第3話 煙草は吸殻入れに
沙希の入院生活は、結局五月半ばまで続いた。
それまでの間、俺は結局ほとんど毎日見舞いに行っていた。担任の命令で、保健委員の役目だから、などと口では言っていたが、もちろん嘘。でっち上げた口実に過ぎない。今だから白状するが、完全な一目惚れだった。
放課後になると、委員会がない日はまっすぐ病院へ向かう毎日。塾や家庭教師があるせいで、面会時間ぎりぎりまでいられないのが残念だが、贅沢など言ってられない。それに、以前に比べて勉強にも熱意が沸いてきた。本気で医者になりたいと思えてきたのだ。
……沙希のような人を助けるために。
病室での話題といえば、その日に学校であったこと、クラスメイトのこと、勉強のことなど。他愛もない話ばかりだが、時間はあっという間に過ぎ去っていく。
その日も、看護婦連中に冷やかされながら病室に向かい、五〇一号室のドアをノックした。
「霧島くん?」
きれいなソプラノが響く。
「ああ。入るよ」
まだボーイ・ソプラノの俺の声。ドアを開けて入ると、ベッドの上にかしこまって正座した沙希が、こちらを見て微笑んでいた。まぶしいくらいの笑顔。
「ようこそ」
そのまま三つ指突いてお辞儀する。
「……なんだい、あらたまって」
今日の分のノートを鞄から出しながらたずねる。勉強が遅れないように、写しておいたのだ。
「決まったの」
「だーかーら、なにが?」
沙希が相手だと、そんな口のきき方も不思議と和らいだものになる。
「明日、退院なの」
手が止まる。数学のノートを見つめながら、なにか言わなければと必死に考える。同時に、なんでショックを受けたのかいぶかしむ。
「……おめでとう」
沙希に気づかれないよう、作った笑顔で答える。
「いろいろお世話になりました」
もう一度、沙希は三つ指突いてお辞儀をした。
「いえ、こちらこそ」
こちらも深々とお辞儀する。周りを見回すと、数少ない所持品はあらかた荷物にまとめられていた。
「……結構、少ないんだね、荷物」
寂しい感じがするのは、そのせいだろうか?
「うん。ゆうべ、霧島くんが帰ってからお父さんが来て、ほとんど持って帰ってくれたの」
「ふーん」
沙希の父親、浜田
沙希が、毎日見舞いにきてくれていると言って俺を紹介すると、三十代半ばの父親は目頭を押さえて何度も礼を言った。こちらが恐縮するくらいに。
「そうか。入院生活も終わりか」
「そうね」
「じゃあ……ここに来るのも、これで最後か」
自分が放った言葉が、自分自身に突き刺さった。
そうだ。終わるのだ。
今までの二人の関係が。
明日からは、ただのクラスメイトになる。
パサ、と最後のノートをテーブルにおいて、沙希の方を振り返る。
「浜田……?」
沙希は泣いていた。正座したまま、ひざの上の夜具のすそをぎゅっと掴んで、肩を震わせながら。まさか、彼女も……。
「どうしたの? いったい……」
「……なんでもないの。ちょっと、センチになっちゃって」
涙をぬぐい、部屋の中を見渡す。
「ずいぶん長く、ここにいたから」
そう……沙希は中学に進学してすぐ入院し、右肺を摘出する大手術を受けたのだ。ところが予後が悪く、何度も感染症などを併発して生死の境をさまよい、この春になってようやく起きられるようになったという。
……以上、看護婦連中からの受け売り。
「懐かしい?」
努めて明るい声で言った。
「うん……でも、いい思い出ってほとんどないから……」
うつむく沙希。
「そうか……闘病生活だもんね」
俺がそうつぶやくと、沙希はぱっと顔を上げて言った。
「で、でも、霧島くんが来てくれるようになってからは別よ!」
真剣な声。
「ほんとに?」
「ほんとよ!」
力いっぱいの肯定。
……なんだか、胸のあたりがぽっと暖かくなってきた。耳鳴りがガンガンしだす。しばらくして、それが自分の心臓の音だと気づいた。沙希の顔にも赤味がさしている。きっと、俺の顔も赤いんだろう。二人とも、まともに顔が見れず、しばし黙り込む。
やがて、沙希はぽつりぽつりと語りだした。
「去年、入院してすぐは、結構クラスメイトや小学校の頃の友達が来てくれてたの。でも、手術が終わってからはだんだん少なくなって……わたしも、ほとんど眠ったままだったから……」
沙希の方を向くと、つい、と涙が頬を伝うのが見えた。
「それで……ようやく起きられるようになったら、みんなは中二になっていて……わたしだけ、一人取り残されちゃったような気がして……」
涙は後から後からあふれ出てくる。俺はもう、目をそらすことができなかった。
「でも、霧島くんは、毎日来てくれたから……嬉しかったの。ほんとに嬉しかったの」
ぴくん。身体に
……ひとしきり泣くと、沙希は落ち着いたようだ。
「ごめんね、なんか、泣けちゃって……」
「いいんだよ」
答えながら、なにか大事な瞬間を逃したことを感じていた。
涙をぬぐい、沙希はもう一度お辞儀した。
「明日からよろしくね、こんどは学校で」
しかたがない。こうなったら自分にできる唯一のお返しをするしかない。
「こちらこそ、よろしく」
その日も塾があるので、面会時間の終わる一時間前に病室を出た。ドアを閉めてから、しばしその前でたたずむ。
もう、ここに来ることはないだろう。明日からは学校で毎日会える。でも、それは沢山いるクラスメイトの一人としてだ。だから……
深呼吸して、決心する。明日からが、ほんとの交際のはじまりなんだ、と。
そう考えると、ようやく気分が上向いてきた。しっかりしろ、聡。彼女が元気になったんだ。素直に喜べ!
