見知らぬ指輪/古い歌が流れる街
秋色
前編 ビーズの指輪
俺には不満なんてなかった。世間で言う幸せな毎日を送っている。そう、少なくとも今朝、目が覚めるまではそうだった。
俺の名、篠田達也の表札のかかった郊外の庭付きの一軒家にはいつも笑い声が響いている。それに、近所との関係も良好だ。北欧式住宅のスタイリッシュな作りは、まるでリゾート地のペンションのようだと友人からの評判も良い。
俺には勿体ないような妻と幼い息子と、生まれてまもなく一年になる娘、それにペットのイタリアングレーハウンドもいる。
今朝、いつもの休日のように、妻の焼くトーストの匂いで目が覚め、隣の小部屋に足を運んだ。そこはいつも物置のように使っている二階の小部屋だ。日曜日には古新聞の整理をするので、束ねる紐を探しに行ったんだ。不意に、机の上に置かれたビーズの指輪が目に入った。
指輪は花が連なっている、小学生の低学年の子がしていそうな指輪だった。一つ一つの花は、七つのビーズの花びらとそれに取り囲まれた一個の透き通った赤のビーズの芯とで構成されている。花びらの色は、透き通ったグリーンの花びらと透明なビーズの花びらの二パターンで、グリーンの花と透明な花が交互に編まれている。
「忘れてた。それ昨日見つけたの」妻が言う。
妻が衣替えをしていて、普段使わないクローゼットの中で見つけたのだそうだ。
「そこにあなたの昔の鞄があるでしょ? それを取り出そうとした時、コロンと転がり落ちたの」
そのビーズの指輪には全く心当たりはなかった。なぜ俺はいつものようにそのままゴミ箱に放り込んでしまわなかったのだろう。つい、机の引き出しの中にしまい込んでしまった。
長男が作ったのか? いや、まだそんな事の出来る年齢ではない。折り紙さえ上手く折れない。
妻からは、俺の初恋の相手との思い出の品ではないかと勘ぐられた。
「好きな女の子がいたって言ってたじゃない?」
小学校から中学校まで憧れていた女の子が一人いた。スポーツの得意な爽やかな子。でもその女の子には他に好きな男子がいて全くの片想いだったので、何かを贈り合った事などあるわけない。
でも何だろう? ビーズの指輪を見つめるとぼんやり浮かんてくる、素朴な笑顔の若い女性の白い顔がある。それが誰だかは分からない。恋人とかではないと思う。モヤモヤする。
「ねえ、もうあの鞄、処分してもいいんじゃない? 随分時代遅れな感じするけど」妻は言う。
「いや、あれはあれで思い出があるし、とっとくよ」
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「翔くん、あーそーぼ!」
玄関で女の子の声がした。いつも息子と遊んでいる近所の女の子、梨亜ちゃんの声だ。今日も息子を誘いに来た。
妻が玄関を開ける音。
「いつもの隠れんぼにする? それともお外で遊ぶ?」と家の中にいる息子に向かって呼びかける梨亜ちゃん。
「どうしよっかな」と息子。
「ほら二人とも、ホットケーキを焼くから、中に入って」と妻。
二人の可愛い歓声が聞こえる。
やがて翔と梨亜ちゃんがトコトコと廊下を走り、二階へ駆け上がって来る足音が聞こえた。二人は俺のいる部屋に入って来た。そして指輪の置かれてある机の所まで来ると、梨亜ちゃんが叫んだ。
「あ! これ、ソレイユさんさんパークの中のお店で売ってるビーズのアクセサリーだよねー」と。「あたしもいっぱい持ってるよ!」
「え? ソレイユさんさんパークって、あの美術館の向こうにある公園?」と俺。
ソレイユさんさんパークは公園に遊園地を足したような場所だ。
「じゃあこれは梨亜ちゃんの指輪だったんだ」
「違うよ。これはあたしんじゃない」
「じゃあ他のお友達のかな。他の子もビーズのアクセサリーを持ってる?」
「近所の女の子はみんなビーズで作ったかわいいの、持ってるよ」
これで分かった。翔が近所の子と家の中で隠れんぼした時に誰かがクローゼットの中に隠れていて落としたんだ。あっけなく解決。
みんなで食べるホットケーキ。妻のホットケーキは少し甘すぎるけど、子ども達には好評だ。ガラス戸の向こうの庭から、小鳥のさえずりが聞こえてくる。近くに林があるせいか、野生の鳥がよく庭に迷い込み、それに気付いた息子を喜ばせている。家族の誰にとっても、鳥のさえずりを聞きながら過ごすひとときは幸せに決まっている。
「そうだ! 今日、ソレイユさんさんパークへ行こうよ、パパ。梨亜ちゃんも一緒に。ねえ、パパ〜」と翔がねだる。
「そうだな。今日は天気もいいし、パパと行こうか」と俺。
「あら、いいの? あなた、翔と梨亜ちゃん、連れて行ってくれる? それなら私はサンドイッチ作るわ。萌音ちゃんはママとお留守番ね」
そんな風にいきなり今日の予定が決まった。朝の指輪に関するモヤモヤが解決したから、霧が晴れたように爽やかな気分でもあり、出かけたくなったというのもある。
バスがソレイユさんさんパーク前に着くと、もう初夏の暑さだった。頭上に広がる水色の空は確かに夏の気配。辺りには家族連れが多い。小さな子ども達は皆、入り口でもらった風船を手に持っているので、園内はパステルカラーにあふれていた。
乗り物にも飽きてきた頃、梨亜ちゃんが俺を呼び止めた。
「あ!おじさん、ここがビーズを売ってるお店だよ」
見ると、ソフトクリームを売っている屋台とホットドッグの販売車のバンの間にある屋台でビーズの小物を売っていた。女の子にも男の子にも人気のようで、屋台の前には人だかりが出来ていた。
遠慮がちに人だかりの中に混じり、自然と前に進む。グリーンと透明のビーズの花を繋いだ指輪を探すが、同じ物はおろか、似たデザインの物もない。指輪はあるが、模様を織り込んだ帯型の物だけだった。俺は思わず屋台の女店主に聞いた。
「花の形をいくつも並べたような指輪って置いてない?」
女店主は少しそのデザインを思い出すような感じだったが、すぐに「ハイハイ、あの、よく子どもが作る花の指輪ね。あれなら無いよ」と言った。
「いま、ちょうど切れてるって事?」
「いや、元からうちには置いてないよ。もっと手の混んだのばかりだから」
じゃあ今朝、机の上にあったあの指輪はここで近所の子が買った物ではないという事か。でも他のビーズの指輪を、隠れんぼしていた子どもが落とした可能性は依然ある。そう思いながらもあの暗いクローゼットに子どもが入りたがるだろうかという疑問もあった。それに指輪と一緒に思い出されるあの若い女性の顔は一体……。
「パパ見て! 似顔絵だよ」
見ると、ベレー帽の画家がサイコロ型のカラフルな椅子に腰掛けた家族連れの似顔絵を描いているところだった。周りには見本となるたくさんの似顔絵が飾られてある。どれも笑顔に満ちあふれた家族の絵だ。
「ねえ、僕達も描いてもらおうよ」と翔。
「そうだな。描いてもらおうか」
俺は指輪の謎がまだ残っていてモヤモヤしている気持ちを晴らしたくて、翔の提案に乗った。
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