第2話 久々の客

「……はぁ」


 カウンターに立つ雫から、とてつもなく大きな溜め息がこぼれる。


 それもそのはず、かれこれ三日間も客が来ていないのだ。

 現在の時刻は深夜一時過ぎ。きっと今日も客は来ないだろう。


(店を開いたのは失敗だったかな……)


 約半年前。

 交通事故で亡くなってしまった両親の遺産と自分の貯金をはたき、両親が道楽でやっていた実家の一階部分の飲食店を居抜いて<バー ドロップ>を開店した。


 24歳の若さで、いきなり自分の店を持つことに不安はあった。

 だが、その時勤めていた銀座のバーに不満を覚えていたし、何より両親の遺していった遺書にも『そうしてくれると嬉しい』と書かれていたため、独立しないという考えは毛頭なかった。


 ……ただ、いざ開店してみると客足は想像以上に少なかった。


 ここは静岡の郊外にある住宅街。

 住人の数は多いものの高齢者がほとんどで、バーに来るような客はほとんど居ないことが後になってわかった。

 たまに来るのは、地元に帰ってきたサラリーマンか大学生くらいだ。


 家賃こそ掛からないが、固定資産税などの税金や生活費を考えると赤字も赤字、大赤字である。

 今は貯金で何とか暮らしているが長くは持たない。


 正直、見通しが甘すぎた。文字通り、店を開いたのは大失敗だった。


「……ボトルでも拭くか」


 しかし、今さら後悔したところでもう遅い。

 雫は気分を変えるため、ボトルの掃除をしようと後ろの棚に手を伸ばした。


 その瞬間――


「――じ、地震!?」


 店が大きく揺れ出した。これはかなり大きな地震だ。


 雫は急いでテーブルの下に潜り込み、揺れが収まるまでギュッと目を閉じながら待った。


(お、収まったっぽいな……)


