アルマナイマ博物誌 イムサプルパの生態

東洋 夏

ch.1 四つ目の真珠

 完璧に近い紺碧の空。

 その空を、一匹の龍が翼を広げて飛んでいく。

 龍の後には飛行機雲のように真っすぐな雲が続いている。

「トゥトゥ、スコール来るわよ」

 アムが言うと、

「おお」

 と、一声、船尾の方で眠っていたトゥトゥが返事した。

 二メートル近い巨体がむっくりと上半身をもたげる様は、見慣れても迫力がある。

「起きてたの?」

「寝てた。ドクとは違って寝起きがいいんでね」

「そういうことにしてあげる」

 ふたりは手早く雨除けの覆いを上げ、帆柱の周りに真水用の壺を集めた。

 この星では雨は龍からの贈り物である。

 今回、トゥトゥのカヌーが出来上がるというので、アムは長距離航海に出ることになった。

 空港管理局には<学術調査のため不在>という書類を提出し、定期便の変更をしてもらう。

 好き好んでやっている仕事だけれど、レポートの山から逃げ出せて正直ほっとした。

 アムは汎銀河政府の許可を得てアルマナイマ星に赴任した言語学者。

 トゥトゥは、彼女の研究対象である海洋民族セムタム族の青年。

 いつの間にか相棒のようになったふたりは、いつもこうして海を渡る。

 そしてふたりには公然の秘密があった。

 それは、アルマナイマ星の神たる龍<黄金の王>アララファルと主従の関係を結んでいることである。


 ◆


 事の始まりは、海蛇を獲ろうとしたことだった。

 アムの日記によれば、アルマナイマ国際宇宙港のある島から漕ぎ出して三日目。

 ごとん、とカヌーが頷いたような音を立てる。

 カヌーの片側に付けられているアウトリガーが波で持ち上がったのだ。

 トゥトゥが反射的に銛を構える。

 その視線の先を覗くと、切羽詰まった様子の海蛇がカヌーの下を横切りながら水面目指して泳いでくる姿があった。

 海上では食料を得るチャンスを逃さないものが生き残る。

 青年の上腕の筋肉が張り詰めた。

 チャンスは一回だけ。

 いよいよ投げる。

 そう思ったアムの脳裏に、ぴんと糸が張り詰めた違和感のような、ささやかな波のようなものが走った。

「待って」

 咄嗟に口に出すと、投げる動作に入っていたトゥトゥがつんのめる。

 文句を言おうと唇を歪ませたトゥトゥが振り向いたまさにその時、海の底から波が立った。

 海蛇の体が海面から跳ね上がる。

 それを追って大きな体が海から舞い上がった。

 全体的なフォルムは巨大な魚のようにも見えたが、違う。

 海龍だ。

 顔の前面に四つ並んだ目がそれぞれ別の角度に動いて、海蛇とアムとトゥトゥを見ている。

 真珠色に輝く鱗の周りに泡が立って、それが割れるとあたり一面に音が広がった。

 <歓喜!>

 アムは、その真珠色の魚龍は笑っていたとしか思えなかった。

 長い海蛇の体をぱくりと噛み千切った龍が、身をくねらせてカヌーの船尾付近に着水する。

「おお」

 とトゥトゥが驚きの声を上げる。

 さぶりと波が立ってカヌーを大きく揺らす。

 船尾側に持ち上げられたカヌーはそのまま波にあおられて直立しそうになった。

 真水の入った瓶が重々しい音を響かせて海面に落下する。

 その音すら囁きのようにしか聞こえない。

 船体が引き裂いた八重波の放つ泡のひとつひとつから、真珠色の魚龍の声が音もなしに耳朶を打つ―――未知の振動として聴こえる―――<愉悦、愉悦、愉悦!>

 アムが恐怖に固まっていると、眼前で、トゥトゥが反り返る船底を掴んで立ち上がった。

 そして波に挑戦するように雄たけびを上げる。

 青年は、馬鹿野郎、と言ったような気もしたが、それは途中から獣の咆哮に変化した。

 トゥトゥは揺れを利用して銛を振りかぶり、海面下に打ち込む。

 帆柱と綱で結ばれている銛が矢のように走り、白い背中に突き立ったのが分かった。

 その綱がぐいっと力強く引かれた勢いに乗って、傾いたカヌーは体勢を立て直す。

 トゥトゥが笑った。

 喜びと野性を爆発させるように。

 血しぶきが頬をかすめて、それでやっとアムは我に返る。

 相手が何であれ、生きるためには売った喧嘩に勝たねばなるまい。

 カヌーは滑るように海を走った。