などと考えていて、自分が使った「彼女」という単語に反応して勝手に赤面するあたり……救いようのないほどガキだった。
「霧島君」
あらたまった呼び方をされて声のほうを向くと、浜田氏……沙希の父親が立っていた。
「あ、こんばんは」
「ちょっと、いいかな?」
そういうと、返事も待たずに談話コーナーの方へ歩き出す。やけに深刻な口調が気になったが、すぐに後を追う。
「なにか飲む?」
自販機の前で聞かれたので断った。浜田氏は俺に椅子をすすめると、隣に腰をおろして煙草に火をつけた。いつもなら吸ってもいいかと聞くのに。
「浜田、明日退院なんですね。よかった」
「うん……そのことなんだが……」
言いよどむ。ますます変だ。
俺が黙っていると、浜田氏の表情は沈鬱さを増していった。やがて、耐え切れなくなったかのように話し出す。
「霧島君。君にはほんとに感謝している。ここ何週間か、沙希は本当に幸せそうだった。みんな君のおかげだ。お礼のしようもない」
「そんな……お礼だなんて」
本心からそう言った。なんたって、俺の動機はいわゆる「下心」だったんだから。
「だが、それも今日で終わりにして欲しい」
え?
「明日からは、普通のクラスメイトに戻って欲しい」
……下心を見抜かれていた?
「あの……俺は……」
「君が沙希に好意を持ってくれるのは嬉しい」
……え? なら一体……。
「だが、沙希は……沙希の病気は……」
そうか、そういうことか。
俺は、ずっと心に引っかかっていた病名を口にした。
「癌、ですね」
浜田氏の指から、煙草がポロリと落ちた。
「君……どうして……」
俺は立ち上がると煙草を拾い上げ、吸殻入れに捨てる。安物とはいえリノリウムだ。焦げ目を作っちゃマズイだろう。
「俺、親父がここの医者なんで、看護婦連中に顔がきくんです」
両手をポケットに突っ込み、話を続けた。
「聞いたらみんな、浜田の病状は詳しく話してくれたんです。手術のことや、感染症のことや、何度も死にかけたことも」
「……」
「だけど、誰一人、病名を教えてくれなかった。無理に聞こうとするとはぐらかすんです。口にできない病名って言ったら、癌ですよね」
しばし、沈黙。凍りついたように動かなかった浜田氏だが、やがて大きく息を吐いた。
「君は……本当に聡明な少年だ」
気のせいか、「少年」にアクセントがあった。
「だが、おそらく君の知らない事実が二つある」
もう一本の煙草に火をつけ、長く吸い込むと、煙と一緒に言葉を吐き出した。
「一つめ。沙希は、そのことを、知っている」
一語一語、はっきりと。
「まさか……」
「二つめ。小六の時、沙希は母親を癌で失っている」
初耳だった。
「はじめは乳癌。二年後に再発し、全身に転移していた」
「でも!」
反論しなくては。
「親父に聞いたんです。早期発見してきちんと処置すれば、癌だってちゃんと治るって!」
沙希の癌は、片方の肺もろとも切除されたはず。
「母親の乳癌もそうだった」
にべもない。
「発見しても、転移する前でなければ意味がない。腫瘍が小さくても転移しやすい種類の癌がある。その場合、小さくても早期とは限らない」
「まさか……」
「母親の場合も、乳癌は小さな腫瘍だった。しかし、癌細胞は既に血流に乗って全身をめぐっていた。沙希の場合、どこに転移するかは……神のみぞ知るだ」
もう一度、深く煙を吸い込み、言葉と共に吐き出す。
「沙希は知っている。母親の癌が再発だったことを。末期癌の苦しみを。あの子は、最後まで母親に付き添っていた。私が仕事に行っている間も、苦痛にのた打ち回る母親の手を握りつづけていたのだ。そして……この種の癌の素因子が遺伝することも。検査の結果、どこかにまだ癌細胞が潜んでいるらしいことも」
それじゃあ……。
かわいそうな沙希。あいつは、自分がどんな風に死ぬかを知っているのだ。体中を食い破られるような激痛に、精神もボロボロにされながら、ただ死を待つ日々を過ごす……。そんな、そんな!
「君にそんな思いをさせるのは、私も娘も望んでいない……」
ぎゅっと目をつぶる。考える。俺は……俺は耐えられるのか? 沙希は耐えたのに!
「あなたが見落としている点がありますよ」
俺は決心した。
「沙希は小学生だった。でも、俺は中学生です。それに……俺は男です!」
セクハラかもしれない。だが、女より弱虫な男なんて許せない。それが自分なら、なおさらだ。
俺は浜田氏に向き直った。ガキでも、決意する時はする。
「俺、沙希に愛想つかされるまで、頑張りますから」
言い置いて歩み去る。ちらりと振り返ると、浜田氏はうつむいて煙草をふかしていた。陰になって表情は見えない。何を考えているのかも……。
後になって思う。もしこの時、浜田氏の心の中をのぞくことができれば、あの悲劇は起こらなかっただろうに、と。しかし……俺だって神様じゃない。
エレベータを待つ気にはなれなかった。階段を駆け下りる途中で、ふと気がつく。さっきの最後のセリフ。……浜田じゃなくて、沙希と呼んでしまった。まずかったかな?
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