、難波さん」


 年下のオレに『さん』付けをするあたり、彼女の人柄がわかる。


「ええと……それじゃあジュースを一本」

「欲なさすぎじゃないですか? なんでも言ってみていいんですよ」

「いや、なんでもって……」


 気軽にそんなことを言うもんじゃないと思うが。

 とはいえ、ここでエッチなお願いをしてみるほどバカではない。


「じゃあ……アニメのアフレコを見学させてもらうとか……は、さすがにダメだと思うので――」


 とりあえずここからスタートして、難易度を落としていってみよう。


「いいわ」

「いいの!?」


 思わず素で聞き返してしまった。


「自分で言っておいてなんですが、各所に迷惑がかかりそうな気が……」

「私より芸歴の長い人がいない若いコ達だけの現場があるから、そこならスタッフさんにお願いできると思うわ」

「でも……」


 さすがに悪い気がするぞ。


「じゃあ決まりね。詳しいことはまた連絡するから、連絡先を交換しましょう」

「ちょっとアイちゃん。そんなにほいほい連絡先を教えるのは……」


 陽山さんが言うのももっともだ。

 まだ個人情報というものへのリテラシーが世間一般に認知されていない時代だとはいえ、声優さんが一般人に連絡先を教えるのはどうかと思う。


「あら大丈夫よ。私、人を見る目はあるの。はいこれ私の番号。ワンコールしてくださいね。事務所から支給されてる仕事専用だけど」


 冷泉さんが手渡してくれたメモ用紙の切れ端には、携帯の電話番号が書かれていた。

 オレがその番号にピッチから発信すると、冷泉さんがカバンから取り出した携帯が震えた。


「それじゃあ色々決まったら連絡します。お時間を頂いてありがとう」


 冷泉さんにつられて、オレも立ち上がる。

 立ち去って行く彼女達の背中を追いながらオレは考えていた。


 オタクとしては小躍りするレベルのできごとだが、なんだか緊張してきたぞと。

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