脱サラ編 第八話

 少し開いたカーテンの隙間から朝日が室内を薄く照らす明け方の時間帯。窓の外からはチュンチュンと鳥のさえずりが聞こえてくる。

 目を薄く開き、半覚醒状態の寝ぼけた顔で欠伸をしながらベッドからゆっくりと起き上がった俺は、枕元に置いてあったスマホを見る。時刻は5時59分。目覚ましのアラームが鳴る1分前だった。

 ベッドに腰かけた状態で大きく伸びをすると、スマホからアラームが鳴る。アラームを止めると、立ち上がり部屋を出て洗面所へと進んでいく。

 今日は退職日だ。7年務めた会社を辞める日だ。どうしてこういう日にはアラームが鳴るよりも早く起きてしまうんだろうな、と疑問に思いながら朝の出社支度をする。

 いつものように起きたらすぐにシャワーを浴びて、寝ぼけた顔を強制的に引き締める。その後はニュースでも見ながら朝飯を食べて、着替える。着替え終わる頃にはそろそろ家を出ないといけない時間になるので、少し急ぎめに家を出て、バイクのエンジンをかける。

 セルの音がキュルキュルと軽快に鳴ったかと思うと、2気筒特有の太鼓を鳴らすようなエンジン音が朝の清々しい空気と混じって不規則なアイドリングを始める。

 そこで俺は、懐からタバコを取り出し火をつける。エンジンを暖気させる時はタバコ1本吸うくらいの時間が丁度いい。

 ガソリンの匂いをほのかに感じながら吸うタバコは格別の美味さだ。いつも以上に美味しく感じてしまう。


 タバコが短くなってくると、不規則だったアイドリング音が落ち着いてくるので、暖気はそろそろ良い頃合いだろう。タバコの火を消し、ヘルメットを被ってバイクに跨る。

 下から突き上げるような振動を感じながら、クラッチを切り1速に入れる。カコンッと心地良い音だ。今日もバイクの調子は良さげ。さぁ、最後の出社といきますか。

 軽快に走り出した俺は、最後の出社をバイクと共に楽しんだ。



 会社に着き、作業着に着替え事務所へ向かうといつも通りパソコンを起動してメールチェックを行う。

 普段なら業務依頼や進捗確認やらのメールが多い俺のメールフォルダだが、今日は少し違った。

 クライアントや同業者、別部署の人たちから俺の退職に対する挨拶メールが届いていたのだ。嬉しい事だが、件数が多いので少し戸惑ってしまう。

 一通り目を通すと、朝礼の時間になっていた。部長が前に出ると全員立ち上がる。


「えー、朝礼を始めます。まず最初に連絡事項ある人いますか。」


 いつも通りの部長の言葉から朝礼は始まる。特に無いようで全員口を閉ざしたままだった。


「無ければそうだな、喜多、前に来て。」


 おっと、退職の挨拶は朝礼でやるんだったな、忘れてた。

 前に出ると全員がこちらを見てくるので戸惑う。何を言ったものか。あまり喋らず、短めにしよう。


「あー...おはようございます。今日が最後の出社日となった訳ですが...なんかあまり実感がありませんね。なんせ7年間もここで働いていたわけですからね。ひとまずは、7年間、ご指導ご鞭撻有難うございました。今日は定時までは会社にいるので、何かあった際は定時までにお願いします。改めて、有難うございました。」


 なんか締まらない挨拶だったが、まぁ良いだろう。こういうのは苦手なんだよ。


「じゃあ、他に何かある人いますかー?」


 そういえば、昨日耐久機壊れたこと全体には報告してなかったな。


「すみません、さっきの挨拶とは関係ないんですが、昨日の晩耐久試験機の軸受け部が欠損していたんですよね。壊れていた試験機に関しては修理したんですが、他の試験機も作った時期が同じなのでそろそろガタがき出すと思うので注意して下さい。」


 全体報告すると、静寂な雰囲気からどこかクスクスと笑い声が聞こえる。何か間違えたかな。


「最後に業務報告とは、喜多は相変わらず仕事人間だなぁ!」


 須藤さんに茶化された。しょうがないだろう、壊れたのは事実なんだから。

 そんな雰囲気で、朝礼はお開きとなった。



 退職日は、いつもより忙しい一日となった。

 業務としては引継ぎや手順書の作成は終わらせているので、他の人たちの業務の手伝いを主体として過ごしていたが、設計や技術、品証の俺と関わりのあった人たちが訪ねてきては惜しむ言葉を残していく。今生の別れでは無いので大げさだとは思ったが、会社という枠組みから外れるわけだからこれから合わなくなる人もいるだろう。人が来ては手を止め話し、去ってはまた手伝いを再開し。また人が来ては...といった具合だ。

 休憩中も、昼休みも、人が来ては対応していた。まったく休んだ気がしなかった。まぁ最終日くらいいいだろう。今日さえ乗り切れば自由だ!


