夢への足掛かり編 第七話
「孝文さん。私、あなたの事が好きです」
ほなみさんからの告白だった。正直、信じられない。確かに俺はほなみさんには極力優しく接していた。嫌われてはいないだろう、という意識の元、あくまで店主と客の関係を維持していた…つもりだ。
「酔っては…?」
「ないです!お酒飲んでませんので!」
確かに、ほなみさんは酒は得意ではないと言ってソフトドリンクを飲んでいたので酔う事は無いだろう。
「冗談でも…?」
「ないですっ!私は真剣です!!」
どうしたものか…なんて言えばいいのかが分からない。…だが、確実に言える事はある。
「俺も、ほなみさんの事は好きです」
「!!」
ほなみさんは嬉しそうに顔を緩める。
「ですが…今はお付き合いすることはできません」
「えっ…なんでですか…?」
今にも泣きそうな顔だ。俺は、彼女にこんな顔をさせたいわけではない。
「俺だって、付き合いたいですよ。ですが今は、お互いにやる事があります。俺は引っ越し先で、ほなみさんは店で。そんな状況の中でもし俺たちが付き合ったら…どちらかが、又は両方のやる事が上手くいかなくなる可能性が出てきます。俺は、そんな未来を望んではいない」
そう、もし付き合う事になって本来のやるべき事では無い事にうつつを抜かしていては、望まない結果を迎えてしまう可能性もある。これは、避けるべき事だ。
「で、でも…」
「もちろん付き合って両方のやる事をしっかりと出来る場合も考えられます。だけど…多分ですが、可能性は低いでしょう。それは、俺が弱いから。もし付き合ってしまえば俺はほなみさんに甘えてしまう。そうなっては、やるべき事を出来なくなってしまう」
今言った事は本心だ。俺は弱いから甘えてしまう。ただ…それ以上に、今のほなみさんは課題が多すぎるので、それを踏まえてでもなかなか難しい”Katze”の立て直し。確かに今日行った時には数名の客が来ていたから着実に客足は回復しているだろう。だが、もしここで客足が打ち止めになったら?きっと、今の段階ですら店を開くだけで赤字になっているだろう。これがさらに悪化したら…ほなみさんのやりたい事が叶えられなくなってしまう。だから今は、他の事にうつつを抜かしている暇なんて無いはずなんだ。
「……」
ほなみさんは下を向いている。街灯に照らされ、キラキラと滴るものが見えた。きっと、泣いているんだろう。
「ねぇ、ほなみさん」
「はぃ…」
顔を上げると、やはり泣いていた。綺麗な顔がぐしゃぐしゃだ。
「きっと俺は、これからもほなみさんの事が好きです」
「私だって…っ!」
「なので…やりたい事が叶えられても、叶えられなくても。その時が来た時にまだ俺の事が好きだったら、その時は付き合ってくれませんか?」
これが、今の俺に出来る限界だ。もちろん、”Katze”が上手く立ち直っても、立ち直らなくても、その時までほなみさんが俺の事を好きでいる確証は無い。だが、これが今出来る最適解、最善策だろう。
「わかりました…っ!私、頑張ります!」
「えぇ、お互いに頑張りましょう」
ほなみさんはくしゃくしゃの泣き顔から、決意を決めたような、やる気に満ちた顔つきに変わった。それを俺は、優しく見つめる。
「あ、あの…」
「はい?」
「今はまだ付き合っていませんけど…これからも、好きでいます。なので…抱きしめて、くれませんか…?」
おいおいおいそれは反則だろう。
ほなみさんは、上目遣いで顔を赤くしながら俺の顔を見てきたのだ。こんなにも綺麗な人、好きだと気づいた人にそんな事を言われたらサッカーでオフサイドしながら手を使ってドリブルするレベルの反則だろう。
「だめ、ですか…?」
「うっ……分かりました。ダメだなぁ、俺はほなみさんには敵わないな」
俺はそっと近づき、ほなみさんを優しく抱きしめた。柔らかく、温かい感覚が伝わってくる。ほなみさんは小柄なので、抱きしめると丁度俺の顎下に頭がくる。心臓バクバク言ってるけど、聞こえてないかな。もし聞こえていたら、恥ずかしいな。
それから何分くらいだろうか?長いこと抱き合っていた気がする。
「ほ、ほなみさん?もう、いいですか?」
「…まだです」
「はい…」
まだですかっ!?俺にだって、多少は煩悩があるんですよ!?
「あのぉー…」
「…まだです」
俺の自制心、耐えてくれるかな…?
「ふふっ」
「うん…?」
今、ほなみさん笑ったか?