 数分が経ち、恐る恐る目を開けると電気が消えてしまっていた。

 地震による停電らしい。

 雫は棚の中から懐中電灯を手に取り、店内を見回した。


「はぁ、良かったぁ」


 かなり大きな地震であったにも関わらず、ボトルやグラスは一本も割れていない。

 事前に講じていた地震対策が功を奏したようだ。


 ほっと胸を撫で下ろした雫は棚の中からロウソクを取り出し、カウンターと各テーブルに設置して火を灯す。

 それが終わると、今度は脱出口を確保するため店の扉を押し開けた。


 その瞬間、雫は時間が停止したかのように身体を硬直させた。

 目に思いもよらない光景が飛び込んできたからだ。


 視界に映るのは、石畳で舗装された道路に三角屋根の建物の数々。


「どこ……ここ……?」


 見慣れた街並みとあまりにもかけ離れたその光景に、思わず言葉が漏れる。


「――ン? ナダオカエネミ、ンャチイニダンナ」


 そのまましばらく呆然と立ち尽くしていると、突如として男性の声が聞こえてきた。

 急な出来事に雫はビクッと身体を震わせつつ、恐る恐る声の持ち主に目を向ける。


 そこには到底日本人とは思えない、茶色い髪を角刈りにした大柄で筋骨隆々きんこつりゅうりゅうな男が立っていた。


「イオ、カルテイキ?」


 その男は何か話し掛けてきているものの、雫にはさっぱりと理解できない。

 一体どうしたものかと困り果てていると、男は何か気が付いたかのようにハッとした表情を浮かべた。

 そして、念仏のように次々と言葉を吐き出し、言い終わると右手を広げて伸ばしてくる。

 すると手の先から光が放出され、雫を照らし出した。


「どうだ? わかるようになったか?」

「えっ? あ、はい」


 突然流暢りゅうちょうに日本語を話し始めた男に驚きつつ、雫は答える。


「そうか。やっぱり迷い人だったんだな。それで……これは何だ? 店っぽく見えるが」

「えっと、うちはバーですけど……」

「ほお、バーか。店ごとこっちに来るなんて珍しいこともあるもんだな。よし! せっかくだし一杯もらえるか?」

「は、はいっ! では、中へどうぞ!」


 現状を全く理解できていないものの、何はともあれ待ちに待った久々の客だ。

 雫は色々と考えるのは後にして、男を店の中に案内した。


「何だ、えらく暗いな」

「すみません、どうやら停電してしまったようで……」

「別に構わねえよ。これはこれでなんか洒落てるしな」

「そう言ってもらえると助かります。では、こちらに」

「おう」


 案内に従い、男はカウンターの一番奥の席に腰を下ろした。

 雫はすぐさまカウンターの内側へと入り、コースターと紙おしぼりを差し出す。


 続いて、先ほど置いたロウソク立てを手に取り、ボトルがぎっしりと並べられた後ろの棚を照らした。


「お、おい。もしかしてこれ全部酒なのか……?」

「はい。ここからここまでがウイスキーで、この一角がリキュール。こちらがブランデーで、向こうにあるのが――」


 雫は陳列棚バックバーを指で差しながら、酒の説明を行った。


 ドロップでは日本酒や焼酎といった和酒は取り扱っていないものの、洋酒は幅広く扱っている。

 中でもウイスキーとリキュールに力を入れており、それらだけでも百種類は優に超える。


 雫にとっても自慢のラインナップだ。


「こりゃ凄えな……。悪いが俺はビールとワイン以外飲んだこと、いや、名前を聞いたことすらねえんだ。だもんで、何を注文すりゃいいのかさっぱり……」

「そうでしたか。ビールとワインもありますが、そちらにされますか?」

「いや、せっかくだし他の酒を飲んでみてえな。よし、その緑色のやつを頼む! 見た目が気に入った」


 言いながら指を差していたのはスコットランド産のウイスキーの一つ、グレンフィディック12年。

 数あるウイスキーの中でもトップクラスに飲みやすい銘柄だ。

 入門にはちょうどいいだろう。


「かしこまりました。少々お待ちください」


 雫は棚からウイスキーとロックグラスを手に取り、カウンターに置いた。

 次に氷を取り出すため台下の冷凍庫を開けると、庫内の灯りが消えていることに気付いた。


(そうだ、停電しているんだった。これはマズいな……早く電気が復旧してくれないと氷が――っと、今は先にドリンクを出さないと)


 停電してから間もないこともあって、幸い氷は溶けていない。

 今後に不安は残りつつも、事前にカットしておいた子供の拳ほどの氷を一つ取り出し、トングを用いてゆっくりとグラスの中へと入れる。


 そして酒の分量を量る道具――メジャーカップを使い、一杯分をしっかりと量ってからグラスにウイスキーを注ぎ入れた。

 最後に酒を撹拌かくはんさせるための柄の長いスプーン――バースプーンを用い、氷を回転させる。

 そうすることで、急速にウイスキーを冷やしてから、コースターの上にそっと置くようにして提供した。


「お待たせいたしました。グレンフィディックという、ウイスキーのロックです。非常に度数が高いので、ゆっくりとお飲みください。あ、飲みにくいようでしたら、水か炭酸を加えますのでおっしゃってくださいね」

「おう、ありがとよ。それじゃあ」


 男はゆっくりとグラスを傾け、琥珀こはく色の液体をすするようにして口に含む。

 そして喉を鳴らして飲み込むと、ひと呼吸置いてから大きなため息を一つ。


「これはまるで喉が焼けるみてえだ……。だが、美味い! こんな味わい深い酒は初めてだ!」


 その言葉を聞いて、雫はようやく緊張感から解放された。

 口に合うかどうか不安だったが、杞憂きゆうだったようだ。


「お口に合ったようで何よりです!」

「おう! こりゃたまらんぜ……って、いけねえ。俺は用事があるんだった。勘定かんじょうしてくれるか?」

「あっ、そうだったんですね。わかりました。えー、一杯なので600円ですね!」

「ロッピャクエン……? ああ、そうか。兄ちゃんは言葉も通じてなかったし、多分まだこっちに来て間もないんだな。しかし、説明してやれる時間も……そうだ! 兄ちゃんに役立つ奴を来させるから、そいつに払ってもらってくれ」

「えっ? あっ、はい……」


 勢いに押され、雫は反射的に承諾してしまった。


「わりぃな! それじゃあ、また来るわ!」


 男はそう言うとウイスキーを一気に飲み干し、勢いよく店から出ていった。


(……まあ、飲み逃げするような人には見えなかったし、多分大丈夫だろう)


 雫は男の言葉を信じ、その『役立つ奴』とやらが来るのを片付けながら待つことにした。


「……あれ?」


 しかし、ここで問題が一つ。

 グラスを洗おうと蛇口を捻っても、水が流れない。


 何度か捻っては戻しを繰り返しみるが、一向に水は流れてはくれなかった。


(停電だけじゃなく、断水まで……)


 確かに大きな地震であったが、自分が想像していた以上に大規模な揺れだったようだ。

 事態の深刻さに改めて焦りを覚える。


 同時に、後回しにしていた疑問が一気に頭の中を駆け巡った。

 さっき見た光景は一体何だったのか。

 それを確認するため、雫はもう一度外に出ようと店の扉に手を当てた。


 その瞬間、まだ力を入れていないのにも関わらず、勢いよく扉が開かれた。

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