 忙しなくも楽しい時間というものは存外あっさりと過ぎていくもので、気が付けば午後3時、定時の2時間前となっていた。

 いつもであればこの時間は定時前最後の休憩の時間だ。最後くらい1人で静かに休憩でもするか?などと考えているとやはり声を掛けられる。


「喜多くん、休憩はもうしたかな?」

「おや、青央(あお)さんじゃないですか、まだ休憩はしてないですよ。」


 この人は青央(あお)さん。同じ部署の先輩で、いつも爽やかな笑顔で皆を和ませる好青年キャラな人だ。車とバイクをこよなく愛する人で、一度その話題を出してしまうと止めるまで話続けてしまうのである意味要注意な人でもある。


「それじゃ、一緒に休憩しない?」

「わかりました、行きましょか。」

「最後くらい奢らせてね?」


 笑顔で青央さんはそう言うと、試験棟の出口に歩いていく。

 在職中最後の休憩はこの人とか。話が長くならなければいいが。




 奢ってもらった缶コーヒーを開けつつ、タバコを取り出し火をつける。あぁ、今日もタバコが美味しい。

 青央さんは炭酸水を買ったようでプシュ、っと良い音を立てて開けるとゴクゴクと美味しそうに飲んでいた。ほんとに美味しそうに飲むな、この人は。


「それで、喜多くんは仕事辞めてから何かやる予定はあるの?」

「やりたい事があるので、ひとまずはそれを目指していきますよ。」

「ほぅ、やりたい事って?」


 やはり聞いてくるか。みんな知りたいものなのだろうか。


「田舎に土地でも買って、動物を飼いながら自由に暮らしたいんですよ。」


 それを聞くと青央さんは意外そうな顔をした。


「へぇ、田舎暮らし!いいねぇ、楽しそうだ!...でも、ちょっと大変そうだね。」

「まぁ、多少は大変でしょうね。でも、楽しければいいんじゃないですかね。少なくとも俺はそう思ってますよ。」

「そうか、楽しければいい、かぁ...。喜多くんは年下なのにボクよりもしっかりしてるよねぇ。」

「どうでしょうね、自分の事をしっかり者だとは思ったことは無いですけどね。」


 すると、青央さんは思い出したかのようにハッとした表情を浮かべる。


「じゃ、じゃあバイクはどうしちゃうの?土地買うってことは引っ越すんだろうけど、もしかして売っちゃうの?」


 そうか、バイク。通勤で長い事使っていた俺の愛車。田舎暮らしをする上で足となる乗り物は必要だろうが250ccのバイクでは場所も取るだろうし少々勿体ない気もするな。

 そもそも俺のバイクはもう既に走行距離8万キロを越えているので、そろそろ寿命だろう。大事に乗ってはいるものの、エンジンをオーバーホールしているわけでもないし、確かに最近は調子は良さそうだがガタがき出すのも時間の問題だ。

 いくら大切に乗っているとはいえ、この機会に手放すことを選択するのも良いだろう。


「そうですね、多分手放すと思いますよ。田舎暮らしとなると250ccのバイクよりもそれなら軽自動車のほうが良いでしょうし。バイクでも原付くらいが丁度いいでしょうから。」


 すると青央さんは残念そうな顔をする。まぁ車とバイクをこよなく愛する人だからな。そういう顔もするだろう。


「そうかぁ、売っちゃうのかぁ。勿体ないけど、しょうがないか...ボク、喜多くんのバイク好きだったんだけどなぁ...」


 私のバイクが好きだった、か。そういえば「喜多くんのバイクは愛を感じるんだ!」みたいな事を言っていた気がするな。

 ふと、思いついたことがある。


「俺のバイク好きなら、いりますか?」

「えっ!?」


 そう、青央さんにあげる。これもまた手放す以外の選択だ。バイク好きの人に渡ればさらに愛してくれる事だろう。


「いいのかい?喜多くんはあのバイクをすごく大事にしていたじゃないか!」

「いいも何も、青央さんならもっと大事にしてくれるでしょう?バイク屋に売ってどこぞの馬の骨とも知れない人に乗られるよりずっとマシですよ。」

「そ、そうなのかな...」

「別にお金を取ろうとしてるわけでも無いですよ。バイク屋に売ってもたいした額にもならないでしょうし。」

「そんな事ないさ!喜多くんはバイクを大事にしていたし、良いカスタムをしているんだよ!」


 確かに、複数個所カスタムをしていた。

 レバー類や電飾類などの細かい部分も変えているし、ステップも変えている。マフラーだってフルエキに変えている。他にもエアクリや...といった具合で、多くのカスタムをしていた。パーツ単体で売ればそこそこ良い値段になるだろう。