「あははっ、はじめて孝文さんにいじわるした気がしますっ」
「ちょ、ちょっとほなみさん!このいじわるは恥ずかしいですよ!」
俺は勢いよく抱き合うのをやめた。恥ずかしい事を長時間もさせるんじゃないよ、まったく。
「心臓、ドキドキしてましたね」
「あ、やっぱり聞こえてたのね…恥ずかし…」
「でも!私でドキドキしてくれて嬉しいです!」
「あぁ、うん…そりゃ好きな人相手だとドキドキしますよね…」
「「……」」
沈黙が流れる。そりゃ、こんな状況ではまともな会話も出来ないだろう。
「ねぇ、孝文さん」
「はい、何ですかほなみさん」
「私…頑張りますね。これまでは、お兄ちゃんの夢だったから、ってお店を残すことを考えていました。だけど今は、お店が楽しいんですよ。お客さんも増えて、コーヒーを美味しいよ、って言ってくれるんです。私は、もっとお客さんが喜ぶ姿を見たくなっちゃいました。だから料理ももっともっと頑張ってお店で出せるようにして、もっともっとお客さんが喜ぶ姿を見たいです。だからこれからは、お兄ちゃんの夢と一緒に、私が見たい姿を叶えるために、頑張ります!」
「…えぇ、頑張りましょうね」
ほなみさんは肝が据わったような、真剣な顔をしていた。決意を決めたようだ。月の光に照らされるその表情は、とても…とても美しかった。
「…さて、風が出てきたのでそろそろ帰りましょうか」
俺たちは公園を出て”Katze”に向かって歩き出す。会話は無かった。ただ、お互いを信頼しているかのように横に並びながら、歩幅を合わせて歩いていく。時折吹く夜風が恥ずかしさから火照った身体を丁度良く冷ましてくれた。
すると、俺の右手に暖かく、柔らかい感覚が包み込む。見ると、ほなみさんが俺の手を握っていた。
「…ほなみさん?急にどうしました?」
「だめでしたか…?」
だめじゃないですっ!と言いたいところだが、そんな急にかわいい事しないでくれよ…自制心がもたんぞ…
「だめではないですけど…俺たちはまだ付き合っているわけではないんですよ?」
「じゃあ、予行練習です!」
あぁ、そうきたか。なるほど。これは納得せざるをえないのか?
「あ…」
「孝文さん?どうかしましたか?」
「いや…”Katze”に着きましたよ」
「えっ」
そう、俺たちはいつの間にか”Katze”に着いていたのだ。たしかにあの公園から一本道で10分程歩くとはいえ、俺たちは恥ずかしさからかほぼ無言で歩いていたわけだ。そんな状況であればおのずと足早になるだろう。
「うぅ、やっと手繋げたのに…」
「…ほなみさん、まさかそればかり考えていたから無言だったんですか?」
「…そうです!手、繋ぎたかったんです!」
あ、この子吹っ切れたぞ。まぁ、タイミングとかあって難しいよな。
「…ひとまず、着いたわけですが。」
「まだもうちょっと繋いでたいです!」
「いやでも着いたわけで」
「やだ!もうちょっと!」
駄々っ子になったぞ。吹っ切れて駄々っ子とな。やっぱりほなみさんは面白いな。
「とはいえ、明日の準備とかあるんじゃないですか?もうこんな時間ですし、はやく家に入ったほうがいいですよ」
「うぅ…」
ほなみさんはまだ手を離さない。むしろ、さっきよりも強く握ってきているくらいだ。
焼肉を食べに行く前は、急いで店仕じまいをしていたはずだから、明日の開店準備をしていないはずなので早めにそれに取り掛かったほうが良いとは思う。
「確かに、まだ明日の準備は出来てません…」
「そうでしょう?であれば、早く取り掛からないと」
「でも、孝文さんもうすぐ引っ越しちゃうし、会えなくなっちゃうから少しでも長く一緒にいたくて…」
「それを言われると俺も弱いなぁ…でも、頑張るって決めたんでしょう?」
「うっ、そうだけど…」
今の駄々っ子モードのほなみさんはだいぶ揺れてるらしい。ふむ、どうしたものか。
「…わかりました、じゃあ、こういう約束をしましょう」
「約束?」
「えぇ、約束です。その内容は、『一日一回その日の夜に俺と電話できる』です!」
ババーン、と言い切った俺だが、なんというか、こりゃまた変な約束だな…いや、実はこれは結構良い考えと思っていて、これまではメールで報告や連絡をしてきたがそれが電話、つまり声を介してやり取りをすることで情報共有がしやすく、且つ、何か失敗や挫折した時のメンタルケア的な役割にもなるのだっ!…という建前が今思いつきました、はい。
「それは…」
さぁ、どうだほなみさん。何か言ってくれ。こうも自慢ありげに言ってしまうと恥ずかしいんだ。いったい、今日だけでどれだけ恥ずかしい事を経験すればいいんだろうか。
「電話していいって事ですか!?孝文さんと、夜に!電話を!?」
うぉ、めっちゃ乗ってきた。
「そ、そういう事です。電話していいですよ。もちろん無理にする必要はないですけど」
「やったっ!私、これからもっと頑張れそうです!」
「そ、そうですか、それはよかった」
「はい!それじゃあ早速、今日電話してもいいんですよね!」
「あ、はい。大丈夫ですよ」
「わかりました!孝文さん!お家に帰って電話していいタイミングに連絡してください!待ってますね!」
「はい、わかりました」
「それじゃ、明日の準備してきます!今日は、ありがとうございました!大好きです!」
そう言うとほなみさんはパッと手を離し、店内へと駆けていった。まるで嵐のようにアッサリとした去り際だった。まぁ、駄々っ子モードが解除されてよかった。…うん?しれっと大好きです、って言われたよな。抜かりないな、ほなみさんは。
「さて、帰るか…」
こうもアッサリしていると名残惜しさすら感じる事無く、俺は帰路に着く事ができた。
その日の晩、ほなみさんから電話が掛かってきて、それはもう元気に喋る喋る。楽しそうに喋るものだから、俺まで楽しくなっていた。
これが毎日続くのか。楽しくなりそうだな。
俺はそんな事を思いながらその日の電話を終え、楽しいような、ちょっと浮かれた気分のまま寝るのであった。
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