角砂糖をひとつ。(SS集)

Losno

楽園の成人式


 ぱちり、それまで動こうともしなかった扉が前触れもなく開いて、その先のきらきら輝く瞳を映し出します。

 いつぶりの光か、どうやらずっと眠っていたようです。


 やけにほこりっぽいベッドの表面は、すっかり老朽化が進んでおり、ただ、上半身を起こすという動作にすら耐えられず、めきめきと音を立てて崩れ落ちます。

 二度寝は許してくれないようです。

 仕方がないので、起きることにしました。


 辺りは人影が見当たらず、古い病院の中のようでした。ベッドから立ち上がり、辺りを探索し始めます。

 はて、自分はこの病院で、どうしてここで眠っていたのだろう?

 全く身に覚えがありません。おまけに、看護師や医者、患者の姿は誰一人として見かけません。まるで元から誰もいなかったかのような静けさでした。

 辺りは地上の光が届かず、なかなか周囲が見えにくい状態でしたが、しばらくすると、その暗さにも目が慣れてきて、次第に壁に突き当たる思いをしなくなりました。


 今は何年の、何月何日だろうか。そう思って、カレンダーを探してみました。

 同じ階の受付に、カレンダーが落ちているのを見つけました。しかしどうにも傷んでおり、とても文字が読めるようなものではありません。おまけにほこりと土が大量についています。

 受付からのぼりの階段に至るまで、ずっと非常用電源がついては消えてを繰り返していました。もう寿命なのかもしれません。

 人のいない、廃病院のようです。


 しかしそれが妙に心地良いものでした。

 あちこちほこりっぽく、おまけに土まじりで、足元が土で汚れてしまうものははじめは気持ちのいいものでもありませんでしたが、やがて時が経つにつれて、そんなのも悪くないように思え、まるで土遊びをする子供のように、足で土をいじって遊んでいたりもしました。

 ときたま、話し相手を欲する気持ちになりますが、病院内に残されたいくつもの汚れた本を眺めていると、どうでもよくなります。

 経年劣化で傷み、解読できるものはほとんどありませんが、いったいそれがどんな内容の本だったのか、色々な仮説を組んで考えるのも一興であったのです。


 不思議と、お腹が減る感覚はありません。長いこと眠っていたので、空腹という概念も忘れてしまったのかもしれません。とりあえず、万が一のことを考え、食料を探すことにしました。

 結果、地下に長期にわたって冷凍保存されていた保存食をいくつか見つけることができました。水は、容器入りの凍らされたものを解凍してあげれば、飲むことができるかもしれません。

 最低限の食事を確保したところで、次は衣服です。

 今着ているのは、これも経年劣化で傷んで薄茶に変色してしまった病人用のパジャマです。今なら手で破くことも容易い布きれにすぎません。

 新しい衣服を調達することにしました。

 受付や、スタッフ専用の更衣室に忍び込みます。大丈夫、もうそれをとがめる者は誰もいません。

 誰も使われなくなって久しいロッカーが、一つ一つ丁寧にあけられていきます。

 蝶番が古く、扉を開けたとたん外れて壊れてしまったものさえあります。

 そしてその中から見つけられたのは、スタッフがこの病院に通う時に来ていた私服がいくつかほこりを被って放置されていました。

 とても着たいとは思えないみすぼらしいものでしたが、今の布きれに比べればシルクの服も同然です。

 しっかりしわや汚れを落として、着こなしてみます。どうやらサイズが大きいようです。

 不必要な布はたくしあげ、ピンでとめることにします。ロッカー内のカバンに、いくつかバッジが残されていましたから、探す手間はありませんでした。

 衣服がすんでしまえば、最後に残されたのは住居です。

 しかし、人がいない今、この病院は自分の家も同然です。

 何十人も入れることが出来る病院全ての部屋を独り占めできます。

 ああ、なんともったいない! かつては富豪の大きな住宅に憧れを抱いたこともありましたが、こうして手に入れてみれば、存外面倒くさいことが多くて、それはそれは金持ちの悩みを体験した気分になれて気分が良いものです。

 

 上の階に残された、古い時代の液晶を軽く指先でなぞりました。

 反応はありません。かつてのそれも、十年も持たない短い寿命の中で稼働していたと聞きますから、動かないのも無理はありません。

 もしかしたら偶然生き残っている個体がいて、奇跡的に動かすことが叶うのなら、何か情報が得られるのではないかと思ったのですが、残念ながらそう上手い話もありませんでした。