「なにはともあれ、いりますか?俺のバイク。」


 青央さんはムムムと顔をしかめながら悩んでいる。

 まぁぽっと出の案だ。別にいらなければそれでも構わない。


「……ぉう。」

「え?」

「貰おうっ!!」


 ぅおびっくりしたぁ。急に大きな声を出さないでほしい。


「え、いいんですか?」

「貰おう!50万出す!」


 んなアホな。俺のバイクは新車で70万だぞ。走行距離8万キロの中古オンボロバイクに50万は出しすぎだ。


「いやいや、そんなにいらないですよ。むしろ出しすぎですって。」

「いや!あのバイクにはそれだけの価値がある!」

「いやいやいやいや...そもそもお金いらないですよ。」

「いいや!譲り受ける以上はお金を払うのは当然だ!」


 なんだこの人暑苦しいな。とはいえ、本当に売るために提案したわけじゃなかったんだがなぁ...

 まぁ、流石に無料だと申し訳ない、ってことだろう。


「じゃ、10万でいいですよ。」

「いや、40だ!」


 下がっとるがな。……いや、このまま粘れば良い感じに安い値段で売れるのではないだろうか。


「じゃあ、15」

「35!」

「20」

「30!」

「25」

「25だ!……あれ?」

「はい、25万でハンマープラァーイス」

「んなぁぁぁぁ!?」


 まんまと罠にはまった青央さんは、私から25万でバイクを買う事となった。まぁ、25万でも十分高いとは思うんだけどね。


「いやぁ、まんまとはめられたよ。とはいえ、いいのかい?25万で。」

「むしろそれはこっちのセリフですよ。」

「いいもなにも、あんなにカスタムされているバイクが25万なんて安いくらいだよ!」

「ならよかったです、壊れるまで乗り回してやってください。」

「もちろん!大切に乗らせてもらうよ!」

「あ、とはいえ、土地買えるまでは足としてバイク使おうと思ってるので、まだ先の話になるとは思いますよ。」


 不動産屋を巡るのにバイクは必需品となるだろう。車でも持っていれば楽だったんだろうけどね。

 …そうか、車か。田舎に引っ越すとなると早めに買っておく必要あるなぁ。不動産屋に車屋。これから忙しくなりそうだ。


「あぁ、もちろん理解してるさ。25万円握りしめて待っているよ。」

「いや、くしゃくしゃにしないで下さいね。」

「冗談だよ、冗談。」


 この後は、青央さんと軽く雑談して休憩は終了、各自戻っていった。

 




 事務所に戻ると自分の席に座り、退職の挨拶メールを書くためにパソコンでメールソフトを立ち上げる。

 さて、どう書いたものか。まぁ本日付けで退職することとなりました、みたいなこと書けばいいか。


 こうして、俺は定時までの残りの時間を挨拶メール作成に費やした。

 費やした、と言ってもネットで調べてみれば退職挨拶メールのテンプレなんてそこらじゅうに転がっていたので、書くことは用意だった。

 今の時代は便利だね、ネットで調べればなんでも出てくる。ありがたいことだ。


 残りの時間はパソコン内に入っているデータの整理を行っていた。いらないデータは削除し、今後使うであろうデータは整理して見つけやすいように。

 そうこうしていると事務所にぞろぞろと人が帰ってきた。時計を見上げると定時間際になっている。


「喜多、ちょっと来てくれ。」


 部長から呼び出された。何事か、と思って部長の元へ行くと、小さめの花束を持っていた。


「喜多、7年間ありがとうな。頼もしかったし、ほんと助かったよ。やりたい事、ちゃんと叶えるんだぞ?」


 部長はそう言うと、俺に花束を渡してくる。今まで退職者は何人かいたが、花束渡すイベントなんてはじめて見たぞ?


「わざわざありがとうございます…時間はかかるでしょうが、頑張るので応援しといてください!」


 部署内から拍手が起こる……部署内だけにしては拍手の音大きくないか?

 あたりを見渡すと、品証や設計の何人かも拍手をしている。ありがたいけど、少し恥ずかしいな。


 すると、定時を知らせるチャイムが鳴る。このチャイムを聞くのもこれで最後か。

 チャイムが鳴り終わる事には拍手も小さくなり、皆解散となっていた。なんというか、こういう事するくせして解散する時は一斉に解散するよな。


 パソコンの整理も終わっているし、やる事はもうやった。見送られながら、とか面倒臭そうなので、バレないようにシレっと帰ってしまおう。湿っぽいのは嫌いなんだ。

 早々にパソコンをシャットダウンすると、静かに閉じる。そして、静かに事務所を出て行った。


 さて、帰るか。なかなか面白く、濃い7年間だった。

 俺はそんな事を思いふけりながら、最後の帰路に着くのだった。


~ 脱サラ編 完 ~

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