 時折、水面を離れて宙に浮く。

 そのたびにトゥトゥは歓声を上げ、アムは悲鳴を上げた。

 まるでジェットスキーをしているようだ。

 トゥトゥは帆を緩めて推進力を減衰させ、より相手に負担をかけていく作戦を取ろうとしている。

 帆柱がぎいぎいと悲鳴を上げて、トゥトゥは、もう少し頑張れというように柱に拳をあてた。

 アムは転がらないようにカヌーの底に固定されていた予備の投げ銛と、ふたりぶんの剣の結束を外す。

 こちらの銛には綱はついていない。

 綱付きのそれよりも細く、飛び道具として綱の先にいる獲物に攻撃を加えるためのものだ。

 自分の剣をさっと佩くと、右手に投げ銛を一本、瞬時躊躇してトゥトゥの黄金色の剣もまとめて持って、ぐらつくカヌーの底を慎重に渡り始める。

 この黄金色の剣はいわくつきだ。

 トゥトゥはこちらを見ないが、気配を察して

「銛」

 と言い、右手を突き出した。

 アムが手渡すと、ひと呼吸で投げる。

 さらなる痛みに襲われて激高した獲物が、身を翻して海面を突き破った。

 ようやくアムにも、何を追っていたのかが見える。

 コンマ数秒の間に感じたのは、まず龍が相手でなかったという安堵。

 それから、カヌーの半分以上の全長はあろうかというその海獣の大きさに慄いた。

 古代地球産の生き物に例えるならば、鮫に近い。

 流線型の頑丈なボディは海の色になじむ輝緑色、歴戦の傷跡を持つ力強い背びれと尾びれ、螺旋の溝を持った乳白色の鋭い角が鼻先から生え、その下に開いた口の中には二重になったおろし金のような牙が並んでいる。

 名づけるなら一角鮫とでも言おう。

 それが、頭の上から降ってくる。

 直撃コース。

 アムは、思考の最後のコンマ一秒で黄金色の剣を解き放つ。

 後から振り返ってもどうしてこの時、反射的に自分がこんな無謀なことをやらかしたのか、まったくもって理論的な説明はできない。

 ただ剣がそのように仕向けた、アムを操っていた、ということはわかる。

 信じられないような速さで黄金色の剣が風を斬った。

 瞬きひとつの間に、鮫がカヌーの底いっぱいに伸びていた。

 胴体が縦一文字に断ち割られている。

 手にぴりぴりと痺れるような感覚が走った。

 やはり、と思う。

 黄金色の剣の、その素体となった命の意志がアムの手のひらに通っている。

「ドク、おおい、ドク!」

 大きな手のひらが、アムの肩をがしっと包んだ。

「大丈夫か、ドク」

 振り返ればトゥトゥが眉間に皺を寄せて、訝しげな顔でアムを見つめている。

 深海色の瞳にこごっているのは、純粋な心配の気持ちだ。

 セムタム族は本当に表情豊かなのね、という、この場には似つかわしくないことをアムは思う。

 それだけ呆然としていたのだろう。

「よしよし頑張った。だから、剣、放しな」

 トゥトゥがそっと手を伸ばして、アムの固く握られた拳に触れた。

 それで呪縛が解けたように、アムの手から黄金色の剣が滑り落ちた。

 慎重に剣を拾ったトゥトゥは静かに鞘に納めて、アムの目に触れないところへ置く。

 トゥトゥは腰に手を当て、片方の眉毛をちょいと吊って、わざとおどけた調子で言った。

「今度会ったら、ちいとばかし文句を言わなきゃいけねえな。あのアララファルの野郎に」

「ちょっとトゥトゥ、あなた<黄金の王>の従者なんでしょ」

「以前ドクが教えてくれた言葉をあいつに教えてやれよ。働かざるもの食うべからずとかいうの」

 そんなやりとりをしていると、カヌーが微かに不自然に揺れた。

 顔を上げると、船首側の海面が静かに泡立ち、ぷかりと真珠色の頭が浮かび上がる。

「まだいやがったか」

 トゥトゥが毒づく。

 魚龍はアムとトゥトゥをしばらく凝視してから、また静かに波間に消えた。

 その時、ふわりと漂ってきた泡がカヌーのあちこちで音もなく弾けた。

 泡の中には大音量の怒声が包まれていて、アムは咄嗟に耳を塞ぐ。

 <不快、不快、不快!>

 負けじとトゥトゥが叫んだ。

「うっるせえな、ボケ!」

 それきり海は、静かになった。


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