 暗い廊下はすでに慣れきってしまいましたが、しばらく浴びていない光が少しだけみたくなりました。

 それから幾日かが過ぎ、院内の古ぼけた本は全て制覇してしまいました。

 中身はほとんど真っ白けで読んだとは呼べない代物ですが、様々な仮説を元に本の内容を自らの想像のみで生み出したものを、全て読破してしまったのです。

 それらを読むのは楽しいものではありましたが、同時に自分の想像力に限界を感じて、疲れてしまったのです。


 今度は院内の掃除を始めました。

 掃除用具入れの中に、まだ使えそうなほうきを見つけたので、それでほこりや土をまとめます。

 まとめたら、地下の無人の倉庫にぶちこんでしまいます。

 土をいじって遊ぶ感覚も悪くありませんでしたが、今の服装では、土で遊ぶのに適切ではありません。

 短い間の相棒に別れをつげ、倉庫の扉を閉めました。きっと、ここに訪れることはもうないでしょう。

 ふと、自分はなぜここにいたのか再び考えるようになりました。

 鏡でみてみると、確かにそこに映っていたのはよく知る自分の立ち姿でした。

 病院にいたということは、何か病気や怪我があったということなのでしょうが、一体どんな経緯でここに来たのか覚えていません。


 ああ、そういえば、成人の儀式を直前に控えていたことだけ覚えています。

 というと、十九歳、ということになるのでしょうか。

 なるほど、じゃあ、悠長に本を読んでいたり、掃除をしている場合じゃないのかもしれません。

 ところで、今は何年経ったあとの世界?



 前時代に戦争がありました。

 さらに前の時代は平和のようでそうでない何かに包まれていました。

 謎の閉塞感はまるで深い深い海の底にいるようでした。もしかしたら息継ぎをする前に、圧力で押しつぶされてしまうかも。


 深海時代は、穏やかであると同時に、嵐の前の静けさを感じました。

 新しく生まれた火の産声は、瞬く間に深海の闇に降り注ぎ、やがて深海の底を埋める砂となりました。

 それが何年も何十年も続きました。

 やがて深海が浅瀬に、浅瀬が陸地に生まれ変わり、地上に顔を出しました。

 そこで、初めて海の外の光を知るのです。

 初めて心穏やかな空気を吸えることを知るのです。

 誰にも邪魔されず、明るい光に照らされて静かに暮らせることを、地上に顔を出して初めて知るようになりました。


 しかし、その喜びを分かつ者はもうどこにもいません。すっかりひからびてしまいました。

 やがて風と共に流され、宙を漂っていることでしょう。

 深海がどこよりも平和であると信じて疑わなかった者達が、本当の楽園に辿り着いたのです。

 本当は深海よりももっと上、高いところに楽園があるのではないかと、勇気を振り絞って進んだ記憶があります。

 そして、止められたのです。


 止めにかかった手を全て振り払って、浅瀬に向かってみましたが、それはきっと自身の体に耐え難いものでした。

 楽園を目指して志半ばで挫折してしまった。

 高いところから転落してしまった『私』は、長い間ずっと眠ってしまったようです。

 大人になる儀式を直前に、深い深い眠りにつき、そして何十年もの時が流れました。


 十九で時がとまったまま、周りの時間だけが過ぎていきました。

 本当の体は、とうに朽ち果ててしまったのかもしれません。

 もしかしたら、どこの誰かも分からない他人の体を借りているのかも。そうでなければ、今頃時間の流れに遮られ、とうに砂になってしまっているからです。


 これは自分の体をよく模したレプリカ。

 ですが形あるものはいずれ壊れます。長年地下で眠り続けていたためか、比較的外傷はありません。しかし、これからいつ壊れてしまうか分からない体です。

 それならば、この何年もの間、成し遂げられなかったものを遂行して、眠りにつきたいと思います。



 国はとうにありません。朽ちて大地の餌になりましたからね。

 地下一階から、階段をのぼりました。ここは、地下に作られた病院。争いを免れるために、人々が逃げ込む場所でした。


 地上に出ると、緑覆い茂った森が広がっていました。木々の間から、久しく目にしていなかった青空を仰ぐことが出来ます。

 どのような言葉で開き、どのような言葉で締めくくれば良いのかは、分かりません。


 しかし、この大地に踏み出し、深海から、それまで憧れていた楽園へ辿り着いたこの瞬間に、十九から、二十へと生まれかわりました。

 なんとも不思議な感覚。だって眠りにつく前と変わらない、よく出来た体で動いているのだから!

 改めて思うと凄いことです。

 今はなき小さな国の、おぼろげな記憶に残る歌を一人歌い、式を締めました。

 


 誰もいないけれど、立つ姿はどこか晴れ晴れとした様子で、空を仰ぎました。

楽園に降り立ったたった一人の成人式がここに終わりました。

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